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天と地と狭間の世界 イェラティアム  作者: 夜々里 春
第五章【狭間の王・後編】
119/161

◆第十一話『天精霊の剣』

 黒い影から聞こえた声は聞き覚えのあるものだった。

 うぶ毛を逆立たせるような、不快なだみ声。

 ベルリオットはごくり、と生唾を飲む。


 ガルヌなのか……?


 しかし、目の前の黒い影はとうてい人とは思えない姿だ。

 ただ、炎のように揺らめき、宙に浮いている。

 顔や手足もない。

 中央に紫色の小さな結晶らしきものが見えるが、それ以外は純粋な黒に満ちている。

 デュナムが剣を造りだし、それを杖にみたてて立ち上がった。


「……ガルヌか。そういう貴様も他人のことは言えないだろう」

「ふんっ、あるべき姿に戻っただけだ」


 やはりガルヌだったらしい。

 だが、どのような経緯で、あんな姿になったのだろうか。

 見方によっては弱っているともとれるが、詳しいことはわからない。もしかするとティゴーグ王救出に向かった、イオルやジンに敗れた結果なのかもしれない。

 黒い影が、すぅとデュナムとの距離を縮めた。


「手を貸してやろう」

「必要ない。わたしはまだ戦える」

「その体で……笑わせるな」

「自分の体が、とうに限界に来ていることなどわかっている。だが、それでもわたしは膝を折るわけにはいかんのだ。リヴェティア王を屈服させるためにも、この狭間の世界の王になるためにも――」

「リヴェティア王は、もうおらぬぞ」


 その言葉にデュナムは硬直した。

 話を聞いていたベルリオットも同様の反応をしてしまう。


 リズが……もういない?


 すぐには意味が飲み込めなかった。頭の中が真っ白になった。そのあと色が反転し、真っ暗闇に取り残されたような感覚に見舞われる。

 いま、リズアートは敵の手の中にある。

 その敵が、もういない、と言った。


 ……殺された?


 その言葉が頭の中にちらついたが、ベルリオットは見ないようにした。

 ただひたすらに目をそむけ続けていると、デュナムの声が思考に割って入ってきた。


「……なにを言っている? リヴェティア王がいないだと?」

「貴様が苦戦しておったのでな。この場に来る前に刺客を放ってやったわ。今頃その身を血に染めていることだろう」

「ガルヌ……貴様っ!」


 デュナムが瞳に憤怒を宿し、唇をわなわなさせる。

 ベルリオットは、ガルヌの言葉を聞き逃さなかった。

 奴は、この場に来る前、と言った。

 それならティーアの救出は充分に間に合う。加えて彼女ならば刺客などもろともしないはずだ。それほどの強さを持っている。


 ティーアなら、きっとリズを助け出してくれる……!


 大丈夫だ、と何度も自分に言い聞かせ、ベルリオットはようやく心が落ちついた。

 しかし、デュナムはいまだ取り乱している。


「契約と違うぞ! 大陸が落ちるそのときまで、貴様はわたしの好きにさせると言ったはずだ!」

「それは貴様がわたしを失望させなければ、の話だ。そこのアムールに負けた時点で契約は終わりだ」

「わたしはまだ負けてなどッ――」

「その体、いただくぞ」


 ガルヌが、まるで手を伸ばすかのように影をデュナムに接触させた。直後、影が弾け、無数の黒い粒がデュナムの体を包み込んでいく。


「ガルヌぅ、きさまぁああああ――!」


 渦巻く黒い粒が、ふたたび一つの黒い影にならんと結合していく。

 デュナムの叫び声はもう聞こえない。

 やがてすべての黒い粒同士の境目がなくなったとき、幾筋もの影が放射状にはしった。

 まぶしいわけではないのに、ベルリオットは目がちらつく感覚に見舞われた。思わず目の上半分を腕で覆ってしまう。


 いったいなにが起こっているというのか。

 周囲に散っていた影の線が見えなくなった。

 ゆっくりと目を覆っていた腕を上げる。

 瞬間、ベルリオットは瞠目した。


 なんだ、あれは……?


