夏が、終わる。
高校生×彫金アーティスト
夏が終わろうとしている。
陽射しはまだきつく、セミの鳴き声も止まない。
でも、夏は終わろうとしている。
ぬけるような空、白い雲……。
見上げた空は、寂しいくらいに蒼い。
あたしの夏が……終わろうとしている―――。
8月31日。
この1ヶ月。通いなれたお店までの道を足早に歩いていく。
高2の夏休み、生まれて初めてのバイトだった。
期間限定OPENの、お店。
扱っているものはシルバーのアクセサリー。リングとかバングル、ブレス、ピアス……。
バイトはあたし一人。
あとは制作者兼責任者の店長が一人。
こめかみを流れる汗を感じながら、3Fまでの階段を駆け上がる。
店の扉には『CLOSE』の文字。
開店は11時。
あたしはいつも1時間前に入り、店内の掃除と開店の準備を任されていた。
店のドアを開けると、鈴の代わりに取り付けられたシルバーのスティックが揺れて軽やかな音が鳴る。
外気とは違う、涼しい空気。
クーラーと天井に取り付けたファンから生まれる優しい風は汗ばんだ肌に心地よかった。
「おはよう」
いつものタイミングで、声がかかる。
期間にして8月1日から今日まで。回数にすると31回。
毎日同じ時間に、変わることなくあたしを出迎えてくれた笑顔。
いつもと同じ、その笑顔。
「……おはようございます」
――― 少しずつ元気のなくなるあたしのこと、気付いていますか?
1ヶ月という時間は、長いようで短く。
でも一緒に過ごした時間の中でたくさんのことを話した。
常に穏やかな笑顔を向けてくれることが嬉しくて、あたしは夢中になっていろんな言葉を紡いだ。
うちの庭に咲いてるたくさんの花のこと。
空に浮かぶ雲の形のこと。
風に混じる、さまざまなニオイのこと。
あたしが飼ってる、小さな犬のこと。
友達のこと。家族のこと。
あたしが外で感じる、嬉しいことや楽しいこと。
まだまだたくさんのことを話したいのに。
お店は今日で閉店。とても今日一日では話しきれやしない。
――― もっと、時間があればいいのに。
向けられた視線を正面から受け止めることができずに、あたしは目を伏せた。
スタッフルームの代わり、麻布で仕切った向こう側にさっさと入る。
小さな机の上には、店長の私物。
たばことライターと腕時計。
チラッと横目で見てから鞄を置く。
自前のエプロンをすばやく身に付け、髪をまとめる。
開店までの時間は、あたしの掃除タイム。
専用の布と溶液を手に、布をめくり上げた。
「いつも通りでいいんですよね?」
そう、たとえばあたしの心とまるで正反対のように。
「うん、頼むよ」
店長は窓際の明るい場所の机の上で作業中。
手元に神経を集中しているんだと思う。向けられてるのは背中。
切なくなってしまう心を、止められない。
あの手で、指で。
生み出されていく銀の造形。
目を閉じると、胸が少し痛んだ。
……掃除なんかしてないで、その作業をすぐそばで見つめていたい。
唇をきゅっと結び、あたしは作品の並んだ棚に向き直った。
午後1時までのあまり忙しくない時間帯は、接客のほとんどがあたしの仕事。
分かる範囲で聞かれたことに答えて、レジをして、包装をする。
安藤さんは店内の片隅、持ち込んだ道具に囲まれて作品の仕上げをしている。自宅にあるという工房で形成をしてきたものに鑢をかけたり磨いたりする作業。
忙しい時間になると、安藤さんも作業の手を休めて、応援に来てくれたりもする。
オプションでやってるネーム入れとか、もともとあたしじゃ出来ないことが多いんだけど、オリジナルでの注文が入ったときとか、ちょっとドキドキしてしまう。
小さな机にお客さんと向かい合わせに座って、真剣な顔。
銀色のシンプルだけど美しい作品をつくる手が、無防備に晒される瞬間。
