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短編

あなたを護る

作者: 方霧

彼女は眩しいドレス姿で、僕の前に立った。


「行きましょうか」


美しい笑顔を浮かべると、肘まで絹の手袋に包まれた片手を差し出した。

その佇まいはまるで山茶花のようで。

僕は無言で頷いて、その手をとって、外へと踏み出した。





彼女は前公爵の、末の娘だ。

蝶よ花よと育てられ、本来なら多くの人に護られ、一生遊んで暮らしてもおかしくないような、そんな立場にいた。

事情が変わったのは五年と少し前。

侯爵家の謀略で、彼女の父は周囲の信用を一気に無くしてしまった。早々に根回しされ、張り巡らされた罠に気がつかなかった公爵。彼が状況の深刻さを正確に理解出来た頃には、もはや為す術がなかった。

公爵と侯爵はもともと仲が悪かった。

両家の間には根深い因縁があって、憎み合っていたものの、王家が争い事を厭うということもあり、互いに睨み合いが続いていた。そんな中、侯爵が先手を打ったという形だった。

懇意にしていた者たちも次々に彼の元を離れていった。

二年間、汚名返上の為に公爵自ら必死で駆けずり回った結果、冤罪だと発覚。ただ、他家と元通りの関係を築き直すには、少し時間がかかりすぎた。それでもと彼は諦めることなく、休む間も惜しんで関係修復に仕事にと励んだ。

ようやく侯爵家に立ち向かえるくらいの力を取り戻した彼女の父。いよいよ積年の恨みを晴らすべく侯爵家へ挑んだところ、更なるしっぺ返しを食らってしまう。


貴族社会にほとほと疲れ果てた彼は早々に現役を退き、爵位を長男へと譲った。それから自分が居ない方が子供たちの為になると、夫人を連れて帰郷し、隠棲してしまった。それが今から約二年前。


長子である彼女の兄は、爵位を受け継いだものの、研究者気質で社交界が肌に合わず、上手く立ちまわれぬうちに彼女の家は更に孤立。これ以上堕ちるものかと思われていたが、没落寸前の家へと堕ちてしまった。

没落した家の末路を、貴族である彼女は嫌というほど知っている。それだけは避けねばならない。

なによりやられ放題なまま消えて行くなど冗談じゃない…目の前に広がる暗い未来を覚悟した時、ただ愛されるだけの存在だった彼女の心に火が灯った。

もはや、残された欠片ほどの誇りを守り、爵位を剥奪されぬために。

そして家族が生き延びるために。

公爵家は己よりも上の立場にある存在に、縋るしかなかった。

残された最後の希望である彼女が、上の者に仕えて働くしか、残された道は無かったのだ。

元の地位を取り戻し、雪辱を果たすことこそ、彼女の胸に秘めた野望だった。





今日もその仕事の為に、パーティー会場へと向かっていた。


夕暮れ時の森の狭間を道が走る。木々の影が暗く濃くなっていく。御者が馬を急かす声が、風に流され、闇に散って、溶けていった。


ガタゴトと揺れる車内。


ちらりと外の様子を窺う。

森の中には、僕達以外にも数多くの護衛がいた。大仰に列をなし、行進する一行に驚いて、鳥たちが逃げ飛び去っていく姿を何度か見た。

彼女自身、いくら廃れかけているとはいえ現公爵の妹であり、決して賤しい身分というわけでは無い。自然と護衛の数も増える。それが必要かは別として、備えがあれば憂いはなくなる。

何度も言うようだが、本当なら、守られるべき立場にある女性なのだ。


「本当ならね」


耳に心地いい声が、正面から聞こえた。頭にあった言葉と重なっていたのと、耳当たりが良すぎたのとで、危うく聞き流しそうになるも、慌てて相槌を打った。鋭い彼女のこと、そんな僕の様子は丸分かりのようで、若干不満そうに目を細める。

それでもちゃんと、途切れた先を続けてくれた。


「本当なら、あんなとこ、私だって行きたくはないんですけどね」


私だって。

彼女の言葉は、きっと実の兄を非難してのものだろう。

公爵も公爵夫人も、社交場を好んではいなかった。だからその子供たちがあの場所を拒むのも自然なことのように思う。目の前のこの、気高く精練なひとを作り上げた、慎ましやかな家族が皆、上流階級社会に漂う独特な空気に馴染めなかったとしても、何ら不思議はなかった。


