賢者の署名
リュネアを発つ朝、城壁の灯はまだ消えていなかった。
眠らない灯りは、平和の象徴じゃない。警戒の証明だ。
守備隊長は詰所の前で腕を組み、俺の荷袋を見下ろした。
「……王都へ行くのか」
「呼ばれた以上は」
封筒はまだ懐にある。赤い封蝋。王都の印。
そして、端に薄く残る青い押印――魔導院の関与を匂わせる色。
「功労者として呼ばれるなら、いい話だがな」
隊長は、笑おうとして失敗した顔をした。
「功労者は、盾にはならん。覚えておけ。
上は“形”で殴ってくる」
「……分かってます」
形で殴られるのは、倉庫で慣れている。
だが今回は、殴られたあとに橋が落ちる。落ちれば、剣が抜かれる。
「暫定は制度に移した。橋はまだある」
「橋は、いつだって燃える」
隊長はそれだけ言って背を向けた。
見送りは、余計に重くなる。
俺は門を出て、王都へ向かった。
王都が近づくほど、街道の空気は軽くなる。
物資の匂い、金の匂い、言葉の匂い。
戦場の泥ではなく、机の上で世界が動く匂いだ。
門をくぐると、視界にまず入ったのは布告板だった。
「勇者再招集、検討中」
文字は太く、言い回しは妙に理屈っぽい。
軍の布告にしては、言葉が整いすぎている。
――賢者の文体だ。
そう思った瞬間、背中が冷えた。
根拠はない。だが、長く一緒にいた相手の癖は、紙からでも滲む。
広場では吟遊詩人が歌っていた。
「英雄の帰還」「再び剣を取る勇者」
民衆は笑い、酒場は景気よく杯を鳴らしている。
誰も、リュネアの倉庫が空に近いことを知らない。
境界線に薄い板が渡されていることも。
英雄が戻る。
その物語が、現実を覆い隠す準備をしている。
俺は人混みを避け、呼び出し先を確認した。
王宮ではない。王立魔導院。
封筒の青い押印が、俺を正しい場所へ導いていく。
魔導院は静かだった。
石造りの建物は、王都の喧騒から一歩離れた場所にあり、空気の温度まで違う。
玄関には衛兵ではなく、書記がいる。剣ではなく、筆で守る場所だ。
「ご用件は」
「呼び出しです」
封筒を見せると、書記の目がわずかに動いた。
「……こちらへ」
案内された廊下には、魔導具の光が淡く漂っている。
窓は少なく、音も少ない。
ここでは、世界の流れが外よりも遅く、しかし確実に決まっていく。
面会室の扉を開けると、長い机が一本置かれていた。
書類の山。封筒の束。押印具。
英雄譚の続きは、歌ではなくここで書かれる。
椅子に座って待つように言われ、しばらくすると――扉が再び開いた。
足音が軽い。だが迷いがない。
顔を上げた瞬間、胸の奥に、古い記憶が刺さった。
賢者だった。
かつて勇者の隣に立ち、魔法陣を描き、戦場を理屈で切り取った男。
今は戦装束ではなく、濃紺の外套。胸元には魔導院の徽章。
痩せた。目の奥だけが、以前より鋭い。
賢者は、俺を見るなり口角をほんのわずかに上げた。
「久しいな、補給係」
その呼び名は、懐かしさより先に痛みを連れてくる。
「今は“後始末係”だ」
俺がそう言うと、賢者は小さく頷いた。
「呼び名が変わるのは、役割が変わった証拠だ。
座れ。時間は長くない」
賢者は机の向こうに座り、書類を一枚引き寄せた。
そこにあるのは、俺がリュネアで結んだ暫定契約の写しだった。
「まず確認する。君のやったことは――結果として正しい」
意外だった。
否定から始まると思っていた。
「境界の小競り合いは止まった。補給は回り始めた。
君が剣を抜かずに、それを成したのは評価に値する」
評価。
その言葉が、逆に怖い。
賢者は続ける。淡々と、紙をめくりながら。
「だが手続きが悪い」
やはり、そこに戻る。
「個人の裁量で、魔族側と直接合意した。
都市間合意に移したとはいえ、端緒が個人だ。
前例になる。前例は、統治を崩す」
「統治より現場が先に崩れかけていた」
俺は即答した。
賢者は否定しない。否定せずに、別の線を引く。
「統治は、現場を救うためにある。だが――」
賢者の視線が、俺を外れた。机上の紙を見ているのに、遠いものを見ている目だ。
「救い方が違う。
君は現実を救った。
私は、現実を“保たせる”必要がある」
似ているようで、決定的に違う。
現実を救うのは、その場の痛みを止めること。
保たせるのは、痛みが表に出ない形を作ること。
賢者は、布告板の文言のような言葉で言った。
「正しさは、統治を救わない」
俺は息を吐いた。
同じ卓で、同じ世界を見ているのに、焦点が違う。
「じゃあ聞く。統治が現実を救わないなら、統治の意味は何だ」
賢者は、初めて少しだけ表情を動かした。
怒りではない。興味でもない。
――痛みだ。
「意味はある」
賢者は低く言う。
「意味があるから、私はここにいる」
賢者は机の端から、別の書類を取り出した。
青い押印が押された、正式な用紙。
「取引をしよう、後始末係」
「取引?」
「君の暫定契約を、王都主導の正式協定に格上げする」
