◆第八話『ラヴィ工房・交わる三つの想い』
踏み入ると、みしりと音が鳴った。
差しこむ陽の光が、舞いあがる埃の姿をあらわにさせる。
「散らかってるけど許してー」
「……いまにも壊れそうな場所だな」
イオル・ウィディールは、助けてくれた礼がしたいというルッチェに半ば押し切られる形で彼女の工房を訪れた。
もし、ルッチェがただの少女だったならば、どれだけこわれても迷わず断っていただろう。しかし相手がベッチェ・ラヴィエーナの子孫であるという事実に、少なからず興味を抱いてしまった。
「ここはいくつかある工房のうちの一つなんだけど、先代も含めてあんまり使ってなかったからねー。痛んじゃって痛んじゃって」
外から見た工房は、決して小さくない平屋だった。
それにも関わらず中が狭く見えてしまうのは、恐らくともいわず、足の踏み場が見つけられないほどに散らかった工具が原因だろう。
壁際も、ルッチェの発明品と思しき物で埋めつくされている。
その中でも、ひときわ巨大な物が目についた。
上下に重なった二つの球形から、四肢のようなものが生えた造りをしている。
はっきり言って、外見はかなり不細工だ。
「それは機巧人形。まあ、実際に人が乗りこんでアウラで動かす物だと思ってくれていいかな」
「これが動くのか」
「ダンゴマル二号って言うんだ。良い名前でしょ」
「そ、そうだな」
頬を引きつらせながら、イオルは肯定した。
ベッチェーナの家系は発明だけでなく芸術にも長けているという。常人にはとうてい辿りつけない感覚を持っているのだろう、とイオルは自分に言い聞かせた。
ちなみに、魅力的な外見をした物が一切ないわけではない。
実は先ほどから、部屋の隅に置かれた、ある物に目を引かれていた。
それは流線型の鋭利な刃物を思わせる造りで、縦に長く横幅がほとんどない。
鞍が敷かれていることから察するに、おそらく乗り物と思われるが……。
「あ、やっぱ気になる?」
「あれはなんなんだ?」
「単座式の飛空船だよ。アミカスの始祖から名前をもらって《アミス・ティリア》って言うんだ。速さを追求した、あたしの最高傑作っ!」
「これが飛空船なのか……」
「でも、使う人のことを考慮せずに作っちゃって。簡単に言えば、アウラを圧縮して一気に放出するっていう仕組みなんだけど、紫の光でも実用に耐えないんだよねー」
「さらに質の高いアウラが必要ということか?」
「そういうこと」
まともに動かすには、紫の光以上のアウラが必要だという。
そんなものは存在しない、というのがこれまでの常識だった。
だが、いまではそれを上回るアウラが存在することをイオルは知っている。
ベルリオット・トレスティングの使う青の光だ。
奴なら、あるいは――。
そんなことをイオルが考えていると、ルッチェから声をかけられた。
「さっきの大剣、ちょっと出してもらってもいいかな?」
「構わないが、なにをするつもりだ?」
「それはお楽しみかな。心配しなくても、きみにとって悪くはないことだと思うよ」
少し浮かれた様子のルッチェを見るに、おそらく礼がしたいと言ったことに関係しているのだろう。
イオルはアウラを取りこむやいなや、指先に集中し、自身の得物を造りだした。
縦に向けると天井を突き抜けてしまうため、寝かす形で構える。
「簡素な造りだけど、悪くないね」
言いながら、ルッチェが大剣に指を這わせていく。ときおり、その細い指先でコツコツと結晶を叩いては、音を確かめるようなしぐさを見せる。
やがて彼女は満足したようにうなずくと、近くに置かれた木箱を持ち上げ、それに勢いよく息を吹きつけた。大量に舞った埃にむせながら、彼女はイオルの前に木箱を置く。
「けほっ、けほっ……悪いけど少し待っててもらえるかな」
「なにか造るつもりなのか?」