「それをいうなら、僕も行きたくはありませんよ」


久々に口を開いた僕の方をちらりと見て、形の良い唇から、小さくため息を溢した。


「仕事なのだから仕方ありませんわね、お互い」


細くて、うっすら赤い眉をハの字にして、諦めたように笑う。

艶やかな、濃い赤色をした髪が、夜の闇の中で揺れて、暗く光る。

その姿が妙に大人びて見えて、僕もつられて、薄く笑った。




「あら」




彼女が軽く身を乗り出して、窓から外の景色を眺めた。

進行方向を振り返って、思わずという風に声を漏らした。


「見えましたわね」


明々と燃える松明に照らし出された巨大な洋館が、段々と近づいてきた。


「気鬱になる。あの重苦しい雰囲気」


「本当に」


「舞踏会」という華やかな場所に憧れているだろう平民が聞けば、きっと贅沢な悩みのように思うのだろう。

ただの我儘にも等しいのだから。

衣食住不自由なく、五体満足で、兵役もなく、生きるのに困っているわけでも、不当に迫害されているわけでもない。

富に溢れ、地位もある。

だからこそ、その立場相応の悩みがある。

ただそれだけだとも言えるし、それがすべてだとも思えた。


がんじがらめだ。


産まれる前から積み重ねられた歴史と、知らぬうちに周囲を覆い尽くしていた、絡まり合い、複雑を極めた人々の相関図。それらが、僕達一個人が思うままに動くことを許してはくれない。現状保持と、均衡の維持を強いてくる。そういう圧迫感を感じさせる。