 黒い翼に包まれた、なにかが前方に浮いていたのだ。

 初めは静かに動きだした黒翼が一気に広げられる。その場を中心に突風が吹き荒れ、辺りに散った瓦礫がベルリオットの体にいくつも当たった。内ひとつが左肩にぶつかり、思わず顔を苦痛に歪めてしまう。


 視界の中では、ふたたびデュナムがその姿をあらわにしていた。

 黒翼をはためかせて地表に近づいた彼は、足をわずかに浮かせた状態で自身の手を見つめている。


「ふむ、悪くはない」


 デュナムの目は、紫色に染められた結晶がそのまま埋め込まれたような、生気を感じさせないものに変わっていた。顔や肉体のあちこちには、紫色をした血管かどうかも定かではないものが浮き上がっている。


 いま、目の前に立つ人物はデュナムであってデュナムではない。

 おそらくガルヌが、その体を乗っ取ったのだということをベルリオットは感覚的に理解した。

 それだけでも驚くべきことだが、いまはそれよりも――。


「黒い、翼? どうして……」

「アムールにできてシグルにできないことはない」

「それでも、なんでその翼が!?」

「別に不思議なことではない。わたしもまた、貴様が同化している者と同じく精霊の類なのだから」


 ガルヌが……精霊?


 告げられた言葉は、あまりに信じがたいものだ。

 ベルリオットは告げられた言葉を反芻してみるが、どうにも飲み込めそうにない。

 なによりクーティリアスと同様の存在である、と認めたくなかった。

 だが、現にガルヌはデュナムに翼を生やすことに成功している。

 精霊かどうかは別にして、精霊と同様の力を持っていると認識して対峙するべきだ。

 ベルリオットは剣をいまいちど両手で持ち直し、切っ先をガルヌに向ける。


「貴様のその顔、解せぬな」


 言って、デュナム――ガルヌがじっとこちらを見つめてくる。


「……そうか。この地に来たのは貴様ひとりだけではないな」


 ベルリオットは、わずかに目蓋を跳ねさせてしまった。


「なるほどな。何者かを別働でリヴェティア王の救出に向かわせたか。しかし帝城内部は複雑だ。たとえ潜入できたとしても、内部をよく知る者でなければ牢獄にたどり着くことすら難しいだろう。そちら側についたジン・ザッパは一度だけ帝城を訪れたことがあるが、あやつはティゴーグにいる。ほかに可能性があるとすれば……トウェイル将軍か」


 帝城に潜入した人物。

 それをガルヌは見事に絞込み、的中させた。

 相手が持っている情報は決して多くなかったはずだ。

 それにも関わらず当てたということは、ガルヌには予想の範囲内だったのかもしれない、とベルリオットは思った。


「なるほど……そうか! そうかッ! やはりあやつめ、完全に寝返っておったか!」


 突然、ガルヌが哄笑しはじめた。

 デュナムの人格であれば、絶対にしないであろう下品な笑い方だ。


「なにがおかしいッ!?」

「良いことを教えてやろう。わたしが放った刺客は、トウェイル将軍を越える力を持っているぞ」

「そんな奴、いるはずが――!」

「ベリアル。シグルの中でも上位に位置する存在だ。いまのわたしの力では長く狭間にとどめることはできないが、リヴェティア王を殺すには充分だ」


 ベリアル。

 かつて、グラトリオ・ウィディールがリズアートの暗殺を目論んだとき、王都を襲撃した黒導教会の手の者がいた。奴らの多くはその身をモノセロスへと変貌させたが、その中にひとりだけ違うシグルに変貌していた。

 それが、ベリアルだ。

 あのときはメルザリッテが対応してくれたが……。


 ――ベリアルですか。これは少々、厄介ですね。


 メルザリッテに、あそこまで言わせる相手だ。

 相応の強さを持っていることは間違いない。

 リズアートを殺した、というガルヌの言葉からようやく平静を取り戻した心が、ふたたび焦りの色に染まっていく。


 大丈夫だ。それでもティーアなら……!


