深まる、秋。1
夏が終わったとたん―――心なしか日差しは和らぎ、穏やかな風が吹きはじめた。少し温度を下げた空は高く、雲は次第に薄くなり形を失っていく。
木々がゆっくりと色づいていく季節だというのに、なぜか私には周囲の景色から色が褪せていくように感じられた。
「3日も美咲ちゃんの顔を見なかったら淋しくなるからね」
そう言ったのは、あの人じゃなかったっけ?
今。
あたしのそばに、あの人はいない。
[深まる、秋]
9月1日。
始業式、HR、大掃除。
避けられない学校行事をやり過ごし、付き合いが悪いとすねる友人に謝ることもそこそこに。
校門を飛び出して目指す場所は、ひとつだった。
初めての、待ち合わせ。
朝から店で撤退作業を進めている安藤さんとの、合流。
学校の終了時刻を言ったら、駅前で少し早いランチでも、と誘われた。
ソコは近頃話題のオープンカフェで、なんでも制服着用のオコサマはお断り、だとか。
うちのガッコ私服でよかったー、とは言っても高校生だけではやっぱりお断りされちゃうお店で。
年上の彼とそのお店に行くというシチュエーションが、今うちのガッコの女子の中で大人気。
まさか自分がそういう状況になるなんて、とびっくり。
安藤さんに会えると思っただけでこんなにもドキドキするのに、もしかしたら友達に目撃されちゃうかも、なんて想像するとさらに舞い上がる。
「待ち合わせ、なんですけど……」
言いながら店内を見回しても、安藤さんの姿は見つけられなかった。
まだ、かな。
おかしいなと思った矢先、その姿をテラス席で見つけた。
そっか、喫煙席だと庭に面したテラスになるのか。
結果として学校の友達に目撃される可能性が随分と低くなったのでちょっと胸をなでおろす。少しだけ残念な気もするけど。
――― やだもう。あいかわらずの寝癖。
風に揺れる柔らかそうな髪が、少し不自然で思わず吹き出して、すれ違った女の人にぎょっとされてしまった。失敗。
アイス珈琲に、文庫本。脇には煙草とライター。
遠くから見ていてもどきどきするけど、あたしを待っていてくれてるという事実と、向かいに座れる幸せには抗えなかった。
「おはようございます」
安藤さんの視線が文庫本から離れて、あたしの顔に止まる。ゆっくりと浮かんだ穏やかな笑顔に、胸がドキドキした。
手元を見ずに閉じられる本。
「おはよう」
迎えられるとは思っていなかった32回目の、彼との朝の挨拶の、瞬間。
――――――嗚呼しあわせかも。と心の中でうなった。
閉じられた文庫本は、そっとテーブルの端のほうに置かれた。それからゆっくりと確かめるように視線があたしの表面をさまよう。
メガネの奥で、瞳がかすかに揺れる。
それを優しい、とあたしは感じる。
いとおしそうに見つめるって、たぶんこんな感じ。
「走ってきたの?そんなに急がなくてもよかったのに」
「安藤さんに早く会いたかった、から……」
素直に出てきた言葉は、あたしの正直な気持ち。
何気ない仕草で伸びてきた彼の指が、頬にかかる髪を払ってくれた。思わず顔が赤くなる。
「うん、そうだろうと思ってた」
やっぱり。あたしの考えなんてお見通しですよね。
それならもしかして。と思った。
「ずいぶん早くから待っていてくれたんですか?」
安藤さんはそれには答えず、にっこりと極上の笑顔を見せてくれた。
年上の彼氏、というのは実は初めて。
去年同じクラスの男の子と付き合っていたけど、全然違うと思う。年の差8歳っていうのは、結構大きい。
安藤さんは、とても大人だと思う。
きっとドラマの中に出てくるようなおしゃれな恋愛とかできちゃう。
何であたしなんかを相手にしてくれるんだろうって、不思議に思う反面、ちゃんと不安を感じさせないように接してくれてるのがわかる。
話をするときちゃんと目を見てくれること。
言葉を最後まで聞いてから相槌を打ってくれること。
けっして子ども扱いはしないこと。