肉体ではなく、精神が責め苛まれる苦痛と息苦しさ。身体は自由でも、意志を拘束されている。

別に直接的に責を課せられているわけではないけど、僕達を囲む状況とその全てが、周囲の為に生きる道を、僕達に選ばせるのだ。


しようとおもえば現状は壊せるし、均衡は崩せる。


でも僕達はそれを望まない。

選んでいるのは僕達。

できるけど、できない。

生きているけど、生きられない。


あの場所にいると、そう言った諸々を、まざまざと思い知らされる。

現実を生々しく味わわされる。


ふと

目の前を見つめた。


気がつけば、彼女の横顔が泣きそうに翳っている。

月の光が照らし、青白く浮かび上がる滑らかな肌。白磁みたいな顔に長い睫毛の影が落ちて、そのコントラストがあまりに妖艶で。

そして儚い。

僕のせいだ。

貴女には幸せでいて欲しいのに。


「僕が護ります」


目を見開いて、彼女は振り向いた。


「僕に、護らせて、ミラ」


真剣な眼差しに、彼女は戸惑う。

そして、曖昧に笑う。


「有難う」


貴女はそう言った。

僕は彼女を困らせてしまう。

貴女がそう言う以外に術がないことを、僕が誰よりもわかっているのに。




ゴトリ、と僅かな衝撃のあと、馬車は停まった。


「到着いたしました」


御者が、なかなか動こうとしない主にそう告げた。

あっけないほどあっさりと、何事もなく、目的地に到着した。


眼前にそびえる巨大な要塞。蠢く人々の影や、松明の灯火の揺らめきが外壁に浮かび上がり、不気味さを一層際立たせている。

有象無象を腹いっぱいに抱え込み、それでもなお、飢えた表情をしているように見えた。

僕もまた、愚かにも自ら喰われに行くのだ。

そうして生気を吸い取られ、搾りかすになってやっと吐き出される。

夜明けが待ち遠しい。


…なんて。

何の罪もない古びた洋館から、こんなにも醜悪に擬人化した印象を受けるほどに僕は参っている。

自覚したら、そんな自分自身にますます落ち込んでしまった。


「さあ」


つくづく嫌そうな表情を隠さない僕に、彼女は前に進むよう促した。

そっと僕の眼前に手を差し出す

項垂れていたけれど、その声に背筋を伸ばす。

貴女が居なければ、僕は正気ではいられない。


颯爽と歩く彼女の横に並ぶ。少しの間も、離れてしまわないように。

開け放たれた巨大な扉。

入口の両脇に控える兵士。

その中央で待ち構える壮年の男性。


彼の目の前で彼女は立ち止まった。僕は控えるように、彼女の僅か後ろで歩みを止める。


「お待ち申しあげておりました。…おお、なんとも、心強い護衛をお連れのご様子で」


冗談めかして、愉快そうに笑う。

イブニングに身を包んだパーティーの主催者が、賓客を迎え入れるためにこちらへと歩み寄り、彼女の前に立った。


「これはこれは、ミラ嬢。久しくお目にかかりますな。ますます美しくおなりになって」


「あら。…伯爵もお変わりないご様子。お元気そうで何よりですわ」


「お仕事、ですな」


「ええ」


少しの間だけ笑い合って、彼女はそっと、横へと少し下がった。


「どうぞ、中へ」


伯爵が僕の方へと一歩進み出た。


「陛下」


そして、僕の足元で片膝をつき、僕の手をとった。


それに倣うように、彼女も僕の横で屈む。

やめてほしい。

折角のドレスが汚れてしまうし、なにより貴女にそんなことをして欲しくはないのに。

でも僕には、それをやめさせることが出来なかった。

ただ黙って、立ち上がった伯爵の後に続いて、パーティー会場へと向かった。


「道中、何もございませんでしたか」


薄暗くてだだっ広い廊下を歩きながら、伯爵がそう聞いてきた。


「ええ、何事もなく」


「それは良かった。このところ物騒ですからな。御身に何かあれば一大事」


「彼女がついてくれてますから。何も心配していませんよ」


少し後ろを歩く彼女に笑いかけると、照れたのか、俯いてしまった。





「年寄りが近くにいては、陛下も気が休まらんでしょう。そろそろ、会場の準備に戻りますので」


大広間へ案内すると、伯爵はそう言って、深々と礼をした。今度は彼女の方へ向き直る。


「陛下を、頼みますぞ」


そして、僕達に背を向けた。


「もちろんですわ」


彼女が、その背中へと返した。


「陛下の、心強い護衛ですもの」


誇らしげにほほ笑むと、スカートの端をつまみ、軽く膝を曲げた。


「…ねえ、やっぱりだめ?」


長い廊下の向こうへ老人の背中が消えて行くのを眺めながら、彼女に問いかけた。


「何がです?」


「結婚してよ」


しばしの沈黙。


「まだ言ってるんですか」


国王のプロポーズに、少女にしか見えないそのひとは、あろうことか呆れたような溜息をついた。


「幼い頃、お互いに政略結婚への批判で、意気投合したでしょう」


僕と彼女は許嫁同士だった。

初めて会ったのは五歳の時で、関係を知らされたのは十三歳の時。

でもそれは僕の父と彼女の祖父が勝手に取り決めたこと。

僕達の意思とは無関係な絆だった。


僕と彼女の意見は合致した。若さにかまけて一緒になって、政略結婚やら旧体制やらを推し進める二人を、頭が固いから世の中に順応できていないだの、古臭い考えのままだと時代に取り残されるだのと、偉そうに非難した。僕の父も彼女の祖父も、二人のあまりの熱弁に、婚約の継続も破棄も二人の意志に委ねるというような意志表示を示し始めた。同じ目標を協力して達成したことを二人して喜んだ。そのまま婚約は破棄し、それぞれ自分が望む相手を選ぼうという方向に話が動き始めた。

