名前を呼ぶだけで、胸が忙しい
一度、勇気を出したからといって、
世界が急に変わるわけではありません。
手を繋げた翌日も、
人は同じように怖がり、同じように戸惑います。
それでも——
「戻らなかった」という事実だけが、
静かに、確実に残っていきます。
これは、
踏み出した一歩を、
ちゃんとそのままにしておくための話です。
手を繋いだ翌週。
佐伯 恒一は、図書館の奥の席に座りながら、落ち着かないでいた。
——あれは、夢じゃない。
指の感触も、温度も、
今でもはっきり思い出せる。
それなのに。
「……こんにちは」
いつもと同じ声。
いつもと同じ距離。
水野 玲奈は、何事もなかったかのように隣の席に座った。
恒一は、少しだけ拍子抜けした。
同時に、ほっともしていた。
「……あの、雨の日は……」
言いかけて、止まる。
何を確認したいのか、自分でもわからなかった。
玲奈はノートを開きながら、ちらりとこちらを見た。
「覚えてますよ」
それだけで、胸が跳ねた。
「でも、無理に続きにしなくてもいいかなって」
玲奈はそう言って、いつものようにスマホを操作する。
その“逃げ道を残す優しさ”が、恒一には少しだけ、寂しくもあった。
沈黙の中で、ゲームの効果音が小さく鳴る。
「……あ」
玲奈が声を上げた。
「限定イベント、始まってます」
恒一は、思わず口を開いた。
「……一緒に、やります?」
自分から誘ったことに、いちばん驚いたのは本人だった。
玲奈は、目を丸くしてから、笑った。
「いいんですか?」
二人は並んでスマホを覗き込む。
肩が、ほんの少し近い。
触れない。
でも、逃げない。
その距離が、今の二人にはちょうどよかった。
イベントが一段落した頃、
玲奈がふと、つぶやいた。
「……恒一さん」
その呼び方に、胸がざわつく。
「私、名前で呼ばれるの、嫌じゃないです」
恒一の指が止まった。
「……え?」
「むしろ、ちょっと……嬉しいです」
顔を上げると、玲奈は少しだけ照れていた。
恒一は、喉を鳴らし、勇気を集めた。
「……玲奈、さん」
たったそれだけ。
でも、言った瞬間、胸がいっぱいになった。
玲奈は、耳まで赤くして、こくりと頷いた。
「はい」
その一言で、
二人の間に、目に見えない何かが増えた気がした。
帰り道。
手は、繋がなかった。
それでも。
並んで歩く速度が、自然と揃っていた。
別れ際、玲奈が言う。
「……また、来週も」
恒一は、はっきり答えた。
「……はい。来ます」
それは約束でも、告白でもない。
でも確かに、
一話前より、
少しだけ“恋人寄り”の関係だった。
第2話では、
関係が進む代わりに、派手な出来事は起きません。
名前を呼ぶこと。
隣に座ること。
同じ画面を覗き込むこと。
そのどれもが、
誰かにとっては取るに足らないことでも、
この二人にとっては、十分すぎる進展です。
恋は、加速しなくてもいい。
怖さを置き去りにしなくてもいい。
一話より少し近く、
でも、まだ手探りな距離。
その曖昧さごと、
大切に感じてもらえたなら嬉しいです。




