◆第二話『黒く染まる空』
先陣を切って眼前に現れたのはアビスだった。
一匹ではない。
大陸の縁から見えていた空が、ほぼ真っ黒に染まるほどだ。
いまも大陸が落ちつづけ、地上に近づいているとはいえ、これほどの数が一斉に襲ってくるとは思いもしなかった。
こちら側の動きを察知していたのだろうか。
シグル側も本日を決戦の日と定め、準備していたとしか思えない。
アビスが翼をはためかせながら、小さな体を活かして空を飛び回りはじめた。
防壁へ向かっていくものや、騎士に襲いかかるものなど好き勝手に動いている。
「クティッ!」
『あいっ』
ベルリオットはクーティリアスに呼びかけたあと、近くのアビスへ向かいながら軽く指を曲げた両手を縦にあわせた。わずかにできた手の隙間に、すぅと光が集まっていく。生成されたのは柄に翼の装飾が施された天精霊の剣だ。それをぐっと握りしめ、アビスに肉迫するなり勢いよく振り下ろした。
両断されたアビスが金切り声が響かせ、黒い靄と化して消滅していく。
アビスは下位のシグルだ。
斃すのはたやすい。
だが、一体だけ斃したところで敵の攻勢に影響はない。
それほどの数が押し寄せてきているのだ。
すでに防壁周辺ではほかの騎士たちも交戦を開始している。
相手が下位のアビスとあって怯んでいるものはいない。
だが、この数が相手では息つく暇もないようだ。
一体ずつ相手にしていてもきりがない!
ベルリオットは手に意識を集中させた。
自身の中に巡るアウラを天精霊の剣のほうへと誘導。切り刃がほの白く光り始めたのを機にアビスの群れへと剣を振るう。虚空を切り裂く鋭い音が鳴った直後、切り刃から剣撃形状の光――飛閃が放たれる。
猛烈な勢いで空を翔けたそれはアビスの群れへと食い込んだ。接触したアビスから次々に消滅していく。そのたびに耳をつんざくような慟哭が辺りに響く。
十体程度を巻き込んでも飛閃の勢いは衰えない。ついにはアビスによって黒く染められていた空に穴が開いた。本来の青い空が垣間見える。が、それは一瞬だった。さらに追加で上がってきたアビスによってふたたび黒く塗りつぶされてしまう。
まるで終わりが見えない。
だからと言って手を下ろすつもりはないが――。
いますぐにすべてのアビスを葬ることは不可能だという認識は持つべきだろう。
斃しそこねたアビスはうしろの騎士たちに任せる。
そして自分は前線で暴れて出来るだけアビスの数を減らすことに専念したほうがいい。
そう判断したベルリオットは、外縁部から大陸圏内に侵入してきたアビスの群れへと突っこんだ。外縁部をなぞるように飛行。飛閃を放ちつつ、剣を振り続ける。
剣が振られるたびに十数体のアビスが消滅していく。
もっとだ、もっと一気にッ……!
ベルリオットはアビスとの戦闘を続けながら意識をはるか上空へと向けた。
脳に痛みが走り、思わず顔を歪めてしまう。
これだけは何度体験しても慣れないが、我慢するしかない。
外縁部から少し距離を置いたと同時、アビスに巨大な影がさした。
アビスの上空に一定距離を置いて浮遊する、五つの巨大な青色結晶塊。
ベルリオットが造り出した神の種だ。
「っちろぉおおおお――ッ!!」
叫びながら、剣を振り下ろした。連動するように五つの神の種が落下をはじめる。骨に響くような音を鳴らしながら、神の種は逃げ延びようとするアビスを巻き込んでいき、地面に激突。凄まじい轟音を響かせた。砂塵がはるか上空まで巻き上がっていく。
おそらく部分的だとは思われるが、大陸が揺れたのだろう。
後方の騎士たちによるどよめきが聞こえてくる。
辺りを覆っていた砂塵が、その色を徐々に薄めていく。
敵の戦力をどれほど削れただろうか、とその光景を見つめながらベルリオットは思う。
ふいに砂煙の中から黒い球形状のなにかが飛びだした。こちらに向かってくるそれは、人ひとりを簡単に呑みこんでしまうほどの大きさを持っている。
思考する間もなく黒球は眼前に迫ってきた。
ベルリオットは半ば反射的に剣を振った。縦に両断された黒球が後方へ流れ、音もなく霧散する。
この攻撃は……。
ベルリオットは眉根を寄せながら、黒球が飛んできたほうへと目を向ける。
ちょうど砂塵が晴れるところだった。
黒球を放ったと思われる相手の姿があらわになっていく。
それは巨大な体躯を持っていた。うねるように伸びた長い首に、刃物を思わせる頭部。鋭い鉤爪を生やした、たくましい四本の足。まるで鞭のようにしなりながら宙を踊る細長い尻尾。ひとたび羽ばたけば突風を巻き起こす雄大な翼。
この姿は間違いない。
ドリアーク……!