「焦りが見え見えだぞッ、ベルリオット・トレスティングッ!」


 ガルヌが黒翼を大きくはためかせた。

 突風にあおられ、ベルリオットはまばたきをしてしまう。瞼を持ち上げたとき、すでにガルヌは眼前にまで迫っていた。

 精霊の翼を得たためか、これまでとは段違いの速度だ。しかしそれに驚く間もない。敵の振り下ろしはじめた剣が、いまにもこちらの肉を斬らんとしている。剣を割りこませるか。いや、間に合わない――。


 ベルリオットは左方へまろぶようにして回避した。次の瞬間、自分が先ほどまで立っていた場所にガルヌの黒い結晶剣がねじこんだ。石畳に入った亀裂が、黒剣の切っ先方向へと猛烈な勢いで伸びていき、はるか先にそびえる巨大噴水に到達する。同時、周囲の石畳もろとも弾けとんだ。


 圧倒的なまでの破壊力。その力を誇示するかのごとく、ガルヌがこちらを見ながら狂気に満ちた笑みを向けてきた。すでに黒剣は石畳から引き抜かれ、こちらに突きの一撃を見舞わんとしている。


 ベルリオットは地面に手をつき、体勢を整えた。こちらもまた突きを繰り出す。互いの剣の腹がすれ違いざまにかすり、甲高い音を響かせる。わずかにこちらの方が速い。やはりデュナムの意識よりも、剣術は劣る――。


 そう確信しながら、ベルリオットはさらに手に力を込めた。ふいに、視界の左端から黒い影が割り込んでくる。それがガルヌの手だと認識したときには、すでに青剣がその手に握られていた。紫の血を流しているが敵はお構いなしに剣を握りこむ。こちらの剣の勢いがそがれる中、敵の剣は勢いよく進み――。

 ベルリオットは左肩を貫かれた。


「ぐぁあああああッ――――!!」


 ベルリオットは呻いた直後、歯をかちあわせた。

 そうしなければ意識を持っていかれそうだったからだ。

 眼前にガルヌの頭が迫っている。大口を開けながら、まるで笑っているかのような顔だ。顔をわずかに下向け、額をこちらの額にぶつけてくる。鈍い音が響いた。あまりの衝撃、振動に一瞬なにがどうなっているのかわからなくなった。


 奇跡的といっていいのか。すぐに意識が戻ったベルリオットは、視界の下方にガルヌの姿を捉えた。敵は腰を深く落とし、ふたたび突きを放とうとしている。

 先ほど持っていた剣は、いつの間にか手放してしまっている。ふたたび生成し、割り込ませるか。そう思ったが、両肩に痛みが走り、腕がうまく持ち上がらなかった。この状態のまま、面の少ない剣で敵の攻撃を受け止めるのは困難だ。


 ベルリオットは舌打ちしながら、両の掌を敵に向けた。自身を護る障壁を造り出す。間に合ったことに安堵する暇などなかった。掌から全身へ伝わってくる激しい衝撃。両肩に負った傷口が、悲鳴をあげるかのごとく血を噴き出す。

 突きを繰り出したガルヌの勢いは止まらない。黒翼を後方へ伸ばしながら、その身ごと押し込んでくる。抑えきれない。凄まじい速度で後方へと追いやられ、民家や塔をいくつも損壊させていく。


 ガルヌが弾くように黒剣を障壁から放した。

 突き飛ばされたベルリオットは、半円状の建物の壁に背中をぶつけた。いったいどれほどの距離を進んだのか。そんなことを考える間もなく、ガルヌが上空から剣を振り下ろしてくる。


「わたしはデュナムのように甘くないぞッ!」


 このまま受けに回っているだけでは、やられるだけだ。

 両肩だけでなく、全身のあらゆる場所が焼けるように熱い。

 通常の人間であれば、すでに死んでいたかもしれない。

 だが、自分は人間ではない。

 アムールだ。


 まだ動くだろ、俺の体ッ!


「くそがぁああああああああああッ――!」


 自身を鼓舞するように雄たけびをあげた。

 障壁を放り捨て、両手に剣を一本ずつ生成した。アウラを噴出させ、飛翔する。

 二本の剣を交差させ、振り下ろされる黒剣へとかち合わせる。


「来るべき新たな世界のため! 貴様は、ここで葬る!」

「なにが新たな世界だ! おまえが望むのはシグルの世界だろ!」


 ベルリオットは敵の剣を押し込みながら剣を弾いた。すぐさま連撃を見舞おうとすると、敵も新たな剣を生成し、一対の剣を手にした。互いの剣が入り乱れ、無数の衝突音を響かせる。


 早く……早くこいつを倒して、あいつのところにッ!