「うん。といっても、そんなに時間はかからないと思うから安心して」
言われたとおり、イオルは木箱に腰を下ろして待つことにした。
ルッチェが早速とばかりに忙しなく動きはじめた。様々なものが散乱した室内を漁っていく。ほこりまみれになることと引きかえに、彼女はなんとか必要なものを得たらしい。
ようやく部屋の中央付近に設けられた作業台前に立った。
彼女は分厚い眼鏡をはめたあと、静かにアウラを纏った。それから両手を伸ばすと、頭部程度の大きさを持った、直径が長めの筒を造りだす。さらに内部に恐ろしく薄い壁のような仕切りを加えていき、ついには視認できないほど細かな模様へと変貌させる。
いったい、なにがどうなっているのか。
すでに、イオルが理解できる域をはるかに超えていた。
ルッチェが、結晶の筒を両手で押しこむようにぐいぐいと縮めた。
その圧縮された小さな筒を左手で維持しながら、今度は空いた右手で、作業台の隅に置かれていた細長い革を近くまで手繰り寄せた。革には薄い金属板がつけられていて、そこに粘り気のある液体を筆のようなもので塗っていく。
次に彼女は、小さな袋を手に取った。指先で起用に紐を外すと、自身が造りだした結晶の筒へと大胆に振りまいていく。中からこぼれた細かな結晶のようなものが、彼女の纏うアウラに照らされてきらきらと輝いた。
淀みなく行われた一連の作業に、イオルは思わず内心で感嘆してしまう。
それから細かな肯定を経て、品の見た目が整えられていく。
最終的に彼女から手渡されたのは、先ほど加工した革が取りつけられた黒い手袋だった。
「ごめん、思ったよりかかっちゃったよ」
「言うほど経っていないから気にするな。強いて言うなら、作業を始めるまでが長かったように思えたが」
「あはは……それは忘れてくれると助かるなー」
苦笑しながら、ルッチェは自身の頭をかいた。
イオルは、渡された手袋を見つめながら疑問を口にする。
「それで、これはなんなんだ?」
「とりあえずはめてみてよ。それからなにも考えずに、左手にアウラを送りこんで」
言われたとおりに手袋をはめてからアウラを左手に流してみる。
と、慣れ親しんだ自身の得物と同じ大剣が瞬時に生成された。
「なっ!?」
イオルは思わず目を瞠ってしまう。
通常、自身が意識の中で像を思い描かなければ、その形を結晶となったアウラがかたどることはない。
それなのに、いま、左手には大剣が握られている。
大剣を目にしながら、ルッチェが腰に手をあてて胸を張る。
「うんっ、我ながら上出来だ」
「どうして俺の剣が……!?」
「あぁ、アウラを流すだけできみの大剣が出るように、ちょっと細工をね。形状記憶手袋? なんでもいいけど、そんなものだよ」
彼女はさらっと言ってのけたが、とんでもない物のような気がする。
そのことへの驚きは大きかったが、いまのイオルにとって、ほかに気になることがあった。それは、どうしてこれを礼の印に選んだのか、ということだ。
思っていることが顔に出ていたのか、ルッチェが説明してくれる。
「さっき街中で戦ってたとき、大剣の切り返しに時間がかかってたのを見てね」
「大剣を再生成して切り返したほうが速いと考えたわけか」
「そういうこと。これならなにも考えないでいいし、一瞬で生成できるからね」
イオルは試しに大剣を消滅させ、ふたたび造りだしてみると、ほぼ時間差なしに再生成された。たしかにこれなら大剣に振り回されることなく、切り返しの一撃が放てる。
「なるほどな……悪くない」
「あ、でもこれに頼ってばっかりだと本来の生成速度が落ちていくかもだから、必要なとき以外は控えたほうがいいかも」
「肝に銘じておこう」
ルッチェの忠告を聞きながら、イオルは大剣を霧散させた。
これがあれば、戦闘をより有利に運ぶことができるだろう。
