◆第九話『六重壁の攻防』
轟々という音が絶え間なく耳をついていた。
その不快な音に始めこそ顔を顰めたが、いまでは背景音にすら思えるのだから慣れとは恐ろしいものだ、とベルリオットは思う。
視界いっぱいに映る、穢れのない青い空。
その中を飛空船――アミスティリアに乗って猛烈な速度で突き進んでいく。
すでにティゴーグ大陸の圏内をかすめる形で飛行し、同大陸をあとにした。
それから少なくない距離を進んだ。
おそらく、もう少しでガスペラント大陸が見えてくるだろう。
「この作戦に当たれて、わたしは少しほっとしている」
背後から聞こえた。
発したのは後部座席に座るティーアだ。
「どういうことだ?」
「いや、ガルヌやデュナムのことは許せないが……慕ってくれる部下は少なくなかった。そうした彼らと刃を交えなくて済む、とな」
「ティーア……」
彼女がリヴェティア側、ベルリオットの仲間として戦うこと。
そこにどんな理由があれ、事情を知らない帝国兵には裏切り者として認識されるだろう。
「戦況はどうなっているだろうか」
あからさまに話題を変えようとしたのがみえみえだった。
ベルリオットはあえてそこには触れず、こたえる。
「きっと大丈夫だ。うちの騎士はみんな強いからな」
「そうだな。剣を交えて、いやでも思い知らされた。中でもログナートは本当に手ごわかった。きっと、あの愚直な心こそが力の源なのだろうな」
「なんたってリヴェティアの規律そのものだからな。でも、昔よりはほんと柔らかくなったんだぜ、あれでも」
「そうなのか?」
「昔はことあるごとに眉を吊り上げて怒鳴ってた。そういえば、剣を突きつけられたこともあったな」
「それは主がなにかをしたからではないのか?」
「ちがう……とは言い切れない」
「やはりな」
ふっとティーアが笑みを零した。
他愛ない会話だ。ただそれが、いまのティーアとの距離を縮め、またベルリオットの荒れる心を適度に緩めてくれた。
進行上のはるか先に黒い影が見えた。
進むに連れて、それは段々と姿を大きくしていく。
やがて視界一杯に広がったその影の正体は、ガスペラント大陸だ。
圏内に入るやいなや、ベルリオットは飛空船の速度を落とした。
槓杆を引く。透明性の覆いが前面から後部へ向けて収納されていく。
風が顔にぶつかった。
髪が荒々しく踊る中、ベルリオットは細めた目を眼下に向ける。
大陸の外側を縁取るように六層の防壁が並んでいる。
六重壁と呼ばれるものだ。
そこに全体陸中もっとも数の多い帝国騎士軍を配置した防衛は鉄壁と言われ、シグルに突破されたことは未だ一度もないという。
「様子がおかしい」
ティーアが怪訝そうな声で言った。
六重壁に異変があるわけではない。
騎士がひとりも見当たらないのだ。
ガスペラント大陸に上陸する際には、相応の反撃を覚悟していたが……。
これでは通ってくださいと言われているようなものだ。
「誰もいないな」
「他大陸で戦争が行なわれているとはいえ、帝都には多くの民たちがいるはずだ。彼らを守るため外縁部の防衛は欠かせないはずだが……なぜだ」
ふいに、視界の中でナニカが動いた。
ベルリオットは反射的にナニカの正体を目で探り始める。
動いていたのは六重壁が落とす影だ。
ただ、動いているというよりはうごめいているといった感じか。
その異様な光景に注視していたとき、ふと全身がざわついた。
「飛べ――ッ!」
ベルリオットは叫び、飛空船から身を投げ出した。
空中で体勢を直しつつ、体を回転させ、ティーアも離れたことを確認した。
直後、視界に映るアミスティリアに巨大な黒球が衝突した。
破片が飛び散るようなことはない。
黒球は、アミスティリアを呑みこむように跡形もなく消滅させ、かなたの空へ消えていった。
この黒球を、ベルリオットは見たことがある。
ドリアークのものだ。
とっさに視線を眼下へと戻した。
瞬間、目を見開いた。
先ほど黒球を放ったであろう、ドリアークのそばで影が荒々しくうねりだす。影は競りあがると、輪郭を成し、ひとつの固体となっていく。
巨大な翼を広げ、凶刃のごとく歯を生やした口から咆哮をあげるその固体もまた、間違いなくドリアークだった。