その頃からか。

それとも、もしかしたら意気投合した瞬間にはもう。

僕は彼女と、ずっと一緒に居たいと思うようになっていた。

もしも僕が、一生を伴にする相手を自由に選べるのなら、それは彼女以外に考えられなかった。

かといって、好きとか、愛してるとか。そんな積極的で強い感情じゃない。

それはもっと漠然とした、気持ち。

そう、


『貴女を、お慕いしています』


慕う。

それぐらいの言葉が、ぴったりだった。

初めて告白したのが、十六歳の時だ。


『またまた』


彼女は軽やかに笑った。


『折角勝利を掴んだんだから、手近なところで済ませようとしないで、もっと視野を広げてみましょうよ』


決してまともに取り合おうとはしない彼女に、僕も自分の気持ちに自信を無くしはじめ、そのうち気まぐれだったのかもしれないと思うようになった。

それからは僕も彼女も、何人かと交際した。

会っては離れ、別れてはまた出会い。

だけど誰と付き合っても、僕の頭を占めるのは彼女のことばかり。いつも長続きしなかった。

彼女の方も恋愛を楽しんでいるのか、本気で付き合う気がないのか、あっちへこっちへと浅い付き合いを繰り返していた。


『やっぱりミラが良い』


『あら、ありがとうございます。殿下』


ことあるごとに、僕は何度も想いを告げた。


『ミラが誰よりも大切なんです』


『私にとっても、殿下は特別大事な友人ですわ』


どんなに告白しても、砂を吐くようなセリフを繰り返しても、彼女は茶化してひらりと避けるばかり。

だけどその頃には多分、彼女の家は既に色々大変なことになっていたのだろうと、今なら推測できる。

僕に迷惑をかけまいと思ったのか。

自力で乗り越えてみせようと思ったのか。

とにかく婚約が嫌で僕を避けていた訳じゃなかった。


今わかったって、あの時じゃなきゃ、何にもならないけど。


引き継ぎで忙しいとか言って、いちばん大事なものを見落としてしまうような男は、彼女には相応しくないのだろう。




目が眩むほど豪奢で、何もかもが眩しいパーティー会場で、シャンパンに口をつけながら、そんなことを思い出して一人小さく笑った。


「お目にかかれて光栄にございます、陛下」


見知らぬ男性に声をかけられる。


「ご機嫌麗しゅう」


見知らぬ女性にも声をかけられる。


そう言った人々に愛想笑いを浮かべて、僕は自分の存在を誇示していく。


どれくらいそうして過ごしただろう。

人の熱に酔って、少し頭を冷やそうと、バルコニーに歩み寄った時だった。

見知らぬ老人に僕が呼び止められ、足を止めた時に、弾んだ声が後ろから聞こえた。


「ミラ」


僕に寄り添うようにして、つかず離れず傍にいた彼女の腕を誰かが引いた。


「あいたかった」


それは、彼女の従弟だった。

彼女の母の、姉の息子。

彼女が付き合っていた大勢のうちの、ひとり。

公爵家に残された、数少ない味方の、ひとり。

気もそぞろに見覚えのない老人と昔話をしている合間、ちらちらと後ろの様子を窺う。

彼の顔を確認した瞬間、彼女がかすかに眉をひそめるのを見た。


「…あら、誰かと思ったわ。お久しぶりね、ヒル」


にっこりと笑う彼女はとても魅力的だった。

従弟も目を泳がせて顔を赤らめている。


「久しぶり、ミラ。ごめん、突然」


「いいけど。取り敢えず放して下さる?」


笑顔のまま、彼女は強く掴まれたままの腕を軽く持ち上げてみせた。


「あ、ご、ごめん」


繋がれていた手がすぐに離れる。

零距離だった二人が、距離をとる。


「会えて、嬉しい。今日も、ショーン公は…」


「兄ならサナギにでもなってるんじゃない?」


不機嫌そうな彼女の言葉に、従弟は笑う。


「そう、相変わらずなんだね。…またお兄様にも会いたいな。近いうちに三人で…」


「悪いけど、しばらく忙しくて時間取れそうにないの。ごめんなさいね」


すっぱり。

笑顔のまま、そっけない返事。

従弟はとたんに悲しそうな顔になった。


「ミラ…。あまり無理を」


「いいえ。私は今、生きたいように生きているのよ」


さらりと放たれた言葉に、さりげなく優越感を覚える僕。

老人と上っ面の会話をしながら、意識は後ろの二人に集中していた。

それからいくらなだめてもすかしても、一向に彼女のペ-スで会話は続いていた。

だが、彼はめげない。


「今度家で茶会を開くんだ。よかったら羽を休めに来て欲しい。君の話が聞きたいんだ」


「ねえ、ヒル、本当に私、もう…」


段々と、彼に合わせた相槌の口調が疲労の色を滲ませ始めた。

明らかに従弟は未練たっぷりの様子。

彼女の方はほとんど興味もないのに、家のこともあって無下にはできないらしい。

そうでなければ、間髪入れずバッサリと切り捨てていることだろう。

引けどもかわせども休みなく押してくる。

これは疲れる。


…僕も彼女への接し方を考えようか。


反省して少し俯く。

