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めぐる季節  作者: 恵奈
6/12

深まる、秋。5

 

 翌日。


 ちょっとした予定外のことはあったけれど、手土産だという紙袋を押し付けられ、笑顔の母親に見送られながら車が走り出した。


 角を曲がって見えなくなったところで、安藤さんが抑えきれずに笑い出す。


「あ、あの」

「ごめんごめん。美咲ちゃんて、見た感じはすごくお母さん似なのに、内側はあんまり似てないなぁと思って」


 前方に注意を向けながら、安藤さんがちらりとこっちを見る。


 迎えに来てくれた安藤さんを我先にと出迎えたのは、ママで。

 有無を言わせずリビングに連れ込んで、コーヒーカップを押し付けた。


 昨日の夕方、ママを説得するために安藤さんのことをいろいろ話したけど、ママが一番気になるのは安藤さんのお母さん、つまり真亜子さんのこと。


 前にわけてもらった花を持って帰ったときにも質問攻めにあい、それ以来ずっと真亜子さんが手をかけている庭をぜひ一度見たいといってあたしを困らせてる。


 申し訳なくて真亜子さんにお願いできずにいるあたしを尻目に、ちゃっかりと安藤さんに頼み込んでしまった。

 わが母親ながら、ちょっと恥ずかしくて。


「よく言われます。そのかわりお姉ちゃんはママそっくりです、見た目も中身も」

「お父さんはどんな人?」

「のんびりしてます。ママがあんなふうだから、カリカリしてもしょうがないみたいで」

「そうか。だから、末っ子の美咲ちゃんが妙にしっかりしちゃった?」

「しっかり…してます?あたし」

「うん。それと、ちょっと甘えるのが下手かな」

「甘える…、下手ですか?」


 無自覚のあたしが首をかしげるのを見て、安藤さんが笑う。


「今回のこと、泣かせちゃうかなと心配してたのにそんなそぶりぜんぜん見せなかったから。泣かせても置いて行っちゃうくせに、泣いてもくれないってちょっと落ち込んだり」

「そ、それは……」

「うん。僕のために我慢してくれたのはわかってる。だから、勝手なことを言ってるのは僕のほう。ごめん、あきれた?」

「ううん、安藤さんが謝ることなんて……」


 安藤さんの左手が、あたしの手をぎゅっと包み込んだ。




 デートは何度もした。外食とか、買い物とか。

 だけど、再開したWEBショップの注文が予想外に多かったらしくまとまった時間がなかなか取れなくて、今日みたいに車で遠出するのは初めてだった。


 海沿いの高速を走り、臨海地区の有名な水族館へとたどり着く。


 土曜だからか人も多く、家族連れが目立つ。はぐれないようにと手をしっかりとつないでいろんな魚を見て回った。

 円筒形の水槽の中を群れで泳ぐ小さな魚。暗い水槽の中でゆったりと歩く大きな蟹。館内で一番大きな水槽を泳ぐ世界一大きな魚。みんな同じ方向向いて立ってるペンギンたち。


 小さなころ学校行事でよく行った水族館とはまた違っていて、安藤さんの手を引っ張るようにして館内を歩き回った。


「美咲ちゃんは楽しそうだなぁ」

「安藤さんは楽しくないんですか?」

「楽しいよ、もちろん。でも、そろそろおなか空かない?だんだん魚見ても綺麗というより美味しそうに見えてきた」


 確かに。そろそろそんな時間かも。


「蟹……」

「え?」

「さっきの深海魚のところの蟹。……あたしも美味しそうだな、って思って見ちゃいました」


 とたんに安藤さんが笑い出す。


「一緒一緒。そうだな、冬になったら日本海まで蟹食べに行こうか」

「冬?」

「そう、僕が帰ってきたら」

「……3ヶ月後?」


 不意に戻ってきた現実に、声のトーンが下がる。

 そんなあたしを見て、安藤さんは壁際の人の少ないところまで手を引いた。


「美咲ちゃん。3ヶ月なんてすぐだよ、ほんとに」

「でも……」


 小さな子に言い聞かせるように。

 それでもあたしは反抗期のように口答えをする。


 だって……ニューヨークなんて、テレビとか映画とかで知ってるだけで。