なによりもタイミングよく微笑んでくれるから、あたしは受け止めてもらえてる、と安心できる。
こんなに居心地がいいのは、安藤さんがあたしのために心を砕いてくれてるから。
そう思うと、年の差は気にならなくなる。
遊ばれてる?なんて疑ったりしない。
好きって気持ちが丸見えなままの自分でもいいんだと安心していられる。
カフェで軽い食事を取ったあと、後片付けのために店へと続く坂道をゆっくりと歩く。
夏の間限定だった安藤さんの小さなお店。
いよいよ最後なんだな、って思うとちょっと切ない。
昨日の朝だって泣いちゃうぐらい切ない気持ちで向かったんだったっけ。
―――あたしと安藤さんを近づけてくれた、素敵なお店。
オンラインショップは持っていても、実際にお客さんと顔をあわせて販売するのは初めてだったから。
そう言って安藤さんも少し名残惜しそうに笑った。
お店を開いてた立野ビルは、駅から続く緩やかな坂道の途中にある。大きな道からは一本西にずれてて、ちょっとだけ喧騒から遠くて。高校生のあたしから見たらちょっとだけ敷居の高そうな店が多く、この道を歩く人はちょっとオトナで、ふつうよりもちょっとおしゃれな人ばかりのような気がしてた。
バイトに通う毎日、ちょっと居心地悪く感じてたけど今日は全然平気。だって安藤さんと一緒だもの。
カフェを出てすぐ、安藤さんの大きな手のひらがあたしの手を包み込んだ。とてもさりげなくて、でも心臓が止まりそうなぐらいドッキリして。
だけど手のひらに感じるぬくもりが、安藤さんだという事実にものすごく幸せになった。感激したまま安藤さんを見たら、彼はちょっと照れくさそうに笑ってしっかり前を向いて歩くようにほっぺをつつかれた。
安藤さんてば、あたしが喜ぶツボを知りすぎ。
というか。女の子との付き合い方……馴れてるんだよね、やっぱり。
年齢を考えたら、あたしよりたくさんの恋愛を経験してることぐらい想像できる。そのことに不満や不安はないけど、その中であたしはどのくらいの位置にいるのかな、って好奇心が無くも無い。
聞いたら、教えてくれるかな。それとも秘密だって言うかな。
ちらりと横顔を見たら視線があっちゃった。
なに?って優しい目が聞いてくれるので、ううんと首をふった。
――― 今はまだ聞かないでもいいよね。
負け惜しみとかじゃなく、素直にそう感じた。
「そうだ」
安藤さんがポケットを指で示した。なんだろう。
「ミハルさんに鍵を返さなくちゃいけなくて。一緒に行くよね」
そりゃあもちろん行きます。
イキオイよく頷いて意思表示したいのをこらえた。
「差し入れのサンドイッチのお礼ですか? 屋上の素敵な空間を教えてもらったお礼ですか? それとも安藤さんの背中を押してくれたお礼かなー」
「美咲ちゃんも言うね」
「負けてられませんから」
二人で顔を見合わせて笑った。
一階のパン屋さんのおいしいニオイを潜り抜けて二階へ。
すりガラスの入った白い扉を開けるとカランとアンティーク・カウベルの軽やかな優しい音がする。
あたしと安藤さんが店に入ってきたのを見て、ミハルさんは目を細めて笑った。
「ワルいオトコといたいけな女子高生の登場ね」
「ひどいなぁ、心外ですよ」
すかさず安藤さんの反論が。
それを軽く無視したミハルさんはあたしを招き寄せると両腕を広げてぎゅっと抱きしめた。
わ。すごいいいニオイっ。
「ムスメを嫁に出すような心境ってこんなかんじかしら。恋を成就させてあげたい反面、狼に引き渡すようで気が引けたのよ?」
気持ちイイかも……。柔らかな身体に包まれて幸せをかみ締める。
「ミハルさぁん、ありがとうございました~」
「いいのよ。ただね、アンドウは人畜無害に見えるけど実はそうじゃないと私は睨んでるの。くれぐれも気をつけること」
「そんな。人をケモノか何かのように言わないでください。紳士ですよ?」
安藤さんは困った顔で苦笑いしながらメガネをなおした。
「大人のオトコを甘く見るとやけどするものなの。いい?美咲ちゃん本当に用心するのよ」