まるで連鎖するかのごとく、あちこちで影からドリアークが生まれていく。
五、十、十五……と止まらない。
少なくとも五十以上ものドリアークが姿をさらした。
ベルリオットは息をのむ。
「うそだろ……? どうやってこんな……」
「間違いなくガルヌの仕業だろう」
これまで様子をうかがっていたのか。
あるいは足並みをそろえるためだったのか。
ドリアークたちが一斉に飛び立った。
奴らは、モノセロスと同程度の大きさを持つ。
ベルリオットは、まるで壁が迫ってきているような威圧感に見舞われる。
「主、考えるのはあとだ! あいつらを片付けるぞ!」
「ああッ! 俺が先行する! ティーアは後ろから援護を頼む!」
「了解した!」
ベルリオットは前に出ると同時に剣を振るった。
切り刃から放たれた光が、真ん前のドリアークへと飛んでいく。飛閃だ。ただ一撃では風の鎧は突破できない。
過去、ディザイドリウム大陸で奴らと戦ったときに得た知識だ。
一撃目を追うように、もう一度飛閃を放った。
交差する二つの飛閃が一体のドリアークを捉える。一撃目は風の鎧にかき消される。が、二撃目が突破を果たした。その巨体に深くめり込み、両断する。まるで仲間に助けを求めるかのような慟哭をあげ、ドリアークが落下しながらその姿を消していく。
奴らに感情があるのかはわからない。
だが、消滅したドリアークの慟哭に呼応し、残ったドリアークが飛行速度をあげた。その身を槍と化し、上下左右から突撃を繰り出してくる。
「気をつけろ! あの風の鎧に生身で近づくと引き裂かれるぞ!」
ベルリオットは、ティーアとともに敵の攻撃をかわしていく。余裕はない。敵の体が大きいうえに、それを護る風の鎧があるからだ。
数体のドリアークから黒球が放たれ、それを回避するために位置をずらした。直後、右方から風の乱れを感じた。ドリアークが迫ってきていた。瞬時に距離は詰まり、猛烈な風に髪が荒々しくなびく。
とっさにベルリオットは剣を割りこませた。ドリアークが激突したと同時、強烈な衝撃が全身を襲う。耳をつんざくような、がりがりと結晶が削られる音。かすかに風の鎧に指が触れた。切り傷がいくつも刻まれていく。
ベルリオットは翼をはためかせ、雄たけびとともに剣を振り払い、ドリアークを弾いた。
瞬間、背後から影が飛び出た。ティーアだ。中空へ投げ出され、体勢の整っていないドリアークへと槍を突き出す。が、弾かれ、その腕を後方へ押し戻されてしまう。
「なッ!?」
風の鎧に細い穴は開いている。
だが、それだけだ。
ベルリオットは飛閃を二発放ち、仕留めそこなったドリアークを切り刻んだ。
「もっと速く、瞬間的に連撃を加えろ! そうすれば突破できる!」
「なるほどな。ならば――ッ!」
話している間にドリアークが近くまで迫ってきていた。
ティーアに狙いを定めたようだ。
その獰猛な牙を見せつけながら彼女に向かっていく。ティーアに回避する様子はない。それどころか自ら向かっていく。
彼女は腰に構えた槍をぐっと後ろへ引いた。ドリアークと肉迫する、直前。弾かれるようにして側面に回りこんだ。ドリアークが通り抜けるまでの、ほんのわずかな瞬間。ティーアは静かに、そして素早く槍を突き出した。
先ほどとそう変わらない攻撃だ。また弾かれてしまうのではないか。そうベルリオットが思ったとき、ティーアの槍が敵の体に届いていた。槍を限界まで押しこんだあと、ティーアがドリアークから離れる。ドリアークがもがきながら地上へと落ちていく。
その様を見ながら、ベルリオットは先ほどのティーアの攻撃を脳裏に描きなおしていく。槍の先端が風の鎧に触れたと同時、おそろしく速い動きで槍を下げていた。
そうすることで風の鎧に穴を開けたのだろう。
ひどく小さい穴だが、ティーアの得物にはそれで充分だ。
――つまり彼女は、あの瞬間に二回の突きを放っていた。
その技術力の高さに、ベルリオットは思わず目をぱちくりとさせる。
「やはり以前とは段違いだ。これも主のおかげだな」
そう誇らしげな笑みを浮かべたティーアの右目の下には、紋様が刻まれている。
アムールの……ベルリオットの眷属の証だ。
彼女が仲間になってくれて本当に心強い、とベルリオットは思う。
