9話 龍の想いは渦を巻く
咲夜の屋敷「待宵」から帰る途中、竜胆は足を止めた。
しとしとと雨が番傘を打つ音を耳にしながら、目の前にある見知った姿を見据え、竜胆は「何か用か」と声を掛ける。
その相手は杏子だった。同じく傘を差しているが、杏子の傘は豪奢な細工がされた橙色の傘で、柄は杏子の簪同様に珊瑚礁の形をしている。
「まぁ。散々こき使っておいて何か用かは冷たいんじゃありませんか。ねぇ?竜胆様」
「胡散臭い呼び方はやめろ」
「そちらこそ、あの娘に何も説明していないじゃありませんか。長としてあまりに無責任だわ」
杏子がぴしゃりとそう言い放つが、竜胆は動じた様子もなく淡々と返す。
「別に何かを言う必要もないだろう。怪我の恩を返す為、天涯孤独の身に棲家を与えただけのこと。その口実の為に涙鱗も渡した。これ以上何が要る?」
「だから説明が要ると言っているんですよ。長老達にも「渡しました」で済むと本気で思ってるんですか?我が一族の持つ涙鱗は、人助けの一助になる曲芸だとでも?」
今度は竜胆の顔つきが険しくなる。しかし杏子は怯まなかった。
辺りには誰もいないが、それでも肌がひりつくようなこの空間には今にもまた雷が落ちそうな程だ。
しばらく見合った後で竜胆は深い溜息を吐く。
「華宴にこんなに早く出るのは確かに誤算だった。その辺の手配はしてやれていなかったからな」
「そういう問題ではないですよ」
「だが、上手くいけば若い臣下に見初められて嫁ぎ先か、重鎮に職能を見出されて再出発が出来るかもしれない。駄目ならまた次の催事もある」
禁苑は代々龍族の長の妻となる女性を見つける場所だ。
しかし、竜胆はその気は一切なく、催事は臣下も見られるものに変え、いつしか苑に入るあらゆる獣族にとっての婚姻や就職を斡旋する場所になっている。
誰もが美しい竜胆に見初められたいが為に研鑽を積んでいるが、そうした側面に気づいた苑の女性で実際に下賜という形で入籍した者も、職を得た者もいた。
獣族も人間よりは自由が効くが、女性はまだまだ選択肢が少ない。そういう意味では革新的な場所となっている事は事実で、杏子も一定の評価はしていた。
「他の花と同じように他所へ行く機会をあの娘にも?本気でそう思っているんですか?」
「──……それ以外何がある。呪われたこの身が返せるものなど、これ以外にない」
竜胆は杏子にただただ冷たく言い放つ。
竜胆の脳裏には会話に戸惑いながらもはにかむ咲夜がいた。
そうして記憶を思い返すと、心がざわりと騒いで目の前には黒い靄がかかる。杏子はその様子を見て、はっと目を見開いた。
竜胆の瞳は灰色からじわりと紫色に変化していく。
「もうお前も戻れ。明日もあの娘の下で動いてもらう」
「っ、」
「胡散臭い呼び方をするなとは言ったが、迂闊な呼び方もするな。お前にはまだ役目がある」
杏子が声をあげようとすると動じに、竜胆はそれを制して一瞬だけ笑みを滲ませて歩き出す。
「寄るな。我らの間で障りを貰い受ける事ほど馬鹿らしい事はない」
それだけを言い残して、竜胆は去って行った。
その後姿を見送った後で、杏子は苦々しい表情で溜息を深く零す。
「馬鹿らしいのは貴方だって言ってるのよ。ねぇ、それでいいの?」
杏子のその言葉は、誰にも届かなかった。