 ベルリオットの剣の速度が徐々に上がっていく。敵の剣よりわずか先を行くが、しかし敵の肉を捉えるまでには至らない。ガルヌの顔をうかがった。狂気か失望か、どちらともとれる色を瞳に宿している。


「弱い、弱過ぎる。こんなものだったか。それとも、やはりリヴェティア王が死んだことが相当に響いたのか?」

「あいつはまだッ――!」


 死んでなんかいない、と叫ぼうとした、そのときだった。

 ガルヌが両手とともに二本の剣をあわせると、それを勢いよく薙いでくる。その行動にベルリオットは一瞬あっけにとられてしまったが、すぐさま一本の剣を割り込ませだ。疾い一撃だが、それほど脅威ではない。このまま防ぎ、次の手で決め――。


 割り込ませた剣が音をたてて割れた。飛び散る結晶の破片に、自身の驚愕に満ちた表情が映る。ここまであっさりと折られたことは初めてだった。

 その間にも敵の剣が迫っている。ベルリオットは半ば無意識的にもう片方の剣を割り込ませた。敵の黒剣とぶつかる。


 持ってくれッ――!


 祈りが通じたのかはわからない。青の剣は砕けずに敵の剣を受け止めてくれた。ただ、ろくな力も込められずに攻撃を受けた代償か。ベルリオットは信じられないほどの衝撃に襲われ、弾かれるようにして突き飛ばされてしまう。


 ガルヌが小さな粒になるまで飛ばされたのち、ようやくなにかの壁に激突し、止まった。

 ずるずると落ちていき、地面に尻をつける。

 衝突の勢いで壊れなかったことから察するに、相当に分厚い壁のようだ。


 近くには多くの尖塔が見られた。

 あまり綺麗に刈りこまれていない芝。

 各尖塔を繋ぐ道、空中回廊がいくつも見られるここは、視界に何度も映っていたからわかる。

 帝城だ。

 戦闘を続けるうちに、いつの間にか近づいていたらしい。


 起き上がろうとするが、うまく力が入ってくれない。

 体中を襲っていた焼けるような熱さが、次第に感じられなくなってくる。

 視界がぼやけてきた。意識が朦朧としているのかもしれない、とベルリオットはまるで他人事のように考えてしまう。


 こちらも同じ翼を持っているのだ。

 こと純粋な戦闘において、力の差はないはずだ。

 それなのに敵に圧倒されている。

 どうしてなのか。

 理由なんて、本当は戦っているときからわかっていた。

 だが、いま、こうしてぼろぼろになるまで自覚することを拒んでいたのだ。


 ――自分は恐れている。

 リズアートの死を――


 その焦りが、不安が、剣に伝わっているのだ。


「近しい人間がたったひとり死んだだけで、よもやそこまで落ちぶれるとはな! 脆い! 脆すぎるわ!」


 ガルヌの声が聞こえた。

 視線を上げれば、少し離れた上空からこちらを見下ろしている。


 ガルヌの言うとおりだ。

 自分の心は脆い。

 いまなら、触れられるだけで壊れてしまいそうな気さえする。


 こんな心でサン・ティアカ教会の者たちを導こうとしたのか、と思うと笑えてくる。

 どれだけ力があろうと脆い心を持つ自分では、たとえ狭間の世界がまとまり、シグルとの大戦を迎えても、役に立つことはできないのではないか、と。そんなことまで考えてしまう。


 思えば、リヴェティア王国が帝国の急襲を受けたとき、自分が間に合ってさえいれば、多くの者を傷つけずに済んだかもしれないのだ。帝国の巨大飛空船を逃がしさえしなければ、リズアートをさらわれずに済んだかもしれないのだ。


 ……すまない、リズ。俺は、俺は……ッ!


 ふいに頭上の方から轟音が聞こえた。

 瓦礫が落ちてきた。いくつか頭に当たる。何事だ、と思ったそのとき、そばに黒い影が落ちてきた。仰向けに倒れた、人型のそれには見覚えがある。

 ベリアルだ。


 ベルリオットが警戒心を抱くよりも早く、ベリアルの上に人影が勢いよくのしかかった。窪地になるほどの勢いだ。金切り音のような、ベリアルの奇声が聞こえた。少し湿った土が飛び散る中、無数の黒い粒が空へ上がっていく。おそらくベリアルが消滅したのだ。


