冬が、はじまる。2
店を出たあたしはまっすぐ家に帰る気にはなれず、電車には乗ったものの、途中の駅で降りることにした。
駅から歩いて少し。
安藤さんのアトリエに行こうと思った。
あの日。
NYに向かう飛行機に乗る前、安藤さんはあたしの手のひらの上にひとつの鍵を落とした。
「アトリエの鍵。持っててくれる?」
「いいんですか?」
「うん。勉強部屋として使ってくれてもいいし、僕の部屋をいろいろ探検してもいいよ。昔のアルバムとか面白いものも出てくるだろうし。ついでのときでいいから、たまに空気の入れ替えとかしてくれたら、うれしいな」
「昔のアルバム」
「心配しなくても見られて困るものないから」
安藤さんは屈託なく笑ってそう言ったっけ。
シルバーのタグがついたそのいくつかの鍵を、あたしは毎週土曜日に使うことに決めていた。
真亜子さんと午後のお茶をして、それからアトリエの空気の入れ替えをする。
部屋の探検はまだ本棚とDVDコーナーだけにとどめていて、前の彼女とかが映ってるかもしれないアルバムには手をつけていなかった。
安藤さん欠乏症にかかっているあたしは、今日あたりその領域に踏み込んでしまうかもしれない。
安藤さんの家の前まで行くと、門のすぐ向こう側、真亜子さんの後姿が見えた。
「こんにちは」
「あらめずらしい」
「テスト期間中で……午前中だけだったから。いいですか?」
ガーデニング用のキャンバス地のエプロンをした真亜子さんが笑顔で迎えてくれる。手には軍手。
「ちょっと草抜きでもしようと思ってたら夢中になっちゃったわ。ふふ、ちょうどよかった。一緒にお茶してくれる?美咲ちゃんに渡したいものもあってね」
「わたしに?」
なんだろう。
手を洗いに行った真亜子さんとは別に安藤家の台所に立つ。
真亜子さんのお気に入りのティーセットを出しながら、琺瑯のケトルでお湯を沸かしはじめる。
少し足の悪い真亜子さんを気遣っていつもお茶の用意をしていた安藤さんが教えてくれた、茶葉の場所と、おいしい紅茶の入れ方。
図書室の紅茶の本を読んで得た知識も功を奏して、真亜子さんからもお墨付きをもらえたので、今では一緒にお茶するときは任せてもらえるようになった。
「自分で入れるお紅茶も好きだけど、やっぱり誰かに入れてもらったお茶は格別においしいわ」
身体を温めてくれる優しい飲み物。
ティーオーレ用の大きなマグカップを両手ですっぽりと包んで指先を暖めた。
「昨日、彰人から荷物が届いたのよ。で、夜に電話があったんだけど…」
久しぶりに聞く、安藤さんの様子。
胸がとくんと特別な音を立てたような気がした。
真亜子さんとお茶をしていると、子供のころのことから始まっていろんな年頃の安藤さんの話は聞くことができたけれど、今の安藤さんが何をしているのか、元気でやっているのか、それはまったく謎のままで。
ちゃんとあたしのところに帰ってきてくれるの?