 お洒落だけど、危ない地区とかあって。いろんな国の人がいるからもちろんキレイな女の人もたくさんいて。悪いことするひともきっといるだろうし。


 うわべだけで、リアルな想像が全然できないから。時間がたてばたつほど、不安だけが大きくなっていく。


「僕のことを心配してくれてる?」


 あたしにだけ聞こえる声がやさしくて。

 こくん、とうなずいた。


 照明は薄暗く、水槽の青い光の中にたくさんの人影が左から右へ流れてて。

 そんな風景の中で、安藤さんの腕があたしの身体を抱き寄せる。


「僕は美咲ちゃんのことが心配。……待っててくれるのかな、って」


 それは、安藤さんの口から聞く初めての不安。


 そんなこと全然心配する必要ないのに。

 ぎゅっと安藤さんの服を握り締めて、顔を上げた。


「待ってます、あたし待ってます。あたし、安藤さんのこと好きだから……!」

「うん、僕も。美咲ちゃんのこと好きだから、帰ってきます。ちゃんと、ここに」


 ぎゅっと。あたしを抱く力が強くなった。


「だから安心しててよ。僕がいないときに不安になって一人で泣いたりしないでほしいんだ。……どうしても泣きたいならこうして僕が抱きしめられるときに泣いて。大丈夫。それはわがままじゃないし、僕は困ったりしない」

「わがままじゃない…?」

「うん。泣かれたら、嬉しい。そんなにも好きでいてくれるんだとうぬぼれる」

「うぬぼれなんかじゃ……」


 声にならなかった。

 今まで我慢していた分、涙があとからあとからあふれて。


「さ、寂しいけど……ちゃんと待ってます、から……。だから、ちゃんと帰ってきてください…ね、絶対ですよ」


 安藤さんの服に涙のしずくが吸い込まれていく。


「うん。……泣かせて、ごめんね」


 声が。

 優しいんだけど、嬉しそうにも聞こえて。


 涙がにじんだまま目で顔を上げたら、笑顔があった。


「今…うぬぼれてる最中ですか?」


 ぼろぼろと。急に止まらない涙のままにつぶやく。


「……ずるくて、ごめんね」


 笑顔のままそう返されてしまって。


「本当です」


 いつだって安藤さんはずるいんだから。


 止まらないと思われていた涙は、掠めるような不意打ちのキスひとつであっさりと止まった。




 水族館を出たあとは近くのビュッフェで遅めのお昼ご飯を食べて、すぐそばの大きい観覧車に乗った。


 帰り道、有名な家具屋さんを見つけて車を止める。地元にもある店だけど、安藤さんがちょうど買いたいものがあるというので予定外だけど入ってみることに。


 あたしは地元の店すら入ったことなくて、興味津々。

 商品を使ったモデルルームがたくさん並んでて見てて飽きない。

 水族館と同じように安藤さんの手をひっぱって歩く。

 取り扱いは家具から雑貨まで。なんでもそろっていた。


 ちょうど自分の部屋の模様替えをしたいと思っていたから、今度スポンサーに連れてきてもらわないと。

 そんなことを考えてるあたしの横で安藤さんがクッションをひとつ選んでいた。あたし用だって。

 アトリエの奥、安藤さんの私室にあるクッションと色違いのものだった。


 やっぱり安藤さんはあたしをうれしがらせるのが上手。


 そこでずいぶん時間をとられたようで、地元に帰り着くころには夕食をとってもおかしくない頃合になっていた。真亜子さんにはちゃんと断ってあるらしく、国道沿いのレストランで食事を済ませる。


 それからレンタルショップに行ってお互い今一番見たい映画を一本ずつ借りて安藤さんの家へと向った。




「こんばんは」


 安藤さんのあとからリビングに入ったあたしを見て真亜子さんが目を丸くした。


「あら、美咲ちゃん。いらっしゃい。珍しいわね。こんな時間に大丈夫なの?」


 時計は8時過ぎ。いつも決まって6時半にお暇していていたあたしを心配してくれる。


「はい、今日だけ特別で」

「まあ嬉しい。一緒にお茶いかが? 優しいけど可愛げのない息子が相手だといまいち…ねえ。美咲ちゃんと仲良くなれて良かった。彰人がいない間もうちに遊びに来てくれると嬉しいんだけど」