あたしだけの宝物にしてしまいたいと思ってる。
あの手も、指も、声も、瞳も―――。
―――――― 最初は、ただの憧れだった。
よく行く店【WEATHER】のアクセサリーコーナーに、ある日突然シルバーアクセのミニコーナーが出来た。
今までのあたしが知っていたシルバーのアクセって言ったら、けっこう男の子チックのものが多くて、かなり偏見を持ってたと思う。
女の子の指に不似合いなほど太いリングとか、ちょっとヤンキーなテイストだとか。
だから、そこに置いてある華奢で、お洒落で、シンプルなんだけとカワイイたくさんのアクセサリーに目を奪われた。
鮮やかな天然石を組み込んだリング、バングル。細いスティックを組み合わせたペンダントトップや、ピアス。
どうしても欲しくなったあたしは、お値段の手ごろなピンキーリングの中から選ぶことにした。
石の入ってるやつ、文字が彫ってるやつ、ちょっとしたデザインリング。
迷った末、ふたつの細いリングを絡ませた中央をすごく小さなリングで止めてあるものを選ぶ。
「すごく真剣に選んでたわねぇ?」
レジで包装を断ると、にっこりと笑顔が向けられた。
「うん。すごくキレイで……どれにするか色々と迷っちゃった」
小さなはさみで値札を切ると、店長のミハルさんはあたしの手のひらに買ったばかりのリングを載せてくれた。
「コレもミハルさんが作ったんですか?」
この店に置いてあるビーズで作ったアクセサリーは全部オーナーでもあるミハルさんの手作りだということを知っていた。こんなものまで作れちゃうの、と羨望の眼差しで見てしまう。
背が高くてスタイルが良くて、おまけに美人で。年下のカッコいい彼氏なんかも居て。何もかもが憧れ。
こんな女性になれたら、と願わずにはいられない。
「コレは違うのよ」
ミハルさんはレジの横の小さなかごに入っていた名刺を1枚あたしに差し出した。
「アキヒト・アンドウ……?」
「そう。この人がつくった作品を預からせてもらってるの。インターネット販売してる人なんだけど、ちょっとしたコネで、ね」
「インターネット……」
名刺にはシルバー・キューブの写真と、名前。それからHPアドレスが記されてた。
始めに知ったのは、作品。
その次に知ったのは、名前。
―――――― そして、HPを見て彼の『手』を知った。
プロフィール、と称されたページに貼られた『手』の写真。
長く細い指。
――― いいな、と思った。
店に行ったときに何度か居合わせた背の高い男の人が、「アキヒト・アンドウ」だということを聞いたときには、もう、憧れていた。
この人の手から、あの銀色の華奢な装飾品が生み出されているのだ、と。
ドキドキして、顔もろくに見れないくせに『手』だけはいつも目で追っていたっけ。
憧れが、形を変えたのは7月。
夏休みに突入してすぐに、【WEATHER】に顔を出したとき。
「こんにちはー」
もうすっかりと顔なじみになった女主人に、挨拶しながら店へと入る。今日はシルバーアクセの新作が入るのよ、とナイショで教えてもらっていたのが目当てだった。
「いらっしゃい」
にっこりとした極上の笑顔をあたしにくれたあと、ミハルさんはすぐ目の前にいる男性に注意を戻した。
誰? 自然と起きた好奇心から、商品を眺めながら密かに意識をそちらに向けた。見えるのは、わずかに背中だけ。
「やっぱり一人だと色々大変じゃないかしら」
手をあごにやりながらの小首をかしげる姿。それに恐縮するように男性の肩が下がるのが見えた。
「はぁ、それもそうなんですが。短期間だし急だし……来てくれる子がいるかどうか……」
少し低い、わずかに掠れた声。柔らかな口調にちょっとだけ弱気な響き。
ぴん、とあたしの中のセンサーが作動する。
もしかして……?