地力での能力向上ではないことに、もちろん思うところはある。
だが、成すべきことのためにも、自身の誇りなどにこだわってはいられない。
ふいに入り口から足音がした。
先ほどラヴィエーナが追われていたことから、また同じ手のものか、と思い、イオルは身構える。
「ラヴィエーナはいるかー」
そんな間の抜けた声を発しながら、ひとりの男が入ってくる。
外套を羽織ったその男の顔には、鼻筋に大きな斬り傷が見られた。
見覚えのある姿に、イオルは目を見開く。
「お前はさっき酒場で会った……?」
「あ? なんであんたがここにいるんだ?」
二人して見合っていると、ルッチェが首をかしげながら訊いてくる。
「あれ、もしかして二人とも知り合いなの?」
どうやら目の前の男は彼女の顔見知りらしい。
イオルが警戒を解くと、鼻傷の男が肩をすくめながらルッチェにこたえる。
「まあ、そんなとこだよ」
「ふーん」
あまり興味がないようで、それ以上は訊いてこなかった。
「あ、そうそう。ジンさん、頼まれてたもの出来たよ」
「俺も今日はそれを受け取りにきたんだ。」
「ちょっと待ってー。いま出すからー」
ルッチェが工房内を漁りはじめた。
ジン、と呼ばれた男が周囲を見回しながらつぶやく。
「相変わらず散らかってんなぁ」
ルッチェが探し物に夢中になる中、ジンがイオルに視線を向けてくる。
「まさかあんたがここにいるとは思いもしなかったぜ」
「お互いさまだ」
「それで、なんでラヴィエーナと?」
「さっき街で追われた奴を助けたら、あいつだっただけだ」
「へぇ。あんたがそんなタチだったなんて思いもしなかったね」
「たまたま気が向いただけだ」
「たまたま、ねぇ」
なにやら意味ありげに口の端を釣り上げた。
酒場で会ったときもそうだが、相変わらずいけすかない男だ、とイオルは思う。
「あったあった!」
ルッチェが甲高い声をあげながら、革で繋がれた二つの筒のようなものをかかげた。
どうやらあれが探していたものらしい。
イオルには、使い道がまったくわからない代物だ。
その二つの筒をジンに手渡すと、ルッチェが説明をはじめる。
「二丁光銃。まっ、ひとり用のサジタリウスだと思ってくれていいかな。ただ、こっちは飛びながら撃てるけど、瞬間的に纏うアウラの質が落ちるし、射程距離がすごく短くなってるから注意してね」
肩から垂らすように装着されたそれは、二つの筒が前面を向くように腰で固定される。
「さすがだな。思ってた以上のもんだぜ」
「でしょでしょ。あたしも結構気に入ってるよ」
そう得意気に言いながら、ルッチェが鼻の下をこすった。
手が汚れていたのか、こすった場所が黒くなっている。
「金はこれで足りるか」
ジンが、腰に提げていた袋をルッチェの前に放り投げる。
床に落ちたとき、重量感のある音がした。
かなりの量が入っていることがうかがえる。
ルッチェが袋の中身を確認したとたん、目を瞬かせる。
「こ、こんなにっ!? ちょっと多すぎるよ!」
「俺にはもう必要ねえから、もらってくれ」
「え~……まあ、そっちがいいならいいんだけどさ……。そう言えば弟のドンさんは? 今日はいないの?」
「ああ。あいつなら死んだよ」
「し、死んだって……」
あっさりと告げられた事実に、ルッチェが唖然としていた。
ジンは顔を俯かせると、過去を思いだすように目を細める。
「帝国に……いや、ガルヌってやつに殺されたんだ」
◆◇◆◇◆
ガスペラント帝国の依頼を終えたジン・ザッパは、弟のドンとともに、巨大な地下水路を歩いていた。
そばを流れる水は見るからに汚い。
ジンは慣れてしまっているが、初めて訪れた者は、あまりの刺激臭に頭痛に襲われるという。そのため、ここがティーグ大陸のごみ溜めと呼ばれる場所の地下であっても、あまり人が寄りつかなかった。
ジンは弟が抱えた大きな袋を見つめる。