すでに通常の《災厄日》とは比較にならないほど高度は下がっている。
そのうえ、いまだ高度を下げ続けているのだ。
ドリアークが現れたところでなにもおかしくはない。
見渡せば、ほかの場所からもドリアークが縁の外側から顔を出していた。次々と大陸圏内へと侵入してくる。
ざっと数えただけでも三十は超えているだろうか。
その背後から無数のアビスが続いて舞い上がってきた。
先ほど神の種でかなりの数を斃したはずだが、どうやらまだまだ後続が控えているらしい。愚痴をごぼしたいところだが、そうも言っていられない。
こちらを威嚇するように前方のドリアークが哮った。
その巨躯を風の衣で包みこむと、突撃をしかけてくる。
すぐさまベルリオットは迎撃せんと剣をかまえる。
と、すぐそばを薄赤の光を纏った騎士が翔け抜けた。
ティーアだ。
彼女は長めに造った槍を手にドリアークに肉迫するやいなや、攻撃を繰り出す。一度目で風の衣に穴を空け、二度目で敵の肉を穿つ、二連の突きだ。
ドリアークが動きを止めた。
雄雄しくはばたいていた翼も力なく垂れている。
そのまま落下をはじめたドリアークが地面に激突した。
無数の黒い粒と化して霧散していく。
ティーアの槍術は相変わらず見事だ。
ここが戦場でなければ間違いなく見とれていただろう。
「援護させてもらうぞ、主!」
「ああ、後ろを頼む!」
話している間も、もちろん手は止めていない。
互いに背をあわせながら、向かってくる敵を迎撃していく。
視界のはじで幾度となくアビスの姿がちらつく。いくら脅威度が低いとはいえ、玉砕覚悟で突撃してくるため、放置するわけにもいかない。
とはいえ、いまはできるかぎりドリアークに集中したい。
苛立ちを覚えながら、ベルリオットがアビスを振り払おうとした、そのとき――。
眼前に迫っていたアビスが紫の結晶槍でぐさりと貫かれ、消滅した。
貫いたのは、ティーアの妹であるナトゥールだ。
「わたしもいるよ!」
「トゥトゥ、助かるっ!」
背後、側面をトウェイル姉妹が固めてくれる。
彼女たち――アミカスの末裔は、ベルリオットのそばで戦うことによりアウラの質を高めることができる。
すべてはアムールの眷属として血の契約を結んだ恩恵だ。
「トゥトゥ、きつくなったら言うんだぞ!」
「お姉ちゃんこそ、無理はしないでよ!」
「言うようになったな!」
彼女たちは軽口を叩きながらも、迫りくるシグルの群れを退けていく。
頼もしい味方だ。
これなら正面に集中できる。
そうベルリオットが思ったとき、大陸の縁に無数の黒煙がすぅと出現した。それは人ひとりほどの小さなものと、ドリアークと同等の大きさを持ったものの二種類だ。黒煙はひとたび揺らぐと、その姿をある形へと変化させていく。
小さなものは四肢を持った、地を這う格好のガリオンだ。
大きなものはガリオンと同様の体勢で姿をあらわにした。勇ましいと言わざるを得ない立ち姿、頭部から生えた黒々とした一本の角。
それはかつて最強最悪の一角獣と恐れられたシグル――。
モノセロスも来たか……!
モノセロスの群れが一斉に低い咆哮をあげた。
ガリオンもまたそれに倣う。
騒音で満ちる戦場の中であってもそれらはよく響いた。
やがて咆哮が途切れた。
直後、モノセロス、ガリオンの群れが一斉に防壁へと向かって駆けだした。
大陸の縁を埋めつくほどの数だ。
シグル同士に隙間などほとんどないため、まるで巨大な壁が迫ってくるかのようだった。
外縁部から防壁まではそう遠くない。たちまち防壁に到達し、そこで戦っている騎士たちに少なくない被害を与えてしまうだろう。それだけは避けなければならない。
ベルリオットはモノセロスたちの群れへと向かう。
「二人ともついてきてくれ!」
「了解した!」
「うんっ!」
ドリアークやアビスが妨害せんと迫ってくるが、トウェイル姉妹が迎撃してくれる。
ベルリオットは接近したモノセロスから順に斬り伏せていく。昔は苦労した相手だが、いまは精霊の翼や天精霊の剣の力がある。もはや敵ではない。
ベルリオットが通った場所をなぞるように地面が深くえぐれた。
次いで砂塵が巻き上がる。
まだ傷は負っていないし、息も上がっていない。
だが――。
大陸の外縁部では、いまもシグルが出現している。
終わりが見えない戦いを前にし、ベルリオットは奥歯を強くかみ締めた。
みんなは大丈夫なのか……!?