「安藤さんにならやけどしてもいいかも……」
思わず本音をつぶやくと、ミハルさんは嬉しそーに笑って手を打ち合わせた。
「まっ!!アンドウ聞いた?」
それは心配してる母の表情というより、ちょっとしたスキャンダルを予感する小悪魔な表情で。
「美咲ちゃんソレは爆弾発言」
安藤さんにいたってはまるで他人事のように口に手を当てて非難の口調。
「えっ、そうなんですか?」
「これは野獣解禁の日も近いわね」
びしっと細い指を一本立てて、ミハルさんは宣言した。
苦笑した安藤さんの顔を盗み見しながら……ちょっとわくわくしたのはナイショ。
「今日は荷物をまとめるだけでいいんだ。明日の午前中に友達が車出してくれるんで」
荷物の引き上げ先は、自宅だと聞いた。ちょっと興味津々。
アルミ製のフレームを使ったトランク。あたしはベロアを引いてある小さな引き出しにひとつずつシルバーアクセサリーを納めていった。安藤さんは部屋の隅にあったファイバーのストレージボックスに順番に研磨剤やハンドバーナーなどを収納していく。
今まで大げさな工具を使う工程は自宅のアトリエでこなしていたらしいけど、ネーム入れとかこの店の中でする作業工程もたくさんあるから、持ち込んでいた道具もさまざま。あたしには未だに使い方のわからないものもいくつかある。
ショーケース代わりだったステンレスの棚は、拭き掃除だけして部屋の中央に集めて置いて欲しいと海晴さんからの通達。このスペースで10月からオープンするお店で引き続き使うらしい。
今回初めて知ったけど、海晴さんて2階の【WEATHER】のオーナーでもあると同時に、このビルのオーナーでもあるらしい。
ちょっとすごすぎ。
で、この3階。今度はアクセサリーじゃなくて洋服を扱うお店になるらしい。リーズナブルな部屋着もあるからひいきにしてね、と海晴さんから言われてる。ひそかに楽しみにしてる。
「大丈夫?本当に後片付け手伝わされるなんて思ってなかったんじゃない?」
申し訳なさそうに言って安藤さんが手を止めた。
「まさか。見てください、今日の服装。デニムにTシャツ。エプロン持参でやる気に満ち溢れてると思いません?」
もちろん安藤さんを意識して、お気に入りのデニムだし、きれいなオレンジ色のTシャツだったりはするけど。
終始片付けは順調だった。
安藤さんは几帳面だから、収納用の引き出しにはちゃんとアイテムを表示するシールが貼られてて、それを見ればいちいち聞かなくてもさぎょうできる。
それでも安藤さんは少しオーバーなくらいにこにこと喜んでくれてる。
「こんなに早く終わるとは思わなかったな。美咲ちゃんのおかげだよ。一人でやってたら、もしかしたら晩御飯食べる時間もなかったかもしれない」
時刻は午後5時。
3時の休憩に1Fのベーカリーで買ったカフェオレとキッシュを軽く流し込んだ以外、二人ともせっせと作業に没頭していた。
ある意味、昨夜の出来事なんてまるで何もなかったぐらいのシュガーレスな時間。
期待…してないなんてのはうそだけど、安藤さんと二人きりでいることよりも目の前の作業に命一杯だった自分が妙に可笑しかった。もしかしたら安藤さんも一緒だったのかもしれない。
「これ、初デートにカウントしないでいてくれる?」
そう言った安藤さんに、苦笑した。
すべての備品を整理し終えて、電気を消す。
あっさりと階段を下りていってしまうのは忍びなく。二人でドアの前で立ち店の中を振り返った。
――― ここは、特別な場所だった。
きれいに片付けてしまって二人でお店やっていたときの面影はまるでないけれど。
それでも記憶の中から数日前のことは簡単に引き出されて。
作業台に座っていた姿や、コーヒーを飲んでいた姿、あたしの話に耳を傾けてくれていた姿が思い出される。
どうせ片恋だろう。
そんなふうに思っていたことは、もう過去のことで。
記憶の中よりも、今この現実の中で隣にいる安藤さんのことを見つめたい。