そこには大量の食材がつめこまれている。
「あいつら、どんな顔するかな」
「肉なんて食べるのひさしぶりだから、きっと喜ぶよ」
ジンは、弟とともに住家で二十人ほどの子どもを養っている。
そのため、大量の金が必要だった。
とはいえごみ溜め出身者では、まともな職に就けない。
たとえ就けたとしても、生半可な稼ぎでは多くの子どもを養えない。
殺し屋などという危ない橋を渡っているのは、それが理由だ。
「でも兄ちゃんが無事に帰ってきたことのほうが、みんなも嬉しいんじゃないかな」
「まあ、俺たちがいねぇと食いっぱぐれるからな」
「そうじゃなくて、みんな兄ちゃんのことが大好きだからだよ」
「だったらいいんだけどな」
そうしてドンと話しながら、水路を進んでいく。
やがて、あと一度角を曲がれば住家が見える、というところにたどり着いた。
ふと、汚染水とは別のにおいが鼻をついた。
間違いない。
血のにおいだ。
ジンは即座に身構え、ひそめた声でしらせる。
「おい、ドン」
「うん」
ドンがうなずきながら、抱えていた袋を道の脇に置いた。
ジンは、ドンとともにアウラを纏うと角の先に躍り出る。
通路の先に、黒ずくめの人物が立っていた。
異色はまったく見られない。
一目で、相手が黒導教会の手の者であることがわかった。
傍には開け放たれた鉄扉。
そこから飛び出るように血が地面に付着している。
鉄扉の先は、ジンの住家……子どもたちがいる場所だ。
ジンは、言葉を失った。
「オソカッタナ」
男の発しただみ声が、ジンには遠く聞こえた。
なぜ、このようなことになったのか。
――黒導教会。
ガルヌが関わっていることは間違いない。
奴に敵対するようなことはしていないはずだ。
ベルリオット・トレスティングと交戦する機巧人形が負けそうになったら加勢する、という先の依頼。それを言葉通りにしか達成せず、ベルリオットを殺せなかったことが理由だろうか。
……いや、違う。
ほかに思い当たる節があった。
過去に、ジンはリヴェティアの前国王レヴェンを暗殺したことがあった。
依頼者はグラトリオ・ウィディールだが、仲介したのはガルヌだ。
奴が帝国に属していることは周知の事実。
おそらく暗殺に関わったという事実を歴史から消したいのだろう。
だが。
「あいつらは関係なかっただろっ!」
ジンは飛びかかる。
この狭い場所では、サジタリウスは使えない。
もとより相手に姿をさらしている以上、近接攻撃しか選択肢がなかった。
造りだした両刃の剣を手に、ジンは黒ずくめに斬りかかった。だが、片手でたやすく受けとめられてしまう。押しこもうとするが、それ以上は進まない。
ふいに、黒ずくめの服が弾けるように散った。
人型の真っ黒な化け物が、姿をあらわにする。
「なっ!?」
どう見てもシグルにしか見えない。
だが、見たことのない形状のシグルだ。
化け物がジンの剣を握りつぶした。紫の光で造られた結晶武器が、こうも簡単に破壊されるとは思いもしなかった。
ジンは思わず驚がくするが、いつの間にか目前に迫った敵の手が、すべての思考を停止させる。
やられる――。
「兄ちゃんッ!」
ふいに、ドンが横合いから抱きつくような形で体当たりをしけてきた。決して少なくない弟の肉に包まれ一瞬苦しくなるが、おかげで敵の攻撃を受けずに済んだ。
一定の距離をとったあと、化け物と睨みあいながらひそめた声で話す。
「悪い。助かったぜ」
「いまから僕が仕掛けるから、兄ちゃんはそれにあわせてここから逃げて」
「お前、なに言って――」
「兄ちゃんだって本当はわかってるだろ! あいつに敵わないって!」
普段はおっとりしている弟が怒鳴ることはめったにない。
それだけに真剣なことが伝わってきた。
ジンは立ちあがる。
「わかった」
「兄ちゃん……!」
