勇者再招集の噂
リュネアの朝は、冷えた空気と一緒に噂を運んでくる。
市場へ向かう途中、すれ違った子どもが「勇者さまが戻るんだって!」と叫んだ。
その声は石畳に反射し、角を曲がるたびに形を変えて増殖する。
「もうすぐだってさ」
「王都が動いたらしい」
「英雄が来れば、魔族なんて――」
誰も確かめていない。だが誰も否定もしない。
勇者の名は、真偽を必要としない。通用するかどうかだけで、現実を塗り替える。
俺は倉庫街の入口で足を止めた。
昨日まで並んでいた荷馬車が、半分に減っている。
「あの、今日の搬入は……?」
商人が倉庫番に声をかけている。倉庫番は気まずそうに首を振った。
「様子見だ。勇者が戻るなら、話が変わるだろう」
様子見。
その言葉が、胃の底を冷たくした。
暫定契約は薄い板だ。
板は、上に誰も乗らなければ意味がない。誰も歩かなければ、橋ではなくただの板切れになる。
「やってることは正しい。だが、空気が変わると正しさが足を引っ張る」
独り言が漏れた。
帳簿を開き、昨日付けた赤印を指でなぞる。
暫定。再交渉必要。
そして今、新しい印が見える。
――噂。期待。停滞。
俺が“後始末”で押し戻した火種は、別の手でまた乾いた薪を足されている。
詰所へ向かうと、守備隊長がすでに机を叩いていた。
荒れているのは机ではない。空気だ。
「商人が引いている」
隊長は眉間に皺を寄せたまま言った。
「“どうせ勇者が来るなら待つ”だと。ふざけるな」
「ふざけているのは、噂の方です」
俺は淡々と返した。
隊長は唸り、視線だけでこちらを刺す。
「お前の暫定契約は、今、街の命綱だ。
だが同時に――」
言葉が途切れる。言わなくても分かる。
“魔族と組んだ男”という見え方が、街の中に生まれ始めている。
「誰が責任を取る?」
隊長が言った。
「王都が“知らん”と言えば、責任はここに落ちる。……お前に落ちる」
肩書きがない者は、守られない。
俺はその現実を、王都の倉庫で何度も見てきた。
「責任は契約に置きます」
俺は帳簿を閉じる。
「個人ではなく、都市と拠点の責任に。そういう形に整えた」
隊長は口を開きかけ、閉じた。
分かっている。形は整っている。だが、形は“上”に潰されることもある。
「……来るぞ」
隊長が窓の外を見た。
城門の方が騒がしい。馬蹄の音。兵の号令。
王都の使者が来るときの音だった。
昼前、広場に人だかりができた。
布告板の前で、役人が高い声で読み上げている。
「――王都は、境界の安定のため、必要な措置を講じる。
英雄の再招集についても、検討を進める――」
検討。
その言葉が、聞いた者の頭の中で「決定」に変わる。
群衆の表情が一斉に緩む。
安堵の吐息が広がり、同時に別の熱が生まれる。
「やっぱり戻るんだ」
「英雄さえ来れば」
「もう怖くない」
怖さは消えていない。
ただ、見ないふりが上手になっただけだ。
俺は人混みを抜け、使者の一団へ向かった。
先頭の馬から降りた男が、こちらに気づく。
見覚えがある。
王都の倉庫で「関与しない」と言い切った文官だ。
「……まだいたのか、補給係」
「今は後始末係です」
言い直すと、文官は鼻で笑った。
「言葉遊びはいい。話がある。詰所へ案内しろ」
隊長が出てきて、無言で頷いた。
ここで揉めれば、噂が“事実”になる。
詰所の机に向かい合うと、文官は書類の束を置いた。
封筒の端に、王印とは別の薄い押印が見える。青い色。
ただの飾りではない。――魔導院の印に似ている。
「リュネアにて、独断で魔族と交渉し、暫定契約を結んだ者がいると報告が入った」
文官は淡々と言う。
「把握していない。許可も出していない」
「現場が崩れかけていたからです」
「英雄の仕事ではない、と言ったはずだ」
文官の声は冷たい。
“英雄の仕事ではない”という言葉は、結局こういう意味だ。
――誰も責任を取らない。
「危険だ」
文官は続ける。
