◆第一話『過去』
七大王暦一七二五年・七月二十二日。
――リヴェティア大陸王都郊外、浮遊島アーバス。
不思議なぐらい風のない日だった。
満天の星が輝き、生い茂った緑たちを青白く彩る。
体に触れているのかわからなくなるほど空気は生暖かく、心地良い。
それらはまるで生死の挟間を演出しているかのように異様だった。
「謀りやがったな……っ!」
這いつくばる男がいた。
かきあげられた髪の下、その顔は苦痛に歪む。
血走った眼は今も強い意志を宿したままだが、その身体からは微塵の精力しか感じられない。
「いかに《剣聖》と呼ばれる男でも、この力を前にしては赤子も同然か」
見下ろす男がいた。
その姿は暗闇に覆われ、うっすらとした輪郭しかうかがえない。
しかし確かな狂気が、そこに存在していた。
「ようやくわたしは解放される。お前という名の、呪縛からな」
「おまえ……どうしてそこまで俺を……っ!」
「わからないというのなら、それこそがお前の罪であり、わたしがお前を憎む理由だ――」
草の揺れる音がした。
見下ろす男が舌打ちをする。
「邪魔が入ったか……まぁいい。ここで退くとしよう」
「待ち、やが……れ……っ!」
這いつくばる男の声もむなしく、暗闇から影は消えた。
荒々しい足音が近くまでやってくる。
「お父さんっ!」
姿を現したのは年端も行かない少年だった。
少年の深い青色をした瞳は動揺に満ちている。
艶やかな黒髪を揺らしながら男に近寄る。
「血が出てるよ……っ! どうして!? なにがあったの!?」
「ベル……か」
男の視点は定まっていない。
それでも声を頼りに少年の顔を探り当てていた。
遅れて、ひとりの女性がやってくる。
鮮やかで少し青みがかった銀髪が、夜には酷く目立っていた。
「ベル様、これはいったい!?」
「メルザっ! お父さんが! お父さんがっ!」
男が咳き込んだ。
血反吐が飛び散る。
鮮血に染まった口元を拭う力すらない男は、不恰好なまま言葉をつむぐ。
「悪ぃがメルザ……ベルを頼む」
「なに言ってるんだよ! わけわかんないよ! それじゃまるで死んじゃうみたいじゃないか!」
下唇をわずかに噛んだあと、銀髪の女はすぐに瞳に決意の色を宿した。
「わかりました」
「なんでだよメルザ! お父さんは世界一強いんだ! 誰よりも強いんだ!」
「ベル様……」
少年の必死の形相を前に銀髪の女は視線をそらした。
男が傷だらけの手を宙にさまよわせる。
行き着いたのは少年の頬だった。
「……ベル。誰かを護ってやれる、そんな男になれ」
「そんなの無理だよ! 僕はお父さんみたいに強くなんかなれっこない!」
「今はそうでも、お前は絶対に強くなる」
苦痛にゆがんでいた男の表情が和らいだ。
現状に似つかわしくない、穏やかな空気が場に満ちる。
「なんてったって俺の息子だからな」
男の、最後の言葉だった。
震えていた男の身体が人形のように動かなくなった。
それが引きがねとなったか、ついに少年の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「お父さぁああああん!」
慟哭がひびく中、男の傍らにすぅっと幾つもの燐光が現れた。
燐光は段々と輪郭を持っていき、美しい女性の姿を模る。
やがて包み込むように男を抱きかかえると、天へと消え去った。
人は皆、もとは地上にいた。
しかし今、人が住むのは空に浮かぶ大陸。
運命に抗えぬ、滅びゆく大陸。
ここは天と地の挟間の世界――イェラティアム。