分かりやすさ、親しみやすさによって失われるもの。
たまには流行に乗っかってみる。サッカーのW杯が開催されているようだ。どこで開催されているのかは知らないが、全世界の人間が熱狂していることになっている。いい歳をした大人が地面に転がるボールを追いかけ回す姿に熱中するというのは、人類がいまだに童心や野生の本能を忘れていないという証拠だろう。大変微笑ましいことである。鉄の弾を撃ち合うよりはよほど理性的だ。
私だってサッカーは好きだ。学生時代は体育の授業でサッカーに熱中した。長距離走や組体操をやるくらいならサッカーの方が幾分かマシだと思っていたから。
ゴールを決めたり絶妙なドリブルを決めたりしたことはないが、日頃から高圧的で苦手だった同級生の耳元を私の蹴ったボールが掠めた瞬間に言い知れぬ喜びを感じたのを覚えている。
味方陣営の選手だったので、もしも背中にボールがぶつかっていたらその後ひどい吊し上げになっただろうが。成人式で昭和の不良みたいな格好になっていた彼は今も元気にしているだろうか。できれば2度と目にしたくはないところだ。
かようにサッカーに対して人並みの愛着はあるが、日本チームの試合をリアルタイムで視聴するほど熱心なファンではない。ただ、知りたくなくても結果はどこからともなく伝わってくるし、世間がどんな反応をしているかはニュースを見れば何となく分かる。
どうやら、元サッカー選手の実況が好評を博しているらしい。電車内の広告などで馴染みのある顔だが、サッカー選手だったとは知らなかった。てっきり芸能人か何かだと思っていたのである。まあ、広告費で金を稼ぐという意味ではスポーツ選手も芸能人も同じような分類で差し支えないだろう。
どんな実況か多少興味があったのでちょっと聞いてみたが、確かに分かりやすい、というか、こちらが分からないことを話していない。普通の人が心に思い浮かべるようなことをストレートに言葉にしているように感じた。
歯に衣を着せない、分かりやすい実況が視聴者にウケているようだ。ウケるということは共感を得ているということだ。あるあるネタみたいなものである。その場その場では楽しいが後に何も残らないという点ではショート動画じみたところもある。
ちょっと上手いことを言ってやったみたいなところは鼻につくが、そのユーモアのレベルも視聴者に合わせたものだろう。きっと現役時代もサービス精神旺盛な選手だったに違いない。色んな広告で顔を見るのも納得の活躍ぶりである。
さて、試合の解説、実況に何を求めるかは人それぞれだが、個人的にはその道の専門家ならではの着眼点が披露されるのを期待してしまう。自分の思いも寄らない方向から光が差すのを目にするのは、新鮮な喜びを生み出すものではないだろうか。
自分にはない目線だからすぐには分からないかもしれない。意味が理解できなくてモヤモヤしたり、怒りすら覚えたりするかもしれない。しかし、いつかその意味が分かった時の喜びは人生においてかけがえのないものになる。
これはスポーツに限らず、絵画や音楽、文学などの芸術分野にも言えることだろう。芸術とスポーツを同列に語ることに違和感があるかもしれないが、スポーツが古代から今に至るまで人々を惹きつけるのはそこに何か深淵なるテーマが潜んでいるからではないだろうか。あるいは、洗練された肉体や技術の美しさを体現するという意味で芸術に等しいと言っても良いのかもしれない。
共感とは、他人の考えに全くその通りだと同意することである。他人と一致するところを見つけることで、自分が肯定されるような心地よさを感じることが出来るだろうが、それは答え合わせみたいなもので、自分という範疇を超えることはない。
共感ばかり求めることは、自分が今いるところから飛躍し、より大きく、より広い視点を得るチャンスを不意にすることにも繋がるのではないかと思う。
分かりやすさ、親しみやすさというのは確かに大切かもしれないが、それに慣れてしまうと、本来受け取ることが出来たはずのより大きな喜びを取りこぼしてしまうことになるかも知れないということは、頭の片隅に置いておきたいものである。終わり