「夏休みだし、きっといるわよ。何なら、私が誰かに声かけてあげるけど」
何? バイトの話?
もしかして、もしかして、例のあの話……?
男性の背中越しに、ばっちりと眼が合った。
ミハルさんの唇が、愉しげに広がったのを確認したあたしは、迷いを捨てて声をあげた。
「あの! あたしではダメですか?」
「あら、美咲ちゃん」
少しわざとらしいミハルさんの台詞に、神妙にうなずいてみせる。
「安藤さん。この子なら私自信を持ってオススメするわよ? しっかりしてるし、なによりもあなたのファン。お得意様なんだから」
「えっ、ファン!? お得意様って…」
頭のてっぺんで、向けられた視線を感知する。
あたしはおそるおそる顔を上げた。
思ってた通り。
眼鏡の向こう、優しい光があった。
あたしが見上げるぐらいだから、180センチ近くありそう。無造作にはねてる髪は、きっとセットしたわけじゃなく寝癖。
髪から覗く形のいい耳に、そこから続く細いあごのライン。
この人が『アキヒト・アンドウ』さん…。
薄い唇が、突然驚きを表現する。
「あ。【LINE】のピアス」
思わず、手を耳元にやった。
思い切り短い髪のあたしは、手のひらでも当てないと隠せない。
そういえば……今日はこのピアスを選んでつけてきたんだっけ。シリーズ【LINE】のなかでも一番のお気に入りのピアス。3個のスティックが連なってるタイプ。
「綺麗な耳の形だね、ピアスがうまく映えてる」
一瞬身体がびくってなる。触れてきた指が、あまりにも冷たくて。
「そんなに無造作に女子高生に触ったりしないの」
苦笑交じりのミハルさんの声。慌てて離すその様子が、少し可愛い。
「ご、ごめんね」
「いえ……」
いつもチラッと見かけるだけだったその人。
言葉なんて、一度も交わしたこともないその人。
背が高くて、ふちのない眼鏡の奥でいつも穏やかに笑っている印象の人。
その人が、今目の前にいる。あたしを見てる。
「あんまり時給良くないと思うけど……それでも?」
「いいですっ。あたし、安藤さんの作品がとっても好きなんで、それだけで、イイんですっ!」
「じゃあ……お願いしようかな」
柔らかい笑顔。
その笑顔が今、あたしへと向けられている。
そう思っただけで、心が沸騰しそうだった。
「小野原美咲です。コチラこそ、お願いしますっ!」
一ヶ月限定で彼の店が【WEATHER】の3Fにオープンするということは、ミハルさんから聞いていた。
まさかそこでバイトできるなんて思ってもいなかったことで、突然決まったときはもう信じられないくらいにドキドキした。
ただもう作品に囲まれることだけでも嬉しくて。
たとえば、密かな期待が裏切られて「アキヒト・アンドウ」という人間がすごくいやな人だったとしてもぜんぜんかまわないくらいで。
――― だから、思っていたよりもずっと柔らかい笑顔を向けられて、あたしはのぼせてしまいそうだった。
「「ありがとうございましたー」」
最後のお客様を、二人で声を揃えて見送った。時間はもう8時近く。
扉が閉まって、名残のように鳴るシルバースティックの音を聞いていると寂しさがこみ上げる。
「一ヶ月の間、毎日ご苦労サンだったね。助かったよ、本当に。ありがとう」
そんなに視力悪くないから、もうほとんど素通しのような眼鏡。低くない鼻じゃズレることも少ないだろうにわざわざ手を添えたりして、かけなおす。
ちょっと照れてるんだ、とあたしは思う。手で隠してるつもりかもしれないけど、ちょっとした表情の変化をあたしの目は見逃さない。
「まだ、後片付けがすんでないですよー」
―――まだ、終わりじゃないですよね?