「馬鹿な……ベリアルが負けただと……!?」


 ガルヌが動揺する中、ベルリオットは目の前で動きだした人影に注視し続ける。


「急に力が満ちたのでもしやと思ったが、やはり近くに来ていたか」


 人影の正体は、ティーア・トウェイルだった。

 その綺麗な褐色の肌は、いくつもの傷口から流れ出た赤い血で彩られている。とても戦えるような体ではない。それでも彼女は戦い続け、ベリアルに打ち勝ったのだ。

 ティーアが地面に槍を突きたてた。それを支えに立ち上がると、こちらに不敵な笑みを向けてくる。


「主……約束は果たしたぞ」


 その意味を理解するのにベルリオットは少しだけ時間がかかった。

 理解したとき、心臓がどくんと跳ねた。

 体中の毛という毛が逆立った。


「――――ベルリオットッ!!」


 聞こえてきた声は頭上からだった。

 ベルリオットは弾かれるようにして顔を上向ける。

 視線の先、リヴェティアの天空の間のように突き出た場所があった。

 そこから身を乗り出している、ひとりの少女の姿が映る。

 風になびくなめらかな黄金色の髪、その白い肌にひどく似合う鮮やかな碧眼。いつもは凛とした表情が、いまは苦しみや悲しみといったものにぬり替えられているが……。

 間違いない。

 リズアートだ。


 無事だった。

 生きていた。


 リズアートの姿を認めた瞬間、胸の奥底からこみ上げてきた感情の渦が目頭を熱くする。


「わたしは大丈夫だから! いま、ここにいるから! だから、そんなやつに負けないで!」


 胸元に手をあて、リズアートは思い切り叫ぶ。

 その声は届いていた。

 だが、ベルリオットは耳を傾けることなく、ただただ彼女の姿を、顔を見つめていた。


 リズアートの顔を見ただけで、こんなにも心が落ち着くのか。

 こんなにも心が満たされるのか。

 先ほどまで心を支配していた焦りや不安、恐怖の感情が一瞬にして消えていく。

 これほどまでに彼女は、自分の中で大きな存在となっていたのか。


 ベルリオットは自分の心が自分のものではないような感覚に見舞われる。

 だが、これは紛れもなく自分の心だ。

 そう言い聞かせ、隠れていた感情、生まれた変化を受けいれていく。


 感じられなくなっていた痛みが急激に押し寄せてきた。

 思わず顔を歪めてしまう。

 これなら痛みを感じないままのほうが良かったかもしれないが、そうではない、とベルリオットは思った。

 体が、きっとまだ動くことを告げているのだ。


 ゆっくりと身を起こす。両肩の傷だけではない。全身から襲いくる痛みが脳を直撃し、意識を失いそうになる。歯を食いしばり、意識をつなぎとめる。それでも耐え切れずに倒れてしまいそうになった、そのとき――。

 近くまで来たティーアが体を支えてくれた。


「ありがとう、ティーア。おかげで俺はまだ戦える」

「礼はいらない。わたしは主の眷属だからな」


 ――俺は弱い。


 ひとりで戦うなんてできない、弱い存在だ。

 たったひとりでも近しい人が失われれば、心が壊れてしまうかもしれない脆い存在だ。

 だが、だからこそ、知れたことがある。


 手を取り合うことを。

 支えあうことを。


 ベルリオットはティーアから離れ、己の足だけで立った。

 剣を生成するや、切っ先をガルヌに……その先にいるデュナムに向けて叫ぶ。


「デュナムッ、聞こえてるかッ! おまえ、俺にリズのすべてを知っているのか、って聞いたよな! そんなもん、別の人間なんだからわかるわけないだろ! ……けど俺はリズの、すべてを知りたいと思ってる!」

「……ベルリオット」


 自分はアムールで、リズアートは人間。

 違う存在だが――。


 言葉を交わすことができる。

 触れることができる。

 それを知ることができたのも、狭間の世界にいたからだ。


「あいつだけじゃない。エリアスやリンカ。ユング団長やオルバ、ホリィさんたち王城騎士のみんなのことも、ラグさんのことも、訓練校のみんなのことも。アミカスのティーアやトゥトゥ。ナドのマルコやハーゲンのことももっと知りたいと思ってる! なんでかって――」