「だが、逃げるのはお前のほうだ。ドン!」
目を見開いたドンを置き去りにし、ジンは化け物へ向かっていく。空中で剣を生成させるやいなや、身にまとう外套の前面を切断し、すばやく脱ぎ去る。それを化け物へと放った。目くらましになれば、という考えだ。
「クダラン」
まるで嘆くように化け物がそう発した。
直後、布の中心を貫くように刃が飛んでくる。神の矢だ。
その存在を知っていなければ硬直していたかもしれない。
反射的に体を横にそらした。猛烈な勢いで黒結晶が鼻筋をかすめていく。
血を空中に散らしながら、ジンは体の正面を化け物へと向ける。
瞬間、ぞくりと背筋が凍るような感覚に見舞われた。
化け物がにやりと口の端をつり上げる。
瞬間、ジンの視界の端でなにかがちらついた。
そちらへ目を向けると、すぐ近くにまで黒結晶の刃が迫っていた。
先ほどの攻撃は、こちらを惑わすためのけん制だったのだ。
回避行動をとろうにも間にあわない。
ジンはとっさに剣を割りこませる。
甲高い音とともに、腹部に強烈な衝撃が襲いくる。
その場にとどまっていられず、勢いのまま突き飛ばされた。
壁に衝突。鈍い音を鳴らしたあと、ジンはずるずると倒れこむ。
「ヨワスギル」
ジンの前に立った化け物が腕を引いた。
その刃物のような手で、これから刺されるのだろう。
ドンのやつ、ちゃんと逃げられたか……?
ジンは死を覚悟しながら、ただただ弟が無事であって欲しいと願った。
ふとぼやけた視界の中、化け物の背後へ飛びかかる影が映る。
ドンだ。
逃げなかったのかッ!?
意図していなかった事態だったが、化け物は気づいていない様子だ。
ドンは太い槍を両手に持ち、突き立てるような形で迫る。
これならいけるかもしれない。
そうジンが思ったとき、化け物が流れるような動作で振りかえり、腕を伸ばした。
ドンの胸が、ぐさりと貫かれる。
「ドォオオオンッ!」
ジンが叫び声をあげる中、緩みかけたドンの顔が引き締まる。
「うぁあああああああああ――ッ!!」
雄たけびを上げながら、ドンが前へと突き進んだ。鮮血を散らしながら、化け物の懐までもぐりこむ。そこから両手に持った槍を相手の体に突き刺した。
「バカナッ……ミズカラヲ、犠牲ニ……!」
ドンの動きは止まらなかった。
全身にアウラをみなぎらせると、その巨体で化け物にしがみつく。
「ハナセッ……ッ!」
「いま、だ。兄ちゃん……」
血をあふれされた口で、その言葉はつむがれた。
弟の無残な姿を前に、ジンは全身が強張ってしまう。
だがドンは、その身を犠牲にしてまで化け物の動きを止めてくれたのだ。
絶好の機会を無駄にするわけにはいかない。
ジンは己の体を奮い立たせる。
くそが。くそが……。
「くそがぁああああああ――っ!!」
恐怖に歪んだ化け物の顔。
そこへ、ジンは剣を突き刺した。
怒りに任せていたからか、貫いた感触は得られなかった。
倒せたのだろうか、と不安に駆られてしまう。
まるで風にあおられた砂のように、黒い粒が化け物の体から散っていく。
そこでようやくジンは、化け物を倒せたことを確信した。
やがて化け物を形成していた黒い粒が、すべて消え失せる。
ささえを失ったドンが、その場にどさりと倒れこんだ。
「ドンッ!」
ジンはすぐさま駆け寄り、弟の体を抱き寄せる。
ドンの視線は、なにも捉えていない。
ただ上だけを見ている。
「良かった……兄ちゃんが無事で」
「もういい。喋るな」
「もうあの子たちはいないんだ。もうじき、僕もいなくなる」
「な、なに言ってんだっ! お前はいなくならない!」
「もう縛られる必要はないんだよ。殺しなんてしなくていいんだよ。兄ちゃんは……これから自由に生きていいんだよ」
「ふざけるなっ! 俺は……俺は、縛られてなんかいなかった! 孤独だった俺にお前たちが居場所をくれたんだ! だから俺は、あいつらが、お前がいるだけで――」