最終日の予期せぬ盛況で、まったく手のつけられなかった閉店作業を理由に少しでも時間を引き延ばしたい、あたし。
通常作業の、レジの集計を始める。
「そうだね。……じゃあとりあえず、面倒なことを先に終わらせちゃおうか。……っと、時間は大丈夫かな」
「ええ、心配ないです。最終日だから、って家のものには言ってありますから」
「そっか。本当に助かるよ。バイトに来てくれたのが、美咲ちゃんでほんとによかったな」
本当にそう思ってくれてるんだったら、いいのに。
嘘でそういうことを言わない人だってもう知っているのに、臆病なあたしはいろいろと考えてしまう。
向けられた笑顔を直視できずに、目を伏せた。
それでも、意識せずにはいられない。伏せた視界の端では店先の照明を消し『close』の札をかけてる安藤さんの姿を捉えてた。
――― 広い背中。
期間限定のOPEN。今日が最後だって最初から分かっていたのに。……胸が痛い。
もう笑顔も、手も。これからは後姿さえも見れない遠い存在へと戻っていってしまうなんて。
安藤さんが窓のブラインドをひとつずつ閉めていく。
「それが終わったら、とりあえずコーヒーでも飲もうか。一休憩したら、駅まで送るよ」
その言葉に、思わず顔を上げた。
覚悟はしてたけど……コレで終わり?
「あの……片付けとかまだいろいろありますよね。あたしも手伝います」
「大丈夫だよ、明日明後日とゆっくりやるし。美咲ちゃんは明日からガッコでしょ」
「そうですけど、通常授業になるにはまだ日があるんで」
安藤さんは、ふっと思案するような顔つきをしてそれからゆっくりと微笑んだ。
「そっか。じゃあ明日も来てもらおうかな」
「はい!」
今日が終わりじゃない。たった一日のびただけのことがすごく嬉しかった。
ぱぱぱ、と残りの集計を済ませて、立ち上がる。
「じゃあ、珈琲入れてきますね」
「ん、頼みます」
カーテン裏にある小さな給湯室で、カップにかけてドリップするタイプの珈琲を二人分淹れた。
もどってくると、テーブルの上を簡単に片付けた安藤さんがコッチを振り返った。
「こっちで飲もうか」
「はい」
互いが家から持ってきた不ぞろいのマグカップをトレイごと置く。普段接客のときに使っているテーブルと椅子に、安藤さんと向かい合わせに座った。
あー……そういえば初めてかもしれない。
1か月毎日のように顔をあわせて、いっしょにお茶を飲んだりもしたけど、こんなふうに誰にも邪魔されることの無い時間を、珈琲を片手にゆっくりと向かい合うこと。
来客に中断することはかなりあったし、そもそも営業中に珈琲を飲むのならこのテーブルではなく、スタッフルームで並んで、というのが常だった。
「ああ、そういえばさっきの。と、ああ、やっぱり。サンドイッチだよ」
7時を過ぎた頃、先に閉店時間を迎えたミハルさんが差し入れてくれた紙袋。
紙袋に書いてある店名で、1Fにあるパン屋さんのだと分かっていた。
ランチによくここのを食べていたから、おいしいのは知ってる。
「なになに『海晴特注サンドイッチ』? うわあ、あの姐さんはどこでも甘やかされてるなぁ」
プラスチックのパックに張られてるシールを見て、安藤さんが顔をくしゃくしゃにして笑った。
その瞬間、ちくりと胸は痛む。こんなにも無防備に笑えるんだ。
「こっちの袋は……」
特に名前も書いてない、シンプルな紙袋。
中を覗いた安藤さんは封筒を抜き取って、それから紙袋をあたしに渡した。
「……?」
中に入ってるのは、色とりどりのキャンドル。
あたしは不思議に思って安藤さんの顔を見た。
手にしているのは、ミハルさんが書いたと思われるカード。そして、鍵。
安藤さんは何度も文面を読み返している様子で、その度に手のひらの中で鍵がくるくると踊る。
なんて書いてあるのか、聞いてもいいんだろうか。
指先に見とれることも忘れて、やけに真剣な顔をした安藤さんを見つめる。
しばらくすると、安藤さんはカードを封筒の中に丁寧に戻して、それから胸ポケットにしまいこんだ。
「安藤さん?」
「うん」
椅子から立ち上がり、トレイにふたつ並んだマグカップの横に、サンドイッチの入ったパックを置く。
「時間、本当に大丈夫?」
「え。ハイ、大丈夫ですけど……?」
「じゃあ、それ持ってついてきてくれる?」
安藤さんの指が、キャンドルの入った紙袋を指した。
ビルの薄暗い階段を黙って上っていく。
4階、5階は小さな会社が入っていて、用のないあたしは3階から上へは行ったことがなかった。
安藤さんの背中は、5階を通り過ぎ、さらに上へと階段を上る。
6階? ううん、屋上……?