はたと、自分の左手を見つめた。

いつの間にか、無意識のうちに彼女の手を握っていた。

どうやら弾んだ声で若い男がその名を口にした時、咄嗟に手をひいてしまったらしい。

彼女はそのことに別段気にした風もなかった。

お互いを繋いでいる左手は、二人の体に隠れて、周囲には見えていないようだ。


老人との話に切れ目が出来た時、僕は少しよろめいて、近くのテーブルに右手をついた。

その拍子に、軽く彼女の手を引っ張る。


「っ、陛下?」


「どうなさいました?」


口々に慌てたような声で言い、周囲にどよめきが広がる。


「いや、軽く眩暈が。酔いが回ったのかもしれません。もう大丈夫です」


声をかけてくる人々に笑いかけて、安心させる。


「へ、へいかっ…?」


横から震えたような声がした。

見ると、彼女の従弟が怯えたような顔で、目を見開いている。

どうやら彼にはたった一人しか見えていなくて、僕の存在には微塵も気がつかなかったらしい。


「今晩は」


微笑みかけると、うろたえたように慌てて、深く礼をした。


「は、はっ」


「悪いね」


緊張して目を白黒させている彼に、僕は断りを入れた。


「え?」


突然の言葉に、彼はぽかんとした顔をした。


「彼女を独り占めして」


緊張で上手く頭が回っていないらしく、顔も姿勢も固まったまま。

そんな彼が正常稼働する前に、彼女の手をひいて、僕は人波をかき分け始めた。


「ミラ嬢。御親戚の方と話している最中ですまないが、護衛としてついてきてくれないか。外で涼みたいんだ。…皆様。わたしは少し外しますが、折角伯爵がわたしのために開いて下さった舞踏会です。宵の熱が冷めぬうち、皆様は引き続きパーティーをお楽しみください」


言い残して、さっさと会場を後にした。


「え、あ!へ、へいか!?ミラ!…ミラっ!!」


焦った声は会場のざわめきに紛れて、聞こえなくなった。





「面白くない冗談」


喧騒から離れ、夜風が良く通るバルコニーに出て、息を整えていると、彼女が言った。


「酔いが回った、ですって。酒に酔ったことなんてないくせに」


怒っているのかと振り返ると、困った顔をしていた。


「酔ったよ。人に酔った」


ぬけぬけと…と、ぶつぶつ文句を言うその顔はまだ曇っている。


「勝手なことして、ごめんね」


僕が謝ると、彼女は黙って顔を上げた。

違った。

困った顔、じゃない。

…泣きそうな顔をしてる。


「いいえ、ありがとう」


素直に礼を言う彼女の頬に、そっと手を添える。

触れぬように。

彼女は僕の手なんて気にせずに、大きな目を伏せる。


「…でも、助けられたくなんて、ないのに」


極端に、護られることを嫌がる。

他人に甘えることへ戸惑いをみせる。


本当なら、こんなとこ、彼女は来なくても良い。

僕を頼ればすぐにでも、彼女の家は安泰になる。


だけど彼女はそれを望まない。

彼女が望まないことを、僕は望まない。


弱音も吐くし、愚痴も言う。

だけど助けを求められたことは一度もない。

彼女はあくまで、自分の足で立ち、自力で家を支え、自らの手で未来を切り開きたいのだ。


「貴女が望まないことはしたくないんだ、ミラ」


黙って、貴女は頷く。


「ねえ、迷惑だった?…なら、もう邪魔しないから」


少し心配になって、下を向いたままの彼女に問う。

僕の言葉に、見上げたその顔は。

…不貞腐れたように唇を尖らせていた。


「え、なに、そこまで、え、ごめんなさい」


うろたえて、思わず謝る。

ますます不機嫌そうな顔になった彼女は、低い声でそっと呟いた。


「陛下は……ですね」


「…え?」


肝心の部分が聞こえず、問い返す。


「陛下は…意地悪…ですね」


更に低い声で言い直された恨み言は、辛うじて聞こえたものの。

咄嗟には意味がわからず、その場で固まった。

けれど気の強い彼女の言葉が、頭の中でほぐれていく。


「…ふふ」


堪え切れなくて笑い声がこぼれた。


「ちょっと…何を笑っていらっしゃるんですか」


眉を吊り上げて、怒気を滲ませた声ですごむ彼女が、可愛くて仕方がない。


「ふふふ…良かった…ふふ」


嬉しくて笑いが止まらない僕を、彼女が睨みつける。


「…いい加減にして下さい」


「あはは。ねえ。ねえミラ」


名前を呼ぶと、条件反射か、彼女は素直に返事をした。


「はい?」


ぽかんとした、家族より、誰よりも親しんだ顔が、僕を見つめている。

ひたすら僕を見つめてくれる幼馴染に、微笑みを返した。


「愛しているよ」


気持ちは育つのだ。

今はもう、慕っているとか言う言葉じゃ誤魔化せない。

全身全霊で。僕の全てで、この気持ちを伝えよう。


「…ッ」


僕の一言で、一瞬で頬を染めてくれるなら、まだ希望はあると思うから。

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