◆◇◆◇◆
モノセロスが猛々しく咆えた。
力強く踏み込み、跳ねるように駆け出す。
開けられた大口からは鋭利な刃物を思わせる歯が覗いている。
その姿はまさに獰猛な獣だ。
エリアス・ログナートは結晶剣を構えながら自らも前へと打って出た。
以前は刃をわずかにめり込ませるだけで精一杯だった。
だが、いまならば――。
「っはぁあああああッ!!」
人ひとりなど簡単に飲み込んでしまうほど大きな口。そこよりも少し上に位置する一角へと剣の切っ先を突きこむ。一瞬の抵抗を感じたあと、がつっという鈍い音とともに角が折れた。
エリアスはさらに剣を押しこんだ。さしたる抵抗もなく、吸い込まれるようにして刃がモノセロスの頭部へと突き刺さる。ついには柄の辺りまで食い込む。
モノセロスが慟哭をあげながら暴れ始めた。このまま貼りついていても振り落とされるだけだ。エリアスは突き刺した剣を地に対して垂直に立てたるやいなや、飛翔した。モノセロスの背を切り裂いていく。
剣が臀部を通り過ぎ、敵の体から離れた。エリアスが振り返ると、ずしんと音をたてて倒れるモノセロスの姿が映った。
どうやら無事に斃せたらしい。
すぅと静かにモノセロスが霧散していく。
その姿を見ながら、エリアスは自分の成長を感じた。
ほっと息をつきたいところだったが、そんな暇はなさそうだった。
ガリオン、アビスが飛び掛ってきているのだ。
すぐさま体勢を整え、迎撃に当たる。
多いとは聞いていましたが、まさかこれほどとは……!
ここ北方防衛線には帝国騎士軍、シェトゥーラ騎士団、ファルール騎士団が配されている。その数は各防衛線の中でもっとも多いのだが……。
エリアスは周囲の様子をうかがった。
戦線は防壁のすぐ近くまで押し込まれていた。
中には、防壁へと頭突きをかましているモノセロスの姿も見られる。
サジタリウス部隊を活かすために敵を防壁まで引き付ける必要があったとはいえ、これは近づかれすぎだ。すでに陣形が崩れた箇所からアビスが入り込み、防壁上に陣取るサジタリウス部隊を襲いはじめている。
いまも、防壁を突破されずに済んでいるのは、ひとえにサジタリウス部隊の遠距離支援があるからだ。彼らを失うこと、それは北方防衛線の陥落を意味する。
無理にでも戦線を押し上げるしかない。
自分がやらなければ、という思いからエリアスは単身で突っこんだ。
直後、右方の上空からこちらに向かってくる黒球をとらえた。とっさに横へ飛び退いた。先ほど自分がいた場所に黒球が突き刺さる。着弾と同時に轟音をたて、大きく地面が穿たれる。
見上げれば、そこにドリアークが浮いていた。
厄介な相手だ。できればすぐにでも排除しておきたい。
そう思ってエリアスは空へ向かおうとするが、複数のガリオンに四方から襲われた。さらにアビスも加わり、地上に押し留められてしまう。
黒球が飛んできた。
それもひとつやふたつではない。どうやらほかのドリアークが寄ってきたようだ。近くの空には最低でも五体の姿を確認できた。
エリアスは必死に黒球をかわしながら剣を振り続ける。
このままではジリ貧だ。
どうにかしなければ、と思った、そのとき――。
上空から耳をつんざくような慟哭がいくつも聞こえた。
体に巨大な穴を開けたドリアークが不恰好な体勢で次々に空から降ってきた。
地上に激突すると同時、弾けるように消滅していく。
エリアスは剣を振る手を止めずに、なにごとかと見上げた。
二人の全裸男が空を翔けていた。
ファルール王の側近を務める、マルコとハーゲンだ。
彼らは互いの手をつなぎ、空いた手でドリアークの全長に勝るほどの巨大な槍を持っていた。それを二人で構えながら、前方に残っていたドリアークへと突っこんだ。
風の衣に接触した部分から槍が削れていく。
だがあまりに巨大なため、削りきる前に槍が風の衣を突破し、ドリアークの体を貫いた。
ドリアークが墜落し、消滅する。
おそらく上空にいたドリアークを斃してくれたのも彼らだろう。
「下がられよ、ログナート殿!」
そう発言したマルコたちの後方から、浅黒い肌をした集団があらわれた。
男女関係なく彼らは自らの体を余すことなく露出している。
言わずもがな、全員がナド族だ。
彼らは横並びになって両手を前へと突き出した。彼らの前面に大量の燐光が集まっていく。やがて一瞬の煌きを残し、結晶へと変貌する。
生成されたのは、防壁に勝るとも劣らない巨大な壁。
ナド族が誇る秘術。絆の障壁だ。
異変を感じとったのか、一体のドリアークが絆の障壁へと黒球を放った。
が、穴ができるどころか傷ひとつついていない。
相変わらず凄まじい硬さだ。
ナドは絆の障壁を盾に空の戦線をゆっくりと押し上げていく。
「た、助かります……っ」
いまは戦闘中だ。
恥ずかしがっている場合ではない。
そう心で言い聞かせたものの、エリアスは思わず目をそらしてしまう。
マルコたちが絆の障壁前でドリアークを相手にしながら叫ぶ。
「空は我らナドが抑える! ログナート殿には地上の敵を排除してもらいたい!」
「了解しました!」
視線を上げにくくなったものの、空からの攻撃は心配しなくてもよくなった。
エリアスは前方のシグルの群れへと翔けた。地上を這うモノセロスやガリオンに的を絞り、排除していく。
陣形が崩壊した箇所の援護にも回ることで戦線を徐々に押し上げた。
決して楽ではない。
だが、なんとか戦線を維持できている。
この調子なら……!