 無意識に蒼翼を広げていた。

 ベルリオットは剣に自身の想いを乗せ、叫ぶ。


「あいつらが大切だからだ! 日々を共に生きた、一緒に戦ってきたかけがいのない仲間だからだ! そんなみんなが生きる、この狭間の世界を守るためなら、俺はッ――!!」


 つい最近まで、アウラを使えない出来損ないの訓練生だった。

 それが突然、青のアウラという強大なアウラを使えるようになって。

 自分がアムールであるからと告げられて。

 気づけば、リヴェティア王城騎士にまでのぼりつめてしまった。


 本当に少し前の自分では、考えられないところに立っている。

 いまでも嘘のように感じてしまう。

 だが、受けいれなければならない。

 立ち向かわなければならない。

 自分のためにも、自分が愛する人たちのためにも――。


「狭間に生きる人々の命を、想いをすべて背負ってやるッ!!」


 胸の中に満ちていた温かい感情が熱くなり、体中に広がった。

 いまだ痛みは消えない。

 だが、四肢を動かす感覚が、これまでよりも鮮明になっている。

 感情が生み出した錯覚では決してない。

 きっと体中をめぐる、アウラの量が増えているのだ、と思った。

 それを証明するかのように、視界が青い燐光で埋め尽くされていく。


「主……その髪は……?」


 ティーアに言われて気づいた。

 目に映る自身の髪が青白く染まっていたのだ。

 だが、ベルリオットは不思議と驚くことはなかった。


 これが……俺の本当の姿なんだ、と。


 そう本能的に理解していたのだ。

 見つめる先、なにやらガルヌの様子がおかしかった。

 先ほどからうつむいたまま動かないのだ。


「ふ……ふふ……フハハハハハハハッ!! いいぞ、ベルリオット・トレスティング! ついに目ざめたか! それでこそ、わたしの相手に相応しい!」


 ふいにガルヌが笑い声をあげたあと、がばっと顔を上げた。

 雰囲気が変わっている。

 話し方もそうだが、紫色をしていた瞳が人間のそれに戻っていたのだ。

 おそらく、いま、あの体を支配しているのはデュナムの意識だ。

 ガルヌから意識を奪い返したのだろう、と思った。


 ――精霊の翼を得たデュナム。

 その強さは、先ほどまでのガルヌの比ではないだろう。

 かたわらに立ったティーアが言う。


「まだ動けるが、このざまだ。加勢しても足を引っ張ってしまうかもしれない」

「構わない。それよりもティーアはリズのことを頼む」

「……わかった」


 その顔には悔しさが滲んでいた。

 きっと彼女は理解しているのだ。

 たとえ万全の体調であっても、立ち入ることのできない戦いになる、と。

 ベルリオットは飛翔した。

 たったそれだけで、自身がどれほどの力を得たのか理解できた。


「ベルリオットっ!」


 リズアートの声が聞こえた。

 彼女は瞳を潤ませながら、胸元に当てた手で服をぐっと掴んでいる。

 不安を拭い去れるように、とベルリオットはうなずいて見せた。

 それからすぐに名残惜しさを振り切るように身を翻し、デュナムのほうへと向かう。


「ここからが本当の戦いというわけか」


 対峙するなり、デュナムが言った。


「先ほどの言葉。貴様を倒すことですべてを否定させてもらおう」

「俺はもう負けるつもりはない」

「その自信、打ち砕いてやるわッ――!」


 動きだしたのはほとんど同時だった。

 互いに繰り出した袈裟斬りが、わずかな乱れすらなく激突する。直後、互いの体に巻きつくように続いた突風が遅れて届き、ぶつかり、弾けるように外へと向かう。

 互いの剣に亀裂がはしり、間もなく砕け散った。青と黒の結晶破片が突風に乗せられ、入り乱れながら霧散していく。


 ベルリオットは即座に敵から距離をとった。まさか剣が一撃しか持たないとは思いもしなかった。驚きを隠せなかったが、折れたのは敵も同じだ。

 互いに再生成した剣で、ふたたびかち合った。

 やはりどちらの剣も砕けてしまう。


「まさかまったくの互角とはな! だが貴様のその体では、わたしが勝つのは時間の問題だろう!」

「まだだ……まだ俺はやれるッ!!」


 剣を打ち合うたびに剣が砕けてしまう。

 位置を入れ替えても、斬り方を替えても、すべてが同じ結果だ。

 一度だけ剣を交えては離れてを何度も繰り返しながら、帝都の上空を翔け回る。そのあとには青と黒の線が続き、静かに消えていく。


 互いに遠隔攻撃をいっさい使わなかった。

 使ったとしても、捉えきれないとわかっていたからだ。

 それほどまでに高速で飛び回り、剣を打ち合っていた。


「その程度かッ! 貴様の覚悟はッ!」


 いったい何本の剣を砕いただろうか。

 いかに互角の戦いとはいえ、体力は無限ではない。

 それに体が傷だらけの中、無理を押しているのだ。

 このまま戦い続ければ負けるのは自分だ、とベルリオットは悟っていた。


 決して折れない、剣さえあればッ――!


