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マッチ売りの少女。  作者: 森風 しゅん 
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3.束の間の夢

「結婚しない」の主人公の気持ちがわかるあたし。


 それは、遠くない記憶。



――こわいよ。おねえちゃん、たすけて。



 掠れた声で、そう囁く幼い声。

 打ち捨てられた小さな教会。流れ旅の途中に足をとめたそこにいたのは、痩せこけた小さな男の子だった。息さえも凍りついてしまいそうな寒さのなか、男の子は薄い布一枚に身を包んでいるだけだ。ところどころ崩れかけた教会のそこここにはすでに息絶えていると伺える人間が何人も横たわっている。その誰の肌にも、黒い斑点が浮かんでいた。

 それと同じものを体中に浮かび上がらせ、男の子は震えながら泣いていた。

 肌に浮かんだ黒い斑点よりも、もっと暗い洞のような闇を目に宿して、泣いていた。

「たすけて、おねえちゃん」

 救いを求めるように手がのばされる。しかし骨と皮だけになった手は、ぎりぎりトーラには届かない。

――そうか、ここは。

 『疫人の捨て場』。治癒が不可能、困難な患者たちを集め、隔離するための場。そこに足を踏み入れてしまったようだ。

 目の前の男の子は、その最後の生き残りということらしい。

 トーラは男の子を静かに見下ろし、眉根を寄せた。

 肌に黒い痣が浮かぶこの病は、その痣が全身に回ったと同時に命を奪う不治の病。

 この子の命はもう後少しで消える。

 トーラは目深に被っていたフードを取り払い、マントを脱ぎ捨てて男の子の体に被せた。

 そして、その手が届かない位置を縮めずにその場に腰を下ろす。

「……ごめんね、あたしには助けてあげられない」

 そんな力はない。と呟いて、赤い髪をくしゃりとかきむしる。

 俯いた視界の中、小さな手は力なく冷たい床に落ちた。しゃくりあげる声さえも止んで、まさかもう息絶えてしまったのかと顔を上げると、男の子は生気のない顔で小さく笑っていた。

「……ううん、いいよ。でも、おねがい。ぼくが話さなくなるまで、ここにいて。ひとりぼっちにしないで」

 それに小さく頷いて、トーラは崩れていない石の壁に背を預ける。

 ぽつぽつと語られていくのは、ここに来るまでの男の子の生活。

 いつも遊んでいた女の子が、ある日突然死んでしまったこと。

 その日から体に黒い痣が浮かぶようになったこと。

 それを見つけたお母さんが悲鳴を上げて泣きわめいたこと。

 体を幾重もの布で覆われ、気づいたらここにいたこと。

 同じように黒い痣を持つ人々が、次々と死んでいったこと。

 そうして最後の一人になってしまったこと。

「こわかった。すごくこわかったんだ。どんなに呼んでも誰も来なくって……でも、おねえちゃんが来てくれた」

 ほころぶように笑う子に、針で突かれたように胸が痛む。

 今は冬。雪も降るような寒さだ。壊れた外壁から風が吹き込み、どれほどこの小さな子の体温を奪っていっただろう。どれほどその心を凍てつかせただろう。

 トーラの纏っていた外套で、その寒さが少しでも減ってくれればと願った。だって、トーラにはこの距離を縮められない。手を取って温もりを与えてやることはできないのだ。

 この病は、『接触』によって感染するものだから。

「本当に……ごめんね」

 目を伏せてただただ謝罪を紡ぐしかできない自分が嫌だ。唇を噛むと、がさがさに乾いた唇が切れてわずかに血が滲む。

「なんでおねえちゃんがあやまるの? なんにも悪く、ないのに」

 暗く静かな空間に響く幼い声は、それでも優しかった。

 小さく息を吐き出して、男の子は横たわったままトーラを見上げる。その目が、まあるく見開かれた。

「まっかな、かみだ……」

 すごいすごい、まっかだ、みたことない、すごいなぁ。小さな声だが、はしゃいだ様子でその台詞を繰り返す。

 トーラの持つ赤い髪は、この国においてはとても珍しい部類の色だ。

 国民の大半の髪色が黒か白といった落ち着いた色であるため、トーラの赤い髪は否が応にも人の目を惹いた。物珍しさもあってか、一度ならずこの髪のために『商品』として人買いに追いかけまわされたこともある。 

 そして、この赤い髪はなによりも【マッチ売りの血統】に連なる者であるということの証。

 トーラにとっては忌々しいことこの上ないモノだ。

「なんにもすごくないよ、こんな髪……」

「すごいよ。まっかなかみ、りんごみたいなきれいな色だもん」

 おいしそう、と痩せた頬に笑みを浮かべる。

「ぼくね、りんご好きなんだ。甘くて、とってもおいしいし。また、食べたいなぁ」

 目を閉じて、夢見るように男の子は言葉を紡ぐ。

 その言葉に、トーラは教会を見渡す。捨てられた疫人達に、食糧など与えられた筈がない。そこここに転がる死体は一様にやせ細っている。それは病からくる衰えだけではないように思えた。

 ポケットを探ってみるが、そう都合よく食べ物が入っている筈もなく、差し込んだ手が掴んだのは空ばかり。ため息がこぼれる。

 男の子が大きく咳きこんだのはその時だった。細い体を丸めて咳きこむたび、ひび割れた石の床が赤く染まっていく。

「だっ……」

 大丈夫?、と問いかけようとして口をつぐむ。大丈夫なわけがないのに、それを口にしたところでどうするのか。宙に伸ばした手が力なく床に落ちる。

 咳は止まらず、血痕は広がっていく。咳きこみすぎたせいか男の子の目尻から透明な涙がいくつも零れ落ちた。

「な……んで」

 胸を上下させながらぽつりと落とされた呟きに耳を傾ける。

「どうして、こんなことになっちゃったんだろ。なんで……みんな、夢だったら良かったのに」

 その言葉は、トーラの胸の奥深くに突き刺さる。トーラがずっと抱え続ける凍土の端が、崩れる音が聞こえたような気がした。

 なにもできない。そう無力感に囚われることは簡単だ。

 トーラは、その場にゆらりと立ち上がった。

「全部、ゆめにしたい? つらいことも悲しいことも全部ゆめにしたい?」

 縮めようとしてこなかった距離を一歩踏み込む。涙を湛える黒い瞳を覗き込んだ。

 寂しさと、悲しみと、恨みとそして、ほんのわずかな期待をそこに見てとって。

 トーラは手を伸ばした。古ぼけた自身の外套に覆われた――ちょうど心臓の位置に。

「火よ――灯れ」

 風もない空間で、トーラの赤い髪が燃える炎のように揺らめいた。



 男の子の閉じられた瞼から、一筋涙が伝う。それでも、こけた頬に刻まれているのは間違いなく笑顔だった。


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