階段分だけの小さな部屋。そこにぽつんとあるドア。
安藤さんはそのドアの鍵穴に、ミハルさんから預かった鍵を差し込んだ。
「『お疲れプレゼント』だってさ。ミハルさんからの」
このビルの屋上がどんな風になっているかなんて、たぶんほとんどの人が知らないと思う。
あたしなんて、屋上の存在自体考えてもいなかったし。
周りに高い建物なんてないから、そこはぽっかりと浮かぶ島みたいな空間だった。
ほとんど独占状態の空には、月と星。
本来何にもないはずの屋上。そこは――― たぶんミハルさんの秘密の庭園。
中央に、全体の半分ぐらいのウッドデッキが拓けていた。クロスラティックで四隅を囲んであって、風除けなのか背の高い木が並んでた。
素焼きのプランターには花とグリーン。
真ん中には丸いウッドテーブルと、ウッドチェア。
ちょっとしたオープンカフェの様相。
「―――すごい!」
「だね」
月明かりはあるけれど、薄暗い足元。
心配そうに振り向いてくれる安藤さんに、思わず満面の笑みで何度もうなずいてしまう。
苦笑されようが、かまわない。
こんな素敵な空間を、安藤さんと過ごさせてくれるミハルさんになんと言ったらいいのか。嬉しくてたまらなかった。
トレイをテーブルにおいて、中央にキャンドルを並べる。それに安藤さんが長い指でひとつずつ火をともしていった。
柔らかいキャンドルの光に照らされる安藤さんの顔。
見とれていると、それに気がついた安藤さんが照れたように笑った。
―――――― 隠せてないな、と思う。
たぶんあたしの顔には気持ちが溢れてる。
そして、たぶん ――― 安藤さんは、知ってる。
気付かない振りをしてくれているのは、優しさなのかな。
安藤さんからすれば、……あたしなんて子供だから。
少しぬるくなったコーヒー。
風の音と、下界から聴こえる街の音。
遠くには、夜景。ぽっかりと黒いところは、海かな。
いつものおしゃべりなあたしは今ここにはいなかった。
二人の間にある沈黙が、そんなにも居心地悪くなかったせいだ。
いつも店で見るものとは違うちょっと豪華なサンドイッチを二人で分け合って食べる。
時々空を見上げては、そこに月があることに安心したように顔を見合わせた。
――― 今のこの幸せな気持ちを、安藤さんに伝えるべきだろうか。たとえ、一番の願いが叶わなくても。
でも、困らせたくはない。
優しい人だと知っているから、応えられないことにきっと痛みを感じてしまうだろうと思う。
だけど、知ってもらいたい。気持ちを伝えたい。
そう思ってしまうあたしは、やっぱり子供だ、と哀しくなる。
ミハルさんだったら……きっともっと相手を思いやれるのに。
ミハルさんだったら……きっと安藤さんも困らないのに。
「いつもつけてくれてたね」
「え……?」
安藤さんの視線が、マグカップを持つあたしの指先に向いた。
小指の、リング。
一番最初に買ったやつだった。ずいぶんと迷って選んだものだし気に入ってる。たぶん他のものよりも思い入れも強いのかもしれない。
学校だとつけているわけには行かないけれど、夏休みだし。バイトといっても商品と同じものだからかまわないかな、とずっとつけたままでいた。
「大切にされてるんだ、と思って見るたびに嬉しくなったよ」
もちろんです、大切にしてます。
ピアスも、バイトしてるときに見つけたブレスレットも。
バイトが終わって、夏が終わって。安藤さんと毎日会えなくなるけど。届くことなくこの気持ちがいつか消えたとしても。
変わることなく残る、安藤さんの作品。
―――――― きっと、いつまでも大切な宝物なんです。
「で。考えたんだけど」
「?」
どうしたんだろう。
少し歯切れの悪い安藤さんに、ふと視線を上げた。
ふちのない眼鏡を何度か直すしぐさをして、それからゆっくりとジーンズのポケットから何かを取り出す。