「いいんですか?」


 手招きに応じて真亜子さんの横に座ると、もちろんと笑顔で頷いてくれる。


「ああ、それなら美咲ちゃんのお母さんも誘ったらどう?」


 足の悪い真亜子さんの代わりに、安藤さんが新しく用意した紅茶のポットとティーカップを持ってきてくれた。


「美咲ちゃんの……お母さま?」

「母さんの庭をぜひ一度見たいって」


 じっと視線を送って意思表示したのに、安藤さんはスルーしてしまう。


「そうなの?嬉しいわ、うちの庭でよければぜひ!歓迎するわ」

「あ、ありがとうございます」


 あのママを真亜子さんに会わせるのか……。

 二人の間であたしはどんな顔をして座っていればいいのか、考えると変にどきどきしちゃうなぁ。


 すっかり乗り気になった真亜子さんに両手をしっかり握り締められながら考えていると、安藤さんが言った。


「それから母さん。今日は美咲ちゃんうちに泊まるから。二階の僕の部屋、いいかな」


 それって。


 まさか真亜子さんの家、つまり母屋のほうでお世話になるとは思ってもいなかったので、声もなく固まってしまった。


 そんなあたしを真亜子さんがじっと見ている。


「おうちの人にはちゃんと言ってあるのね?」


 はい。と、とりあえずうなずく。


 真亜子さんはしばらく考えたあと、


「美咲ちゃんはそれでいいの?」


 そう聞いてくれた。


「えっと…あの…」


 はっきりといえないもどかしさで下を向いてしまうと、真亜子さんがぽんと手を打ち合わせた。


「それじゃあこうしましょ。9時までここで私とおしゃべりしてちょうだい。そのあと私は寝る時間なんだけど、美咲ちゃんにはまだ早すぎるわよね。私、人の気配がすると寝られないから…寝入るまではアトリエのほうで過ごしてもらえないかしら。そのあとのことは、彰人に任せるわ」

「母さん……」


 安藤さんの声が困ってるように聞こえるけど、あたしはあえて聞こえなかったことにしようと決めた。


「はい、それで……お願いします」


 少し声が震えてしまったけど、きっぱりと言葉にする。


「美咲ちゃんそれは……」

「じゃあ、決定」


 この場で一番の権限を持つかのように真亜子さんが宣言して。

 あたしはそっと胸をなでおろした。


「美咲ちゃんのお母さんといい、母さんといい……どうしてこう……」


 わざと聞こえる音量でぶつぶつ言いながら、安藤さんが2階へとあがって行った。


 足音が完全に聞こえなくなってから、真亜子さんのほうへと向き直る。


「あの……厚かましくお邪魔して、本当にすいません」

「いいのよ、美咲ちゃん」


 ころころと鈴のなるような声で真亜子さんが笑う。


「それから…あの…」


 わかってるわ、と言いたげに真亜子さんが頷く。


「彰人と過ごしたいんでしょう?大丈夫、邪魔しないから。というより邪魔する必要もないっていうか……。ううん、こっちの話。それよりもね、少しの間寂しい思いをさせられちゃうんだから。今日ぐらいわがままいっぱい言って困らせちゃっていいのよ?」