『ベル様っ――!』


 脳裏にクーティリアスの叫ぶような声が響いた。


「クティ?」

『ごめん、いっぱい待たせちゃったね! たぶん、もうできるよ!』

「なにが――」


 できるのか、とベルリオットが言おうとしたとき、持っていた剣が青の燐光に包まれた。柄部分がまるで翼のような模様、形状へと変貌していく。そこから切っ先へと向かって風が渦巻くようにのぼっていく。

 剣の切っ先から、先が見えないほど……それこそ天に届くのではないかというほどの光の柱が迸り、弾けた。

 同時、クーティリアスの意気揚々とした声が脳に届く。


『天精霊の剣!』

「これが……天精霊の剣……」


 ベルリオットは手に持った剣へと視線を落とし、目を見開いた。

 風に包まれた刃は、それそのものが光であるかのごとく輝いている。軽さは変わらない。ただ、見た目から感じる以上に天精霊の剣には力を感じた。さらにその内包された力が、まるで自分の体の一部であるかのように馴染む。


「天精霊の剣だと……?」


 デュナムは天精霊の剣のことを知っているようだった。

 だが、なにを思ったか。

 驚いた様子から一転。

 高揚するかのように、その顔を喜びに満ち溢れさせた。


「まさかここで天精霊の剣とはな。いいだろう、ベルリオット・トレスティング! その剣を折り、今度こそ貴様を繋ぐすべての想いもろとも、その命を断ってやろう!」


 デュナムが腰に構えた剣の切っ先をこちらに向けながら、引き絞った。突きの構えだ。次いで低い唸り声をあげはじめ、血管という血管を浮き上がらせる。黒剣の周りに黒のアウラが収束していく。

 やがて唸り声が止んだと同時、黒剣に集まっていた黒い粒が弾けた。

 残ったのは、純粋な黒で満たされた剣。より深淵を思わせるその色は、覗き込めば二度とは戻ってこられないような、そんな恐怖を内包している。


 デュナムの顔がなにかに耐えるかのごとく苦痛に歪めた。

 おそらく扱えるアウラの限界を超え、その黒剣に留めているのだ、と。

 そうベルリオットは直感で悟った。


「行くぞ、ベルリオット・トレスティングッ!」

「これで……終わらせるッ!」


 どちらからともなく翔けた。

 敵に応じて、ベルリオットもまた突きの構えで距離を詰める。


「「ぁぁああああああああああああ――ッ!!」」


 二つの咆哮が帝都上空で混ざり合う。

 互いの速度は、すでに並の域をはるかに超えている。動き出してから一瞬ののちに、肉迫。青の剣と黒の剣の切っ先が触れ合う。陽光を反射し、その一点が煌いたように見えた、瞬間――。


 青の剣が、黒の剣の切っ先から砕いた。続いて刃全体を、柄を破壊していく。飛び散った黒結晶の破片が視界に映る中、青の剣がついにデュナムの胸を貫いた。


 右肩に重みを感じた。

 それがデュナムの体だと気づいたとき、ベルリオットはようやく自身の剣が打ち勝ったのだ、と実感した。


「……貴様の…………勝ちだ」


 右耳から細い声が聞こえた。

 直後、肩に感じていた重みが増した。

 敵が――デュナムが息絶えたのだ。


 ベルリオットは剣を引き抜いた。

 噴き出した血は赤く、人のそれだ。

 顔をそむけたくなる感情を押しつけ、しかと目に焼きつけた。

 支えを失ったデュナムの体が帝都へと落ちていく。

 それが地に着くまで、実際は一瞬だったのかもしれない。

 だがベルリオットには、まるで底の見えない湖へと沈んでいくように緩やかに見えた。



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