一瞬、胸が軽くなりかけた。
制度に移せるなら、橋は燃えにくくなる。
だが、賢者はそのまま条件を並べた。
「その代わり、君は現場の裁量を手放す。
協定の功績は、“勇者の名”に再配分される。
君の名前は出ない」
当然のように言う。
そして最後に、最も重い条件を落とした。
「君は魔導院付きの調整官になる。
無名で。――監視下で」
やっぱりそうだ。
救いに見せた回収。
橋を守る代わりに、橋を作った手を縛る。
俺は黙ったまま、紙の端を見つめた。
そこには、空欄がいくつもある。署名欄も、承認欄も。
「なぜ俺だ」
言葉が出た。
自分で思っていた以上に、乾いた声だった。
賢者は、少しだけ肩をすくめた。
「君が、形式と現実の両方を知っているからだ。
現実だけを知る者は、制度を壊す。
制度だけを知る者は、現実を殺す」
そして、決め台詞のように言う。
「名がない者は、名のある仕組みに入るしかない」
机の上の灯が揺れ、紙の白さが目に刺さった。
名がない。
俺が最初から抱えていた痛みを、賢者は正確に突く。
「……勇者の名に再配分、か」
俺は笑いそうになって、止めた。
笑えば、負ける。
「英雄の物語が必要なんだろ。王都には」
賢者は否定しなかった。
「物語は、人を動かす。
人が動けば、物資も動く。
物資が動けば、戦争は遠のく」
理屈としては、正しい。
だが、その正しさが、現実を上書きする。
「上書きでしか、統治できないのか」
俺が言うと、賢者の目が細くなった。
「上書きではない。最適化だ。
君の暫定は、最適化の素材になる」
素材。
人間を紙の素材のように言うのが、賢者らしい。
戦場でも、賢者は“命”を“数”で扱っていた。
「俺が拒否したら?」
賢者は少しだけ黙り、それから淡々と答えた。
「君の暫定は危険な前例として切られる。
橋は落ちる。現場は剣を抜く。
その責任は――君に被せられる」
脅しではない。事実の提示だ。
事実を並べるのは、俺も得意だった。
「君は正しい」
賢者は繰り返す。
「だが、君の正しさは君を守らない」
守る。
守られる。
俺がずっと持てなかったものだ。
面会室の窓の外で、王都の鐘が鳴った。
祝福の鐘ではない。時刻を知らせる鐘。
世界は淡々と進む。
俺は紙に目を落としたまま言った。
「ひとつだけ、確認させろ」
「何だ」
「勇者は、この再招集を望んでいるのか」
賢者の指が、わずかに止まった。
その一瞬が、答えだった。
賢者は視線を外し、窓の方を見たまま、低く言った。
「……勇者は、戻りたがっていない」
言葉は短い。
だが重い。
俺は続けた。
「聖女は?」
賢者の喉が、わずかに動いた。
「聖女は、戻れない」
理由は言わない。
言わないのに、理由が見える。
象徴は、動けない。
「じゃあ、誰が戻す」
俺が問うと、賢者は机の端の書類に視線を戻した。
そこに置かれていたのは、分厚い一冊の計画書だった。
表紙に、硬い文字。
――再招集計画書。
賢者はその表紙を指で押さえ、ゆっくりとこちらへ向けた。
署名欄が見える。
勇者の名前の欄は、空白だった。
代わりに、別の署名がある。
流れるような筆跡。
賢者の署名。
賢者は静かに言った。
「物語を必要とする者が、物語を動かす」
英雄が物語を動かすのではない。
物語が英雄を動かすのでもない。
物語を必要とする者が、英雄を動かす。
俺は息を吐いた。
胸の奥に、嫌な確信が積もっていく。
「……俺の暫定は、材料になる。
勇者は“帰還”として歌われる。
現場の血は、歌で消える」
賢者は否定しない。
否定できない。
「だから取引だ」
賢者は淡々と告げる。
「君が仕組みに入れば、橋は燃えにくい。
君が外にいれば、橋は燃える。――どちらが現実的だ?」
現実的。
その言葉に、俺は何度も救われ、何度も傷ついた。
俺は紙を指で押さえ、ゆっくりと賢者を見た。
「……お前は、変わったな」
賢者は、ほんの少しだけ笑った。
「変わったのは、世界だ。
救われた後の世界は、救われる前より面倒だ」
それは、同意できる。
だから余計に厄介だ。
俺は、答えを急がなかった。
急げば、利用される。
賢者は椅子から立ち上がり、最後に一言だけ置いた。
「明日までに返事を出せ。
君がどう答えても、物語は進む。
だが、君がどこに立つかで、現実の傷の深さは変わる」
扉が閉まり、面会室には紙の匂いだけが残った。
机の上の計画書。空欄の署名。賢者の署名。
そして、俺に差し出された“救い”という名の檻。
俺は帳簿を開き、余白に小さく印を付けた。
――賢者再接触。
――勇者、意思なし。
――聖女、拘束。
――物語による統治、加速。
窓の外から、吟遊詩人の歌が微かに聞こえた。
「英雄の帰還」。
今日も世界は、物語で安心しようとしている。
俺は帳簿を閉じ、立ち上がった。
勇者が戻るのは、解決じゃない。
物語で現実を覆うだけだ。
――そして、その覆いを剥がす役は、また脇役に回ってくる。