「真亜子さん……」


 最近の若い子は、とか。

 そんなお説教されてもおかしくない立場なだけに、真亜子さんの言葉は思いがけなく嬉しかった。


「美咲ちゃんが娘になるかもと思うとうれしくてしかたがないわぁ。やっぱり息子より娘よねぇ」


 これって……。


「あ、ありがとうございます……」


 ママに次いで真亜子さん、あなたもですか。


 より確実な協力者を得たんだから喜んで……いいのよね。

 そう思いながらも、やけに楽しそうな真亜子さんの様子が昨日のママとダブって見えて思わず目をこすった。



 9時をすぎて真亜子さんにおやすみなさいの挨拶をしたあと、いったん玄関から外に出た。


 そのままコンビニへ行ってペットボトルのジュースとスナック菓子を買ってから今度はアトリエのほうに入る。


「映画鑑賞ってなんとなくこういうジャンクなお菓子が似合うと思うんだけど」


 手にしているビニール袋の中身はポテトチップスやスナック菓子。普段は飲まないコーラなどの炭酸ジュース各種が入っている。


「わかります、ケーキとかプリンとかアイテムを使うようなやつは向いてませんよね」

「そう。画面を見たまま手探りで取れるのが理想。あ、グラスあったほうがいい?」

「ないほうがいい、かな。手探りでこぼしちゃうといけないし」

「了解」


 薄暗いアトリエの中を安藤さんが先導してくれた。

 あたしがパーテーションの中に入ったのを確認してからフロアライトのスイッチを入れる。

 生成り色の生地を通った光は目に優しく、部屋の中をセピア色に照らし出した。


「暗すぎるかな、上のライトをつけようか?ちょっと明るすぎて映画には向かないと思うんだけど」

「あ、これぐらいで。多分大丈夫」

「じゃあとりあえず美咲ちゃんの選んだ映画から見ようか」

「はい」


 安藤さんがDVDをセッティングしている間に、袋の中身をテーブルに広げる。


「最初どれ飲みます?」

「コーラで」

「あたしは、オレンジかなぁ。あとの2本冷蔵庫の中に入れといたほうがいいですよね」

「頼んでいい?」

「はい」


 冷蔵庫まで行って戻ってくると、もう準備はできていて、手招きされるままに安藤さんの横に座り込んだ。


「音にはちょっとこだわったから、迫力あるよ」


 言葉どおり音量はそんなに大きくないにもかかわらず、お尻に響くような重低音。

 いつもBGMをかけているスピーカーとはまた違うものだと気づいた。


 予告編からして、おのずと物語への期待が高まってしまう。

 とはいっても、二人して本編前の新作紹介に興味深々で、それぞれへの期待度を数字で言い合った。


 あたしが借りたのは、人類滅亡がテーマの大作。

 安藤さん自慢のサウンド効果もさることながら、映像もすごい。

 リアルすぎるぐらいで、あたしは随所にある泣き所にことごとくハマっては涙をあふれさせた。


 ようやくエンディングにたどり着いたときには、ひざの上にティッシュBOXを抱え込んでいた。


 失敗したなぁ。

 今一番見たい映画として間違ってはなかったと思うし、期待通りの作品だった。

 ただ、この手の映画は決して涙なしでは見られない自分のことを忘れていた。


「……呆れました?」


 クスンと鼻をすすりながら言うと、苦笑されてしまう。


「この手の映画を笑いながら見るような子だったらちょっと困るけど。それでいいんじゃない?制作サイドも本望だろうし」 

「そんな、制作サイドのことなんて知りませんよ、もうっ」


 ぷいっと横を向くと、後ろ側で安藤さんが背伸びをする気配がした。


「もう12時になるね。眠くなったんじゃない?」

「……」

「美咲ちゃん?」

「えと、まだあたしは大丈夫ですけど……安藤さん、やっぱり疲れてますよね」


 出発の準備に加え、昼間車の運転したし、いろいろ歩き回ったから。

 さっきの映画の途中でも、何度かあくびをしていたのをあたしは気づかないフリをした。

 寝かせてあげたい気持ちよりも、そばにいたい気持ちのほうがどうしても勝ってしまう。


 そんなあたしの気持ちを丸ごと受け止めてくれたように、安藤さんが笑う。


「大丈夫。じゃあもうひとつの映画も観ようか」

「あの…わがまま言ってごめんなさい」


 よしよしと頭をなでたあと次の映画に切り替えるために安藤さんが立ち上がった。


「もし寝ちゃったら、遠慮なく起こしてね」


 そう言って再生をスタートさせた安藤さんは、本編が始まってしばらくすると静かな寝息を立て始めた。


 安藤さんが選んだ映画は、実話を基にした恋愛コメディ。元はアメリカのテレビドラマで、それが大ヒットしたのでハリウッドで有名俳優を使って映画化したことで話題になっていた。