そうエリアスが慢心とも言える感情を抱いたときだった。
ぐん、と視界が揺れた。
いったいなにが起こったのか、すぐには理解できなかった。
だが、地面との距離が開いていたことで、ようやく理解できた。
大陸の落下速度が上がったのだ。
おそらく飛翔核に溜まっていた、大陸を浮かせるためのアウラがもうほとんど残っていないのだろう。つまり大陸が地上に激突するときも、そう遠くないということだ。
大陸から離れないように飛行しながら、エリアスはシグルとの戦闘を続ける。
と、視界のはじでなにかがちらついた。
それは外縁部側から猛烈な勢いでこちらへ向かってくる。
近づくにつれ、人と同じ形をしていることがわかった。
紫に光る眼球以外、全身は真っ黒。
後頭部からは細長い角が垂れ、先は腰辺りで後方へとはねている。
間違いない。
あのシグルは――。
ベリアル……!
エリアスはすぐさま対峙していたモノセロスを突きとばすや、ベリアルのほうへと体を向けた。なんとか敵が来るまでに体勢を整えようと思っていたが、すでにベリアルは眼前にまで迫っていた。指先から伸びた針の如く鋭い爪を突き出してくる。予想以上に速い。エリアスはなんとか剣を撃ちつける。
競り合いになるだろうと思い力を込めたが、がくんと前へ倒れそうになった。ベリアルが手を引いたのだ。しかも、すぐさま再攻撃をしかけてくる。敵の爪先が眼球へと届く直前で、ようやく剣を割りこませる。少しでも遅れていたら目を貫かれていた。腹の底が冷え込んだが、それに構っていられる暇などない。
ベリアルによる連撃が続く。
エリアスはなんとか応戦できてるものの、完全に後手に回る格好だ。
力任せに攻めてこない。
また巧みに連携を織り交ぜてくる。
ほかのシグルとは違う。
ベリアルには知能があると聞いていたが、まさにその通りのようだ。
厄介なことこの上ない。
ベリアルと撃ち合いながら、周囲の戦況をうかがった。
どうやら大陸に上がってきたベリアルは一体ではなかったらしい。ちらほらとその姿を見つけることができた。数こそ多くないが、ほかのシグルとは比較にならないほど高い戦闘能力を持っている。一体につき十数人程度の騎士が対応にあたっているものの、どこも苦しい状況だ。
気づけば、せっかく押し上げた戦線がふたたび崩壊しはじめていた。
このままでは北方防衛線が落ちるのも時間の問題だ。
どうすれば……!
エリアスは苛立ちながら剣を振るった。冷静をかいた攻撃だ。ベリアルに当たるはずもなく、あっさりと躱されてしまう。
視界に嘲るように口を歪めた敵の顔が映る。
ふいに、その顔にまばゆい光が差した。
ベリアルが腕で目を覆い、わずかにうろたえる。
日差しだろうか。いや、それならいままでもあったはずだ。
もっと明るい光。
エリアスの足もとに影が落ちていた。それは前へと伸びている。
光の出所は後ろのほうからだ。
エリアスはベリアルを警戒しながら、半身になって後方をうかがった。
瞬間、思わず目を瞠ってしまう。
大陸の中央。
王都と思われる場所から天に向かって光が昇っていたのだ。
それは柱となり、充分な高度まで到達すると、天辺部分から弾けるようにして全方位に散っていく。無数の粒となった光が膜を張るように半球形状に広がっていくと、ついには外縁部まで到達。大陸の全土を覆いつくした。
「こ、これは……!?」