ふとティーアの背後から、ドリアークがその鉤爪を高々と振り上げながら迫ってきているのが見えた。
ベルリオットは即座にティーアの脇を通り抜けると、剣を振り上げ、ドリアークの鉤爪を弾き飛ばす。
「余所見してるとやられるぞ!」
「主が来てくれることも織り込み済み――だ!」
言いながら、ティーアが体勢を崩したドリアークへと二連突きを繰り出す。先ほど同様、風の鎧を突破した二撃目が、その巨躯を貫く。
もともと彼女の強さは並外れていた。
それがアムールの眷属となることで、さらに昇華されたのだろう。
ティーアがドリアークを圧倒する機動力で空を飛び回る。
彼女と目まぐるしく立ち位置を入れ替えながら、ベルリオットもまた縦横無尽に空を翔け、ドリアークを圧倒する。
「さすがに数が多いな……」
ベルリオットはティーアと背中を合わせる。
十体ほど倒しただろうか。
間違いなく数は減っているはずなのに、そう感じられないのは敵の数が多すぎるからだろう。敵の体が大きいために接近できる数が少なく、それによって黒球を使っての遠距離攻撃に徹しているドリアークがいることも理由の一つだろう。
……このままじゃキリがないな。
「ティーア、リズの助けに向かってくれ! 俺が敵を引きつけるのは当初の予定通りだ」
「だがっ!」
「俺を信じて行ってくれ! それに――」
話している間にもドリアークは動きを止めていない。
一体のドリアークが揺らぐように飛行し、迫ってきた。大口をあけ、咆哮をあげている。
その威圧感は凄まじいものだ。
少し前の俺なら少なからず影響を受けていたかもしれないが――!
ベルリオットは飛閃を二度放ち、それを撃退する。
「これぐらいなら、いまの俺ならなんとかできる」
「そうだな。この程度の敵、主の敵ではないな……了解した」
ドリアークが示し合わせたようにガスペラント帝都への道を塞ぎはじめる。
こちらの言葉を理解しているわけではないのだろう。おそらく本能だ。
ベルリオットははるか上空に神の種子を生成した。
即座に空中維持を解き、ドリアーク目がけて落下させる。
影が落ちたからか。
ドリアークが一斉に神の種子の回避に向けて動きだした。
奴らの機動力ならば見てから回避は可能だろう。
だが、それは予測済みだ。
ベルリオットは自身が持っていた剣を勢いよく放り投げ、神の種子へと突き刺した。亀裂の入った青の巨塊が、次の瞬間には大小様々な破片となり周囲へ四散する。いくつもの青の結晶がドリアークたちへと降り注いだ。風の鎧をはがしていき、少なくない数の破片が敵の体に突き刺さっていく。骨まで響くような敵の咆哮があちこちから響く。
「いまだ、ティーアッ!」
「必ず……必ず主のもとにリヴェティア王を連れて帰るッ!」
そう言い残して、ティーアが帝都方面へ向かって飛んでいく。
数体のドリアークがティーアを追いかけようとしたが、ベルリオットがとっさに間に割って入り、行く手をふさぐ。
「待てよ、おまえらの相手は俺だ」
視界の中、先ほどの奇襲を喰らって斃れた敵は一体もいないようだった。
すでに風の鎧は回復し、その瞳は人間を殺す獰猛なシグルのそれに戻っている。
目くらまし程度にしかならないだろうとは思っていたが、まさかここまでとは。
残るドリアークは四十体程度といったところか。
思っていた以上に、これは骨が折れそうだな……。
だが――。
ベルリオットは両腕を左右に広げた。
両手に、新たな剣を造り出す。
「ここでやられるわけにも、てこずるわけにもいかないんだよ!」
翼をはためかせ、ベルリオットは勢いよくドリアークの群れへと突っこんだ。
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両側には巨大な壁がそびえている。
どれだけ進んでも終わりが見えないそれは、六重壁の壁だ。
そのもっとも内側にあたる空間の中、ベルリオットは地表すれすれを全速力で飛行する。
首だけを動かし、背後をうかがう。
二体のドリアークがついてきている。
並んで飛行しているが、壁と壁の間にわずかに収まっていない。
どちらも片方の翼を壁にぶつけながら荒々しく突き進んでいる。
あいつらで最後だ……!