大きな手、長い指に包まれているそれが何なのかは、あたしからは見えなかった。
「気に入ってもらえるかどうか分からないんだけど。これを受取ってもらおうと思って」
長い指があたしの手をとった。手のひらに大切そうに包まれていた小さなものがコロンと落ちてくる。
宇宙を閉じ込めたような濃い藍。丸い小さな粒がサイズ違いで三つ、シルバーのダブルリングの中で転がっていた。
「イギリスだと、9月の誕生石にラピスラズリも入ってるんだ」
「誕生日のプレゼントに……?」
偶然同じ月の生まれだと話してたこともあった。一緒だから覚えていてくれたんだろうけど、それでも嬉しい。
「それとも、ボーナスですか?」
苦笑しながら、安藤さんが首を振る。
「予想以上にがんばってくれた分はちゃんとお給料のほうで上乗せさせてもらってるよ」
本当のことを言うと、お金がほしくてしてたバイトじゃないからどうでもいいことなんだけど。その分またピアスとか買えるな、と考えると楽しみになる。でもそれなら。
「じゃあこれは…」
小指には少し大きなリング。中指には、少し小さいリング。
「できれば、ここに」
「薬指?」
「そう。ステディリングって知ってるよね」
安藤さんの言葉の意味することが判らなくて、一瞬時間が止まった。
……と言うより、あまりにも自分に都合よく聞こえたので、耳を疑った。
「…………どういう意味ですか?」
安藤さんが、笑い出す。
「ちょっ……ひどい、からかったんですか?」
「ちがうよ、ちがう。からかってなんかない。ただ……自分の不器用さがうらめしくてね。高校生の女の子なんてどうやって口説けばいいか分からないよ」
それって。
―――――― こんな冗談言う人なんかじゃない。
そう信じてるけど、でもやっぱり信じられない気がした。
うまく呼吸できなくて、安藤さんの姿が視界に入らないようにあちこちを見た。だけど、手のひらのリングは消えないし、にこにことあたしを見つめる安藤さんも消えない。
……本当なら、嬉しすぎる。―――でも。
「あたし、安藤さんはミハルさんのことが好きなんだと思っていました」
「まさか。ありえないよ。俺はもともとハルヒコの友達だから」
そう穏やかに言うと、安藤さんは眼鏡を外した。
「これ、ほとんど度は入ってないんだ」
「……知ってます」
うん、と彼がうなづく。
初めて見る、レンズ越しじゃない素顔。
「取るとけっこう若く見えるって言われるかな」
「……そうですね」
「でも実際、10近く違うんだよね」
「たがか8歳ですよ」
「そう言ってくれると助けるけど」
「あたし。……安藤さんが好きです」
「――――――うん、知ってる」
嬉しそうに笑って、安藤さんがそう言ったのは唇が離れた後だった。
「いつからですか? その……気付いたのって」
答えにくそうに、安藤さんが顔をそらした。こっちだってすごく聞きにくいこと聞いてるんだけど。
「ないしょ」
「ずるい」
―――――― 安藤さんは、ずるい。
キスした後もゼンゼン余裕で、薬指にはめたリングの重みにどれだけあたしがドキドキしてるのかきっとわかってない。
マグカップと残り少なくなったキャンドルの載ったトレイ。それを手に立ち上がる安藤さんを軽く睨んだ。
あ。
「これ、あたしも読みたいです」
隙を突いて胸ポケットから抜き取った封筒。
「それはちょっと……」
とっさにあたしは安藤さんの伸ばした手から、封筒を遠ざけた。
「じゃああたしの質問に答えてください。このミハルさんの手紙に答えがあるような気がするから、教えてくれないのなら読みます。イイですか?」
安藤さんは長いため息をついた。
……怒らせたかな、と冷や汗が背中を流れる。でも、
「怒らない?」
そう聞いたのは、安藤さんのほうだった。
うん、と思わずうなずくと安藤さんはポツリと言った。
「バイトの初日」
ひえ。そんなにもあたしはバレバレだったの?
