◆第一話『燃ゆるリーヴェの魂』
七大王暦一七三五年・十一月二十八日(ガラトの日)
カツカツカツカツ――。
律動的な音が室内に響く。
それが、自分のかかとで鳴らしているものだと気づいた途端、ベルリオット・トレスティングは動きを止めた。
息を吐きながら長椅子に深く座りなおす。
沈んだ尻が柔らかく包まれる。
間違いなく良質な椅子だ。
しかしその質感を堪能するほど、いまの自分には余裕がなかった。
ここはリヴェティア騎士団本部の執務室。
ほかには誰もいないため、ひっそりとしている。
執務机の向こう側、窓からかすかにくすんだ空が見えた。
どうやら日暮れが近いようだ。
リヴェティア王城が急襲を受け、リズアートが連れ去られたのは数刻前。
それほど経っていないが、ベルリオットにはひどく長く感じた。
まだかっ……!
知らずうちにまたかかとを動かしていたらしい。
室内にカツカツと音が響いていた。
普段、このようなことをしないこともあり、余計にわずらわしいと思った。
苛立ちを抑えるように立ち上がる。
と、計ったように扉が開けられた。
「お待たせしました」
中に入ってきたのは、ユング・フォーリングス。
リヴェティア騎士団の団長だ。
彼を支えるように二人の騎士が両側に付き添っている。
ベルリオットはユングの顔を見た瞬間、やりようのない苛立ちを無意識にぶつけそうになった。だがその傷だらけの体や、苦痛に歪んだ顔が視界に飛び込んできたため、どうにか思いとどまることができた。
「ユング団長……」
「申し訳ない。話をする前に座らせてください」
言って、ユングは騎士に手伝ってもらいながら、執務机前の長椅子に身を預けた。
そのまま目をつむりながら、静かに息を吐く。
額に滲んだ汗からも、よほど痛みを我慢していることがわかる。
彼は全力でことに当たってくれている。
より確実にリズアートを助け出すために。
だが、自分はどうか。
ただ無策で飛び出そうとした。
それも居てもたってもいられない、という自分勝手な理由からだ。
気持ちがあふれた結果と言えば聞こえがいいが、彼女を助けられなければ意味がない。
ユングから向かいに座るよう促され、ベルリオットも腰を下ろす。
「早くとも明日の朝以降になりますが、どうにか一万ほど騎士を動かせそうです」
「い、一万!? そんな数をどうやって」
一万。
おそらくそれは、《災厄日》を前にして、いまのリヴェティア・ディザイドリウム騎士団が出せる限界の人数だ。
ただ、ベルリオットが驚いたのはそこではない。
一万人もの騎士を動員するには相応の費用がかかる。
それをどこから捻出してきたのか。
ユングが眼鏡の位置を直しながら、口の端をわずかにつり上げる。
「これまで元老院寄りだった貴族の方々が、たくさん援助してくださったのですよ」
「でも、急にどうして」
「これといって特別なことはしていません。ただ、ひとりずつ呼び出し、元老院と黒導教会が繋がっていたことを少し話したぐらいです。あなた方はどうなのでしょうか、と」
「脅したんですね」
「脅したとは人聞きの悪い」
つまり疑いを晴らしたければ援助しろ、と暗に言ったのだ。
いつもながら、交渉ごとに関する彼のしたたかさには恐れ入る。
「それから防衛線の戦力が心もとないので訓練生にも参加してもらうことにしました」
「本格的にってことですよね? まだ早すぎるんじゃ……」
「こうした有事の際に動けるよう、授業過程にも外縁部遠征を組み込んでいたのですから。問題ありません」
「ですが」
「心配しないでください。実力のある者だけです」
ベルリオットは訓練生たちの実力を疑っているわけではない。
むしろ彼らの実力が、防衛線で戦うにあたって充分な域に達していることぐらい、ずっと見てきたのでよく知っている。
だが、訓練生という言葉がそう思わせるのか。
ベルリオットの中で、彼らは護るべき存在であるという認識のほうが強かった。
できれば戦場へ赴くようなことはして欲しくない。
そんな考えをベルリオットが抱いたとき、ユングが苦しむように咳き込んだ。
「団長っ!?」
「大丈夫です」
駆け寄ろうとしたが、手で制される。
そのとき見えた、苦痛に耐える彼の表情からぞっとするほど恐ろしいものを感じ、ベルリオットは思わずたじろいでしまう。
ユングは口もとを雑に拭ったあと、おもむろに顔をあげる。
「デュナムは陛下を伴侶にすると言っていました。話が本当であれば手荒な真似はされていないでしょう。ですが、このまま陛下を助け出せなければ、リヴェティア大陸が落ちます。そしてそれは帝国を支配する……デュナム・シュヴァインが、この狭間の世界の王となることを意味します」
ユングによって示された、最悪の道。
シグルの力を得てまで狭間の王となったデュナムのもと、果たして人類はシグルに打ち勝つことができるのだろうか。
シグルは強大だ。
力で劣る狭間の住人が、本当の意味で協力できないまま勝てるとはとても思えない。
仮に勝つことができたとして、その先に待つ世界はどのようなものだろうか。
みんなは幸せに笑っているだろうか。
なにを考えても否定的な想像しかできなかった。
「彼は力に魅入られた男です。彼だけは狭間の王にさせてはいけない」
世界のために戦う。
なんとも聞こえの良い言葉だ。
もちろんその気持ちは大前提として心の底に根付いているが、いまはそれ以上に、ただただリズアートをデュナムに渡したくないという気持ちのほうが強かった。