 明るい音楽と軽快な会話。


 画面から漏れるいろんな色の光が安藤さんの寝顔を照らし出す。

 あたしは少しずつボリュームを落としていった。


 ……無理をさせて、本当にごめんなさい。


 ひざを抱えて安藤さんの寝顔をぼんやりと眺める。


 昼間、安藤さんはちゃんとあたしの気持ちを理解してくれた。

 その上であたしが安心して待っていられるように話をしてくれた。

 だから、あたしは待てる。

 明日、きちんと笑顔で見送ることができる。

 だけど……。

 さびしいと思う気持ちがなくなるわけじゃない。

 その思いが、今のあたしの決心を後押しした。


 そっと近づいて手を伸ばす。

 ベッドに片腕を伸ばして眠ってる安藤さんの、少しずれたメガネをゆっくりと引き抜く。

 少しだけ身じろぎしたのを息を潜めてやり過ごし。


 再び規則正しくなった寝息を聞きながらそっとめがねを置き、一度触れてみたかった柔らかな髪に指をさしいれた。

 思っていたとおり柔らかくて、ふわふわと指をくすぐる。

 それから次に触れたかった場所に指を伸ばした。


 ……唇。


 前にこの場所で重ね合わせたときのことを思い出し、胸が切なくなる。

 あの優しかったキスも、明日からは当分してもらえない……。


「美咲ちゃん…?」


 不意に唇が動き、自分の名を呼ぶところを見た。

 あわてて視線を動かせば、安藤さんのそれと重なる。


「あたし……」


 安藤さんは笑ってなかった。

 柔らかな明かりの中、テレビ画面上のいろんな光を瞳に映したままじっとあたしを見つめていた。


 あたしはそれに吸い寄せられるようにして、安藤さんの唇にキスをした。

 重ねて、離して。


 もう一度重ねて。


 うつむくあたしの指を、安藤さんの長い指が絡めとる。


「もう一度して」

「……」


 寂しいんです。

 しばらく会えなくなること、やっぱり寂しいんです。あたし。


 こみ上げてくるままに涙をこぼしたほうがいいのか、こらえたほうがいいのか。

 何をどうすればこの胸の中にぽっかりと開いた穴を埋めることができるのか、あたしにはわからない。


 だからあたしは安藤さんの言葉に従って。

 ただ黙って唇を重ねる。


 何度も。何度も。


 長い指が、頬に触れる。

 ぽろりとこぼれたしずくが、長い指を濡らして。

 それが涙だと気づいた安藤さんに、そのまま大きな手のひらで引き寄せられた。


 強く強く、押し付けられた唇。

 逃れられない抱擁の中で、あたしは応えるように安藤さんの身体にすがりついた。


 ついばむようなキスで、唇を食べられていく。

 頭の芯がぼんやりとしてくるような感覚の中で、同じものを返したくて少しだけ唇を開いた。


 ちゅっ。ちゅっ。と吸いつく音が、テレビの絞ったボリュームに負けることなく響き。

 あたしを探る指が、耳元から首筋、肩を通り抜けて背中をなでおろしていく。


 身体の中心に、さわさわとした感覚が生まれる。素直にそれを受けいれたら、キスの合間に声がこぼれた。


「んっ……」


 その途端、はっとしたように唇が離れて安藤さんがあたしの表情を探る。


「あたし……」


 なにか失敗をしたのだろうか。


 視線が不安で揺れた事に気づいた安藤さんが、安心させるように首を振って笑顔を浮かべる。


「大丈夫。……ちょっと僕のブレーキが遅れただけ」


 そう言って、名残のキスとばかりにもう一度だけ唇同士が触れた。


「あの。……しないんですか?」

「今夜は、ね」


 苦笑しながら答えた安藤さんは、あたしの頭を胸元に抱き寄せて頭の上に唇を落とす。


 あたしの胸の音も。安藤さんの胸の音も。

 どっちも同じぐらい早くて大きくて。

 なのに、どうして?

 同じ気持ちだと思う。絶対に。


「どうしてですか?あたし……、あたしが言ってもですか?」

「うん。どうしてもだめ。」


 どうしても納得できなかった。


「好奇心なんかじゃありません。好きなんです。好きだから……安藤さんとそうなりたいと本当に思ってるんです……」


 必死で言葉にするあたしの気持ち。


 どうしてもわかってほしかった。


 約束とか、言葉とか。そういうものとは違う、もっと確かなもの。

 あたしの心と身体に、安藤さんの気持ちを刻んでいってほしい。


 だけど安藤さんはゆっくりと首を振った。


「美咲ちゃんの気持ち、この上なく嬉しい贈り物だけど……。美咲ちゃんにとっては初めてのことだから。さびしいと思う今の気持ちを埋めるためだけに手放していいものじゃないと思う。もしかしたらこの先3ヶ月のあいだに、僕よりももっと大事な男にめぐり会う可能性もあるわけだから。そのときになって後悔しても取り戻せないんだよ」