信じて待っていようと決めたくせに、少しずつ不安は心の片隅で育っているのは否定できない。
「元気でした?」
あたしがそっと聞くと、真亜子さんが困ったときのように眉毛を下げた。
「彰人もそんな風に美咲ちゃんのことを聞いてね」
「それは、」
「びっくりしたわ。あなたたちぜんぜん連絡取り合ってないのね?」
「約束した、ので」
「……まあ二人で決めたことならそれでいいんだけど。彰人、ちゃんと元気でやってる様子だったわ。美咲ちゃんのこともちゃんと伝えておいたから。毎週私とお茶してくれて、アトリエの様子も見てくれてるって。こんないい子、ほっといて誰かにさらわれちゃっても知らないからね、って」
「真亜子さんてば……」
「大丈夫よ、美咲ちゃん。何も心配要らないわ。うちの子は……死んだ主人に似てとても一途な子だから」
あたしの抱えてる不安とか、さびしさとか。
たぶん真亜子さんには丸見えで。
向けてくれる優しい笑顔の中に安藤さんの面影を見つけて、暖かなキモチでゆっくりとうなずいた。
もう少し庭の手入れをするという真亜子さんの背中を見送って、お茶の後片付けを済ませた。
あたし宛になっていた荷物の一部を、アトリエのほうに置いてくれているらしい。
台所の奥の、アトリエに続く細い廊下へのドアをあける。
安藤さんがいなくなってから、初めて使った通路。
庭をのぞけるようにところどころあいた丸窓からの日差しはわずかで、薄暗い。
アトリエと母屋をつなげるここの扉は、母屋のほうから入りたいときに鍵が必要になる。
預けられた鍵を使って扉を開けると、光の入る量の差があるせいか一瞬目の前が真っ白になる。
一度目を閉じたあと、慣れた目に映るのはいつもとまったく変わらないその場所。
だけどその雰囲気は、主不在を知っているせいか、どこか寂しげで。
あたしはいつもこの空間に足を踏み入れるたびにその姿を探してしまう。
「彰人…さん」
いないヒトに呼びかける声が室内に響いて、砕けるように消えてなくなる。
その瞬間、ぐっと溢れてしまいそうになった涙を唇をかんで堪えた。
堪えた涙のせいで鼻の奥がつーんと痛む。
それでも……、あたしは泣かない。
恐る恐る踏み出すようにすごしてきた一日一日、今はたださびしさを我慢するしかない約束も、真亜子さんの言葉で勇気付けられた今は試練だと受け止められる。
あたしが心変わりしたとしても決して責めはしないと言った安藤さんの優しさを、責めるチャンスになる。
8歳の年の差があるからって、あたしの気持ちを見くびるのは今回を最後にしてもらいたい。
あたしは……こんなにも安藤さんを好きでいるのに。
そう思ったとたん、ほんの少し気持ちが楽になった。
アトリエのデスクの上に並んでいたのは、靴箱ぐらいの大きさのBOX。
封をしてあるシールに『MISAKI』の文字。
破らないようにそーっとはがして開けると、一番初めに目に入ってきたのはギャラリーのパンフレットだった。
すべて英語表記で一瞬めまいがしたものの、落ち着けば理解できる単語が並んでいる。
accessories/ designer group exhibition
どうやらアクセサリーのグループ展の案内らしく、裏表紙には20名のデザイナーの名前。その中に、目当ての名前を見つけた。
慌てて中を確認すれば、いくつかの作品の写真が載せられていた。そのうちのひとつを見て、これが安藤さんのものだと確信する。
リボンがくるりと丸まってしまうのを表現したような薄い銀のスパイラル・ピアス。それにラピスラズリがしずくのようにぶら下がったデザイン。
真亜子さんの言うとおりだ。安藤さんはちゃんとあたしのことを想ってくれてる。
そう感じることが決してうぬぼれでないことを祈りながら、自宅の宝石箱の中に大事にしまってあるラピスラズリのリングのことを思い浮かべた。
パンフレットの下には、キャラクターのキャンディ缶、チョコスナック、きれいなビンに入ったジャム、おしゃれなイラストの入ったメモパッド。ほかにもいろいろ。
どれをとっても安藤さんが一つ一つ買い集める様子を思い浮かべると笑ってしまいそうになるほど、とってもかわいいものばかりで。
きちんと計算しつくされたかのように収まっているたくさんの贈り物。 一回出してしまったら、再びBOXに戻せないだろうな。
そう思いながらも、次から次へと。取り出すことはやめられなかった。
そして、一番最後。
すべてのものを出し終えたと思ったあたしの目が、BOXと同じ色の封筒が底に眠っているのを見つけた。
それは真っ白な封筒で。
あたしが気づくかどうか。まるで試しているかのようにひっそりとそこにあって。
宛名も書いてないその封筒をとる指が、ほんの少し震えた。
中には一枚のカード。安藤さんの字だった。
『 美咲ちゃん
24日のイブは
僕とデートしてください
彰人』
安藤さんが帰ってくる。
約束どおりに。……あたしのところに。