「自意識過剰だろう、と思いもしたけど。日を重ねるごとに疑うことのほうが悪いような気がして。ミハルさんに相談したら、今頃気付いたの、と大笑いされて。気がついたらいつのまにか美咲ちゃんの熱い視線に口説き落とされてました。――――――…大変可愛かったです、美咲ちゃん」
ぼぼぼ、と顔が赤くなるのを感じた。
「ずるくて、ごめんね」
いつの間にかそばまで来ていた安藤さんの手が、あたしを引き寄せる。
片手にはトレイが乗ったままだから、ちょっと身体を預けただけの軽いハグ。
「一生懸命仕事をしてくれて。そのピンキーリングと同じくらい作品たちも大切にしてくれて。そしていじらしいくらい見つめてくれてる姿が、すごく可愛かった。もっと早く片思いを終わらせてあげることも出来たけど……あまりにも可愛いいから、今日まで何も言いませんでした。……ゴメンね?」
「ほんとに……ずるい。―――ミハルさんに、感謝しなくちゃ」
「え?」
あたしはくるり、と身を翻して安藤さんの腕から抜け出した。
一度目をとおしたカードを、わざわざ安藤さんによく見えるようにゆっくりと封筒に戻す。
「あれれ。読んじゃった?」
怒りはせずに、でも仕方ないなあ、と困ったような顔で笑う。
【今夜はお天気もいいし、月も綺麗よ。
屋上のプライベートカフェの鍵を預けるから
好きに使っていいわ。
いい加減男なんだから、はっきりしなさい?
大事にしたいって気持ちも分かるけど
あんまり美咲ちゃんを焦らしたらダ・メ・よ♪】
なんかもうすごい楽しそうなミハルさんの顔が想像出来ちゃうカードだった。
「これがなかったら、いつまであたしは待たされたのかな、と」
封筒を元の場所に戻し、そのまま安藤さんの胸にもたれた。
「まあ、そんなに長くはなかったと思うよ」
見上げると、穏やかな笑顔でしっかりと見つめながら安藤さんが言った。
「たぶん、3日も美咲ちゃんの顔を見なかったら淋しくなるからね」
下手なウィンク。でも ――――――、嬉しかった。
あたしなんかを安藤さんが相手してくれるわけない、とそう思っていたから。
夏が終わるように、この恋をそっと終わらせなくちゃいけないと勝手に思っていたから。
「ね」
「ん?」
耳をすませると聴こえてくる。
「ほら、虫が鳴いてます。……夏も終わりですね」
「もうすぐ秋だ」
その後は冬が。
そして春。……夏。
「来年の夏も、一緒にいられるでしょうか」
「それはもうぜひ。ヨロシクお願いシマス」
夏が終わっていく。
―――幸せな、気持ちを残して。
過去サイト初出2004/09/02
好きなカプリング!




