勇者は剣を置いた
王都の鐘が鳴るたび、俺の懐の紙が重くなる。
魔導院からの通知――取引の期限は明日まで。監視官が付く。
教会からの協力要請――条件付き。情報は秘匿。主導権は教会。
境界からの急報――暫定補給路で小規模衝突。火はもう舐め始めている。
三つの通知は別々の顔をしているが、同じことを言っていた。
――今、決めろ。
決めないなら、決まる。
物語を必要とする者が、物語の都合で決める。
俺は宿の机に帳簿を開き、余白に印を付けた。
「期限」「秘匿」「衝突」。
赤ではなく、黒。黒は、後から消せない。
その上に、聖女からの紙片を置く。薄く、細い字。
「戻れないの」
「勇者に、無理をさせないで」
「お願いがある」
お願いがある。
祈りではない。命令でもない。
檻の中から出た、現実の言葉だ。
俺は紙片を折り畳み、胸の内側にしまった。
そして、机の上の封筒を手に取る。
賢者の取引に返事をする前に、確認しなければならないことがある。
勇者は本当に戻りたがっていないのか。
そして、戻さないために必要なことは何か。
「本人に会う」
それは感情のためではない。
構造のためだ。
英雄の意思が無視されたまま、再招集が進む。
その矛盾を支えにできるのは、英雄本人の言葉だけだ。
勇者の居場所は、王都の中心にはない。
そんなことは分かっていた。
中心にいれば、人が集まる。
人が集まれば、象徴になってしまう。
象徴になれば、自由は失われる。
俺は王都の外れへ向かった。
貧民街と呼ばれる区域。戦災孤児が多い場所。
ここには布告板も、吟遊詩人の舞台もない。代わりに、炊き出しの鍋がある。
路地を曲がると、人だかりが見えた。
子どもたちが笑い、鍋の匂いが漂う。
その輪の中心にいるのは、司祭でも役人でもない。
質素な外套を着た男。
剣は持っていない。
背は高いが、胸を張っていない。
笑うときだけ、肩が少し上がる。
勇者だった。
英雄譚の中心にいたはずの男が、鍋の前で木の匙を握っている。
その姿が不自然ではないことが、怖かった。
俺が近づくと、勇者はすぐに気づいた。
気づいて、視線を逸らそうとした。
だが逸らす前に、俺と目が合う。
勇者は息を止めた。
一瞬だけ、遠征の夜の顔になる。
次の瞬間、静かな声が出た。
「……エイル」
呼び名が、正しく胸に刺さる。
聖女の小さな声より、少しだけ大きい。
だがここでも勇者は、名前を大きく呼ばない。
「久しぶりです」
俺が言うと、勇者は木の匙を鍋の縁に置いた。
子どもたちが不思議そうに見上げる。
「おじさん、知り合い?」
「戦った人?」
勇者は笑って首を振る。
「違うよ。仕事の人だ」
仕事の人。
その言い方が、俺には救いでもあり、棘でもあった。
勇者は子どもたちに鍋を任せるように合図し、路地の奥へ俺を連れていった。
人目を避ける動きが、もう癖になっている。
「ここで会うのはまずい」
勇者は、路地裏の陰で言った。
「誰かに見られたら、また――」
「また、戻せと言われる」
俺が続けると、勇者は口を閉じた。
肯定の沈黙。
「……まだ帳簿を持ってるのか」
勇者がぽつりと言う。
俺は荷袋を軽く叩いた。
「捨てられなかっただけです」
遠征が終わっても、帳簿は終わっていない。
世界が救われても、世界は終わっていない。
勇者は、苦い顔をした。
「……お前は、そうだよな」
路地裏の小さな空き地に、木箱が二つ置かれていた。
俺たちはそこに腰を下ろした。
英雄譚の再会にしては、あまりにも地味だ。
だが、この地味さこそが本物だ。
派手な再会は物語になる。
物語になるものは、すぐに利用される。
「賢者に会った」
俺は先に言った。