ベルリオットは体を回転させ、仰向けた。
視線を空へ。
そこからドリアークへとつなぐように意識を向ける。
上空に神の種子を五つ造り出した。
道を埋めるように、またドリアークの進行上にかぶさるように並ばせ、空中維持の意識を思考から切り離す。まるで周囲の空気を呑みこんでいくかのごとく、すさまじい勢いで神の種子が落ちていく。
影が落ちたことでドリアークが上空を仰ぎ見た。
逃げ道を探すように視線をさまよわせるが、前にも後ろにも逃げ道はない。
一体のドリアークがそばの壁に向かって体当たりをかました。逃げ道を作ろうとしているのだろう。だが六重壁は、どれもが相当に分厚い。表面はえぐれたものの、抜け穴が出来上がるまでには至らなかった。
ベルリオットは加速し、落ちてくる神の種子を躱した。
上空へと舞い上がり、眼下に目を向けた。同時、轟音が耳に届いた。
先ほどまで通っていた道を、土煙が一瞬にして埋め尽くす。行き場をなくした煙がゆっくりと上空へ舞い上がってくる。
静かだ。
敵の動きはない。
やったか……?
『まだだよ、ベル様!』
脳裏にクーティリアスの声が届いた。
直後、土煙の中から黒球が飛び出てきた。
続いてドリアークがその姿を現し、黒球を追いかける形でこちらに向かってくる。
視界の端で、神の種子に押しつぶされ、消滅していくドリアークの姿が見えた。
どうやら仕留めそこなったのは一体だけらしい。
ベルリオットは両手に持った剣を投げた。一本目で黒球を破壊し、二本目でドリアークの勢いをそいだ。すかさず生成した一本の剣を持ち、虚空を二度斬つ。切り刃から放たれた光が、そのまま刃となり、風の鎧ともどもドリアークを斬り裂く。悲鳴を上げながら、ドリアークがその場で苦しみ、もだえる。
まだ消滅させるには至っていない。
ベルリオットは、すでにドリアークとの距離を詰めていた。飛閃によって穴を開けられた風の鎧が修復をはじめている。それよりも速く風の鎧を抜け、ドリアークの体へと一本の剣を突き刺す。
「これで……終わりだッ!」
柄までめりこんだ、瞬間――。
ドリアークの姿が輪郭がぶれ、黒い巨躯が無数の破片となって飛び散った。
蒸発するかのように煙を上げ、破片がすぅっと消滅していく。
やがて、ドリアークの体は跡形もなくなった。
ベルリオットはだらりと腕を下ろし、剣を消滅させた。
近くの防壁上へと下り立つと、細く息を吐き出す。
『ベル様、大丈夫? 少し休む?』
クーティリアスの心配する声が脳に響いた。
多少の切り傷はあるが、どれも大したことのない程度だ。
支障があるとすれば、少し腕がだるいくらいだろうか。
ドリアークという決して弱くない相手との連戦だったのだ。
こればかりはしかたない。
「問題ない。仮に傷を負ってたとしても俺には休んでる暇なんてないんだ」
『ベル様……』
クーティリアスには、きっとこちらの体調などすべて見透かされているのだろう。
いまも、リズアートは帝国に囚われている。
デュナムは、彼女を伴侶とすると言っていた。
その言葉が本当だったとすれば、彼女に危害が及ぶことはないだろう。
だが、いま、リズアートはひとりなのだ。
いつもは毅然とした彼女でも、不安を抱いていないはずがない。
そうでなくとも怯えているかもしれない。泣いているかもしれない。
あらためて考えただけでも沸々と怒りがこみ上げてくる。
「俺たちもすぐに帝都へ向かうぞ」
クーティリアスの返事も待たずに、ベルリオットは地を蹴り、飛び立った。