心の中で区切りをつけて安藤さんを見ると、ほとんど同時にあたしのほうを見てくれた。
少しだけ開いたドアを手で抑えながら、もう片方の手であたしの肩を抱き寄せる。
「この店を開けて、よかった」
少しかすれた声はすぐ近くから。
早まる鼓動を隠すべきか迷いながら、ただうんとだけ頷く。
この店があったから、あたしは安藤さんを好きになれた。そして、こんなふうに抱きしめてもらえるようになれた。
安藤さんのぬくもりを背中に感じながら、ゆっくりと閉まるドアを見つめる。
かちゃん、と。鍵のかかる音はちょっぴり切なかった。
「記念にどう?」
相変わらず耳元で聞こえる声。
目の前に差し出された手のひらの上には、ドアベルの代わりにセットされていたシルバーのスティック。
鉛筆に似た六つの角を持つ細長いシルエットが重なるそれは、ドアが開くたびにいつも涼やかな音を立ててた。
シャララ…と。余韻がいつまでも残るような、その音があたしはとても好きだった。
「安藤さんにとっても記念なのに」
「うん。だからキスひとつと引き換えでならイイかなと思って」
「…………はい?」
ぷは、と吹き出す気配。
もうっと振り向くと、くしゃっとくずれた笑顔。
挙げた片手から、しゃららんと音が響いた。
「紳士だったのではナイノデスカ?」
「もちろん。無理強いはしていないつもりですが」
あたしがそれを欲しがってるのを知ってて。
メガネの奥の瞳は相変わらず穏やかなのに。そこにはあたしの心を動かす強い光が確かに存在してる。
「キスひとつ、ですか」
それは高いんでしょうか、安いんでしょうか。
……でもよくよく考えてみれば、大好きな人の唇に自分から触れることが出来る正当な理由を頂けて。
なおかつ、新たにシルバーのコレクションを増やせる機会までも手にいれることの出来るあたしは、とてもラッキーなのでは?
ラフに着ているシャツの襟もとを両手でつかんで、引き寄せた。軽く意思表示する程度の力加減なんだけど、距離は近くなった。
足元を見ると軽く曲げられたひざ。
嬉しいんだが恥ずかしいんだか。いろいろ混ざった感情を内側に閉じ込めて目を閉じた。
家に帰っても、余韻がなかなか消えなくて。どうしてもくちがもにょもにょと幸せに緩む。
「……夢みたい」
自分の部屋で今日あたしを幸せにした出来事ひとつひとつを思い返す。
初めての待ち合わせ。
あたしの髪に触れる親密な動作。
握り締めた指と指の感触。
あたしと彼との関係を知っている人との刺激的な会話。
例えシュガーレスでも二人で空間を共有できるささやかな時間。
抱きしめる指。
…自分から触れた唇。
同い年のオトコノコとの恋愛ではけっして味わえないよね。
安藤さんがオトナだから、だよね。
恋愛って、いろいろ面倒だって思った時期があった。
相手がなに考えてるかわかんなくて、聞きたいのに素直に聞けない自分がいて。
とても些細なことなのに不安を感じて相手を責めたり、もうどうでもいいやと思ったり。ぜんぜん安定しない自分の感情グラフにすごく疲れたりした。
今の自分は、グラグラしたりしない。しっかりと地に足をつけたまま恋心を抱いていられる自分って、心地いい。
それに、サプライズプレゼント。
キスと引き換えなんていいながら、たぶん最初からあたしにプレゼントしてくれるつもりだったんだと思う。
晩御飯を食べに行こうと誘われて乗った車の中で、紺色の細長い化粧箱を渡された。
キスと引き換えだったシルバーのスティックモビールにちょうどぴったりのもの。
どこかに飾りたいな。
大事にしまいこんでしまうのは、もったいないほどの綺麗な音。
しゃらん、と手の中で揺らした。
自室のドアにはちょっと贅沢すぎるし、かといって家族の共有スペースにはとてもじゃないけどもったいなすぎて提供できっこない。
部屋の中を見回してため息をついた。
……慌てて決めることもないわ。しばらくは保留。
きちんと化粧箱の中に収めて、いつも目に入る棚の上に飾った。