勇者の目が、わずかに動く。
「……そうか」
「取引を提示された。暫定を制度にする代わりに、俺は監視下に置かれる。
功績は勇者の名に再配分される」
勇者は俯いた。
掌が、膝の上で一度握られ、ほどける。
「聖女にも会った」
勇者の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「会えたのか」
「声だけだ。……紙を預かった」
俺は胸の内側を指で軽く叩いた。
「戻れない、と」
勇者の息が長くなる。
吐く息に、疲れが混じる。
「……あいつは、強いよ」
「強いから、使われる」
俺の言葉に、勇者は目を閉じた。
「お前に聞きたい」
俺は言葉を選ぶ。
「再招集が進んでいる。王都は“戻す準備が整っている”と言っている。
だが本人の意思が見えない。
本当に、戻りたくないのか」
勇者はしばらく黙っていた。
黙っている間に、遠くで子どもの笑い声が聞こえる。
その笑いが、王都の鐘よりも現実に近い音だった。
勇者はようやく口を開く。
「戻りたくない」
短い。
だが、誤魔化しがない。
「理由は?」
俺が問うと、勇者は自分の手を見つめた。
その手は剣を持つ手だ。
だが今は、木の匙を握る手だ。
「俺が戻れば、みんな安心する」
勇者は静かに言った。
「安心して……任せる。
任せたまま、何も変わらない」
「現場は責任を学べない」
俺が言うと、勇者は頷いた。
「そうだ」
勇者は続ける。
「俺が剣を持てば、問題は一時的に消える。
でも消えたように見えるだけで、下に溜まる」
溜まったものは、いつか爆ぜる。
爆ぜたとき、また英雄が必要になる。
物語依存が再発する。
勇者は顔を上げた。
目が、遠征の夜と同じ色をしていた。
「俺が戻れば戻るほど、次の魔王が必要になる」
その言葉は、ぞっとするほど正確だった。
「人は、敵がいないと物語を続けられない。
英雄がいないと安心できない。
だから――英雄を戻して、安心して、また壊す」
勇者の声は怒りを含んでいない。
怒りを通り越した諦めが、薄く混じっている。
「……それでも、境界は燃え始めている」
俺は境界の急報を伝えた。
勇者は目を伏せた。
「分かってる」
勇者は言った。
「燃え始めた火に、水をかければ消える。
でも水をかける役を“俺”にするな」
勇者は、胸の奥から言葉を引き出すように続けた。
「剣を持てば、みんな安心する。
でも安心は、現実を直さない」
それが、勇者の結論だった。
剣で世界を救った男が、剣の限界を言う。
その矛盾が、痛いほど真実だった。
「だから頼む」
勇者は、俺を見た。
初めて、真正面から。
「俺を戻すな」
その一言が、路地裏の空気を変えた。
命令ではない。懇願だ。
英雄が、脇役に頼んでいる。
「代わりに、“戻さなくて済む仕組み”を作ってくれ」
胸の内側で、聖女の紙片が熱を持つ。
「無理をさせないで」
同じ願いが、二人から来ている。
勇者は続けた。
「聖女を口実にして俺を戻そうとしてるなら……なおさらだ。
あいつを、物語の材料にするな」
俺は息を吐いた。
物語を守るために、現実を壊す。
現実を守るために、物語を壊す。
その二択ではない道を、作らなければならない。
「……分かりました」
俺は言った。
軽くは言えない。だが言わないと、現実が決まる。
「勇者の“不在”を、制度にします」
勇者の目がわずかに見開かれる。
「不在を?」
「戻らないなら、戻らないことを“形”にする。
そうしないと、また誰かがあなたを連れ戻す」
勇者は苦く笑った。
「お前らしいな」
そのときだった。
路地の入口の方が、ざわついた。
足音。複数。
規則正しい。訓練された歩き方。