いまだかつて、このような想いを抱いたことはない。
自身の奥底から湧きあがってくるどす黒い感情。
胸をかきむしりたくなるような、この気持ちこそが、苛立ちの根底にあるものだとベルリオットはようやく理解した。
「わたしは少しばかり休ませてもらいます。あとは任せました」
言って、ユングが引き締めていた表情を崩した。
それから彼は眠りにつくかのように目をつむり、椅子に身を預ける。
本当ならば絶対安静の身であるにも関わらず、リズアート救出に向けて最高の準備をしてくれた彼には、感謝してもしきれない。
――ありがとうございます。ゆっくり休んでください。
ベルリオットはそう心の中で告げながら執務室をあとにした。
/////
騎士団本部を出てから間もなく、ベルリオットは足を止めて思案する。
援軍として送られる一万の騎士。
動かせても明日の朝以降と言っていた。
早ければ早いほうがいいので、その時間に出陣することになるだろう。
ただ今夜、ファルール王宮で作戦会議が行なわれることになっている。
もちろんベルリオットも参加するため、それまでにはファルール大陸へ向かうつもりだ。
いったん屋敷へ戻り、色々身支度を整えなければならない。
だが、その前にメルザリッテの様子を見ておきたかった。
彼女はいま、王城で手厚い治療を受けている。
命に別状はないものの、かなりの深手を負っていた。
そのうえ、負傷してからあまり時間が経っていない。
おそらくまだ目覚めていないだろうが、それでも彼女の顔を自分の目でもう一度見て、無事かどうかを確認したかった。
ベルリオットは王城へ足を向け、歩きはじめる。
と、前方に十人ほどの集団が目に入った。
全員がリヴェティア騎士訓練学校の制服を着ている。
「お? ベルリオットじゃねぇか」
「モルス……? それにみんなも」
見慣れた顔ばかりだと思ったが、全員、ベルリオットの同期――最上級生たちだった。
声をかけてきたのは、モルス・ドギオン。
その巨体に見合った大きな盾を持ちながら戦うことから、《怪物の盾》と呼ばれている。
ちなみによく下品な行動をとるため、女生徒からの評判はとても悪い。
「なんだ、しけた面してんな。せっかく騎士になったってのに訓練校にいたときと変わらねぇじゃねえか」
集団から一歩前に出たモルスが、顔をしかめながらまじまじと見つめてきた。
そんな彼とは違い、後ろの訓練生たちは慌てた様子だ。
「ちょ、ちょっとモルスっ」
「あんだよ?」
「口の利き方」
「あ~、まあいいだろ」
「これだからモルスは……」
言って、訓練生たちがそろって頭を抱える。
そのやり取りから、ベルリオットは彼らがなにを気にしているのかがわかった。
アムール。
王城騎士。
それら二つの身分を持つベルリオットを前にして、失礼な対応はするべきではない、と。モルスにも、そのことを言っているのだ。
つい最近まで訓練校でともに学んだ仲間から、こうした対応を受けるのはなんだか壁を感じてあまり気分が良くなかった。
とはいえ、無理もないな、とも思う。
いまの自分の立場を考慮すれば、エリアスやリンカ、ナトゥール、オルバなどと以前と変わりなく接してくれる存在のほうが稀なのだ。
そうした寂しさを覚えながら、ベルリオットは訓練生たちへと声をかける。
「これから防衛線に向かうのか?」
「ああ。俺たちの部隊は南側だってよ。これから飛空船に乗っていくとこだ」
「……悪い。みんなを戦わせるようなことになって」
「なに勘違いしてんだか知らねぇが、俺たちから団長にお願いしたんだよ。俺たちにもなにか出来ることがねぇかってな」
モルスの言葉を肯定するように、ほかの訓練生たちがうなずく。
彼らが防衛線の守備隊に組み込まれることになったのは、てっきりユングの指示だと思っていたが、どうやら違ったようだ。
「いつも俺たち助けてもらってばっかだろ? 正騎士や、おめぇにも。だからよ、今回ぐらい俺たちにも無茶させて欲しいってな」
「モルス……」
別に見返りが欲しくて、リヴェティアのために戦っていたわけではない。
だが彼らは、そこに恩を感じ、ただ力になりたいという純粋な気持ちから支援を申し出てくれたのだ。
聞かされた旧友の想いに、ベルリオットは思わず胸が熱くなっていく。
ふとモルスの背後で、訓練生たちが目を見開き、たじろいでいるのが見えた。
「お、おい。モルスがちょっと良いこと言ってるぞ」
「あれ、本当にモルスか? 中身違うんじゃないのか?」
「一瞬でもかっこいいと思ってしまった自分を呪いたいわ」
「おめぇら俺様のことをなんだと思ってんだよ」
茶化されたことで、さすがのモルスも恥ずかしくなってきたらしい。
わずかに耳を赤く染めながら、頭をぼりぼりとかきはじめる。
「まあ、あれだ。リヴェティアは俺たちに任せろってことだ。だから、おめぇは陛下を助け出してくれ」
モルスとともに訓練生たちが見据えてくる。
その瞳には、モルスと同様の想いが込められているような気がした。
多くの人がリヴェティアを、リズアートを救うために動いている。
その事実が体に深く染みこみ、心が温かくなっていく。
――俺はひとりじゃない。こんなにも助けてくれる奴らがいる。
ベルリオットは彼らの想いを背負い、力強くうなずいた。
「ああ。かならず、あいつを救い出してくる」