ふっと、ドンが微笑んだ。
「ありがとう、兄ちゃん」
それを最後に動かなくなった。
弟がどうなったのか、ジンは頭では理解していた。
だが、心がそれを否定する。
「……ドン? おい、ドン! 返事してくれよ。頼むから……っ!」
体を揺さぶってもドンは動かない。
水の流れる音が響く中、だんだんと冷たくなっていく弟の体が、否が応にも死んでいることをしらせてくる。
そしてついに、心が弟の死を受けいれたとき。
ジンは慟哭した。
◆◇◆◇◆
「俺は、これから弟の……あいつらの仇を取りに行くつもりだ」
そう告げたジンからは、固い意志を感じられた。
イオルは、先ほど彼が口にした人物の名にふと疑問を覚えた。
「そのガルヌと言うのは、俺がさっき酒場で聞かされた奴と同一人物、という認識で間違いないのか?」
「ああ、そうだぜ」
「帝国の幹部と聞いたが……お前ひとりでとれるのか?」
「なにも無策で突っこむわけじゃねえさ。いま、リヴェティア側と帝国側が争ってるのは知ってるよな」
ああ、とイオルはうなずく。
「実はな、帝国側から休戦交渉を申しこんだらしいんだ」
「馬鹿げた話だな」
「俺だって帝国側の行動なんか理解できねえよ。でまあ、その会談がいま、ファルールで行われてるらしいんだが、ティゴーグの南側に帝国軍がやけに集結してる」
「帝国側が会談を急襲するつもりじゃないか、と思っているのか? 言ってはなんだが、ファルールが北方防衛線を固めている限り、侵攻は容易ではないぞ」
「どう急襲するかまではわからねえけどな。帝国だってそれを承知のうえってことは忘れちゃいけねえぜ。まあ、不自然な休戦交渉もあったことだし、帝国がなにかしかけることは間違いない」
「つまり、お前は帝国が侵攻した際に起こる混乱に乗じて、ガルヌの首をとろうという算段か」
「そういうことだ。リヴェティア側も、ディザイドリウム側から帝国に攻められないってんで、ファルール大陸にかなりの騎士を送りこんでるって話だ。もし勃発したら、メルヴェロンドんときとは比べ物にならないほどの戦いになるだろうよ」
たしかに開戦すれば、大きな戦いになることは間違いないだろう。
イオルは、自身が生まれたリヴェティアを案じたが、脳裏に浮かんだ男によって不安を拭い去られた。
……ベルリオットがいる限り、心配する必要はないな。
「うわぁ~……このままだとリヴェティア大陸が落ちるかも」
ふいに、ルッチェが震える声をあげた。
それが「リヴェティア側が負ける」であったならば、イオルは食いつかなかったかもしれない。だが、「リヴェティア大陸が落ちる」という言葉に、疑問を抱かざるを得なかった。
「リヴェティア大陸が落ちる……? まさかシェトゥーラが落ちたことを知らないわけじゃないだろう」
「それはもちろん知ってるけど」
「ガスペラントからリヴェティアまで二大陸分の距離が空いてる。その間を航行できる飛空船など存在しないはずだ」
その大前提を、ベッチェ・ラヴィエーナの子孫であるルッチェが知らないはずがない。
うつむいた彼女が静かに口を開く。
「実はさ、あたし帝国に捕まってたんだ。さっき街中で終われてたのも、あたしを取り戻そうとしてた帝国兵なんだけど」
踏みこむ必要はないと思い、イオルは彼女が追われていた理由を訊かなかったが……まさかそんな経緯があろうとは思いもしなかった。
ルッチェはばつが悪そうに、とつとつと次の言葉を紡いでいく。
「その~……捕まったときにさ、造る気もない妄想設計図をたくさん見られちゃって、色んな物を造らされてたんだけど……その中に……」
「まさか」
ようやく話がのみこめたとき、イオルは思わず目を瞠った。
顔を引きつらせながら、ルッチェが口にする。
「うん……そのまさか」