子どもたちの笑い声が、急に遠のく。
勇者が立ち上がりかける。
「……来た」
「逃げるな」
俺は反射的に言った。
勇者の動きが止まる。
「逃げれば、“勇者は使命から逃げた”って物語にされる」
勇者の顔が歪む。
彼もそれを知っている。
知っているから、隠れていた。
だが隠れること自体が、もう物語の材料だ。
路地に入ってきたのは、官吏ではなかった。
魔導院の外套を着た男が二人。胸元に青い徽章。
賢者の部下だ。監視官。
視線が鋭く、書類を持っている。
「勇者殿」
呼び名が、路地の空気を締め上げる。
勇者の名は、口にした瞬間に場を支配する。
俺は一歩前に出た。
剣はない。
だが、ここで退けば全てが“物語の都合”で進む。
「彼は今、公務中ではない」
俺は言った。
言葉は慎重に、しかし迷いなく。
「ここは魔導院の許可区域ではない。
あなた方の権限はどこにある」
監視官の一人が眉を上げる。
「君は――」
「後始末係だ」
俺は名乗った。
肩書きはないが、言葉はある。
「そして、境界協定の原案を作った者だ。
賢者殿が署名した“再招集計画”に、勇者本人の意思が欠けていることも知っている」
監視官の目が細くなる。
情報を持っている者は厄介だ。
それがこの王都の常識だ。
「勇者殿の意思は確認する」
監視官が言う。
形式の言葉だ。形式で連れ戻す気だ。
勇者が口を開いた。
その声は低いが、震えていない。
「戻らない」
監視官たちが一瞬、言葉を失う。
それだけで十分だった。
勇者本人の言葉は、形式の上に乗る。
だが、言葉だけでは足りない。
明日にはまた別の形式が出てくる。
俺は、勇者の“不在”を制度にすると言った。
言った以上、今日ここで一手を打つ必要がある。
「賢者殿に伝えろ」
俺は監視官に言った。
「取引の条件を反転させる。
“勇者再招集”を前提に制度化するのではなく、
“再招集停止”を制度にする」
監視官が笑いかけた。
笑いかけて、やめる。笑うには重い内容だからだ。
「無理だ。英雄の物語は必要だ」
「なら、代替を用意する」
俺は言った。
「聖女の祝福を分散する仕組み。
境界の補給を制度に組み込む仕組み。
英雄の名ではなく、現場の合意で回る仕組み。
それがあれば、英雄は戻らなくて済む」
監視官の目が揺れた。
その揺れは、否定ではなく計算だった。
「……賢者殿に伝える」
監視官はそう言い、引いた。
引いた理由は、勇者本人の言葉があったからだ。
そして、俺が“仕組み”を提示したからだ。
監視官が去ると、路地はまた静かになった。
遠くで鍋をかき混ぜる音。
子どもたちの笑い声が、少しずつ戻ってくる。
勇者は座り直し、俺を見た。
「お前、敵を増やすのが上手いな」
「脇役は守られない」
俺は答えた。
「だから、守られない前提で形を作るしかない」
勇者は、肩を落として笑った。
笑いは短く、すぐに消えた。
「……頼んだぞ」
英雄が頭を下げるような頼み方ではない。
だがこの路地では、その方が本物だ。
俺は立ち上がった。
時間がない。明日まで。境界は燃える。聖女は檻の中だ。
そして、物語は勝手に進む。
だからこそ、進む方向を変える。
俺は最後に、勇者へ言った。
「あなたはここにいてください。
剣ではなく、匙を持って」
勇者は少し驚いて、やがて頷いた。
「……分かった」
俺は路地を出る。
王都の中心へ戻る道は、鐘の音で満ちていた。
英雄を呼び戻さないために、俺は英雄に会いに来た。
その矛盾が、今の世界の唯一の正しさだと思えた。
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