 そんなこと言ってほしくなんかない。

 今あたしの気持ちは安藤さんにしか向いてないのに。


「後悔なんてしません。安藤さんより大事な人なんて絶対にいません」


 断言できる。なのに安藤さんは受け入れてくれなかった。


「ありがとう。今のは正直建前で。──── だけど、ごめん。今日だけは、本当にごめん。……僕を助けると思って納得したフリをしてくれないかな」

「……安藤さんを助ける……?」


 あまりにもびくともしない安藤さんの意思に、こちらの決心が揺らぐ。


「美咲ちゃんは17歳だけど、僕は25歳で。同じくらいの年ならできたかもしれないことが、今の僕にはできない。誘惑されて内心ぐらぐらしてるけど。いろんなことを考えてしまって、僕はそれを無視できないんだ」

「それは……気持ちとは裏腹な決断?」


 苦笑いを隠すように短いキスが降ってきた。


「察してくれると嬉しいんだけど。だめ?」


 だめです。

 そう言いたいけど、どうしても受け入れてもらえないのだと気づいた。


 いろんなことって何。無視できないって何で。

 ママも、真亜子さんも。あたしのしようとしていることをわかっていて、それでもお説教なんてしなかったのに。


 本気で困ってるようにしか見えない安藤さんが、憎らしくて。それでもやっぱり好きという気持ちは変わらないから、あたしの負けが決定的になってしまう。


「だめ…じゃないです」

「ありがとう」


 ほっとしたように抱きしめる腕の中に身体を預ける。

 あやすように大きな手のひらが背中を行き来して。

 あたしは本懐を遂げられなかった無力感の中で呟く。


「いつもいつも安藤さんて冷静で穏やかで。そういうのがなくなった安藤さんを一度見てみたいです」

「困るね、どこでそんなことを覚えてくるの?」


 くすくすと。穏やかな笑い声。


「知らないんですか?最近の女の子はすごいんです」

「ほかの子のことなんかどうでもいい、僕にとっては美咲ちゃんだけだから」


 困ったときのため息が頭上からゆっくりと降りてきた。


「だから……あんまり誘惑しないでくれる?」

「誘惑されちゃってよかったのに」


 思わず本音をぶちまけると、降参したと安藤さんが笑い出した。


「じゃあさ……こんなのはどう?約束するよ」

「約束?」

「そう。3ヶ月たって僕が帰ってきたら……美咲ちゃんのことを抱きしめる」

「抱きしめる……だけ?」

「もちろんそれだけじゃない。本気のキスをしようかな。会えなかった時間の分だけ何度も。それから……」

「それから?」

「言わせたい?」

「……わからないです、言ってくれなくちゃ」

「ほんとに困ったなぁ……正直に言うこともできるけど……ひかない?」


 うん、と頷くとほんとに困ってるとも思えない極上の笑顔が返ってきた。


「」


 耳元で、国家機密を話すみたいに潜めた声。

 その内容は、ほんとにトップシークレットで。


「ひいた?」

「」


 真っ赤になった顔で、ほんとにほんとに困ってしまったのはあたしのほうだった。

 安藤さんは主導権を取り戻してうれしそうに笑ってる。


「まあ今のはちょっと美咲ちゃんに仕返ししたい気持ちに勝てなくてオーバーにはなったけど。お互い勉強をしっかりやってたら3ヶ月なんてあっという間だから。たぶん心変わりなんてしてるヒマはないよ、本当に。だから、心の準備をヨロシク」

「……はい」


 差し出された小指に、自分の小指を絡めた。




 日差しはまだ夏だけど、日が翳ってくると秋の気配を感じた。


 夕方色の空に、飛行機が飛び立っていく。

 あたしはそれを一人で静かに見送った。


 寂しいと思う気持ちは変わらずあるけど、夏よりも好きの気持ちが大きくなったから、平気。

 約束を誓った小指をそっとにぎりしめる。

 秋が深くなればいい。

 きっと同じようにあたしの想いも深くなっていく。

 そうすれば、冬が来て。


 ……彰人さんが帰ってくる。



過去サイト初出 2010/07/03-08/14


この二人のやり取り、今見ても好き。

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