「魔族との直接合意は、王都の統治を揺らす。
境界の管理は王都が担う。個人の裁量ではない」
「個人の裁量ではありません」
俺は契約書を机に出した。
「都市と拠点の合意です。監督者も置いた」
文官は紙を一瞥し、すぐに押し返した。
「紙は都合よく書ける。
問題は“前例”だ。今後、誰もが勝手に交渉を始める」
隊長が唇を噛む。
街を守る人間は、“前例”より今日の命が重い。
俺は一呼吸置き、言葉を選んだ。
剣がないなら、言葉で刃を作るしかない。
「前例が怖いなら、なおさら整えるべきです。
暫定を切れば、剣が抜かれます」
文官が目を細める。
「大げさだ」
「大げさじゃない。
今ここが持ちこたえているのは、紙の強さではなく、期待の薄さです。
期待が崩れれば、疑念が勝ちます。疑念は、槍より早い」
文官は、わずかに苛立ちを見せた。
それが、こちらの言葉が届いている証拠だった。
「王都は、勇者の再招集を検討している」
文官は声を低くする。
「英雄の旗の下で、秩序を立て直す。
それが最も早く、最も安全だ」
早くて、安全。
その二つの言葉の裏にあるものを、俺は知っている。
“物語で覆う”。
現実を直すのではなく、見えなくする。
詰所の外で、小さな騒ぎが起きた。
見張りが駆け込み、隊長に耳打ちする。
「魔族の密使が来ています。……例の補給責任者の印」
隊長の顔が強張る。
文官は、その言葉だけで表情を変えた。
「密使だと?」
文官が言う。
「やはり危険だ。今すぐ関係を断て」
「断てば、向こうは“裏切り”と受け取ります」
俺は即答した。
「暫定は、繋いだ橋です。橋を落とせば、向こうは剣で渡ってきます」
文官は机を指で叩き始める。
考えているのではない。苛立っている。
英雄の物語で統治したい者にとって、橋は邪魔だ。
橋がある限り、“勇者がいなければ解決しない”という筋書きが崩れる。
「……よろしい」
文官は冷たく言った。
「では、王都の管理下に置く。暫定契約は停止だ」
隊長が立ち上がりかける。
その瞬間、俺は声を低くした。
「停止、ではなく――移管にしてください」
文官が眉を上げる。
「移管?」
「暫定契約の主体を、個人から切り離します。
王都が“知らない”と言うなら、知る形にすればいい」
俺は紙束を引き寄せ、白紙の一枚を出した。
机上で構造を組む。俺の戦場はここだ。
「王都の使者殿、あなたの署名を入れてください。
そして都市代表として隊長の署名。
魔族側も同等の代表が署名する。
監督者を三者で置く。違反時の罰則も明記する」
隊長が目を見開く。
「お前……」
「個人が勝手に動いた“前例”にはしません」
俺は続ける。
「王都が“上”として乗るなら、これは“制度”になります」
文官は黙った。
前例が怖いと言った者が、制度化を拒めば矛盾する。
「そして――」
俺は最後の一言を置く。
「勇者の名は使いません。
勇者が戻った時、戻ってからの世界に“現実の仕組み”が残るように」
隊長の拳が机の上でゆっくり開いた。
迷いが見える。
だが迷っている間にも、街は飢える。
「……俺が署名すれば、俺も責任を背負う」
隊長が呟く。
「背負うのは隊長だけじゃない」
俺は目を上げる。
「背負うのは、仕組みです。
仕組みに乗れば、個人は潰されにくくなる」
文官が唇を引き結ぶ。
そして、短く息を吐いた。
「……条件付きで認める。
ただし、王都へ詳細を報告する。
誰がこの形を作ったかも、な」
脅しは、言葉の最後に混ぜるのが上手い。
それでも、今は飲むしかない。
隊長がペンを取り、署名した。
文官も署名した。
紙の上で、暫定は“個人の問題”から外れる。
橋はまだ、落ちていない。
夜、俺は詰所の外で密使と会った。
魔族側の補給責任者の印を見せられ、短い文が渡される。
――噂は届いている。
――勇者が戻るなら、我らはまた捨てられるのか。
――答えを求める。
俺は返書を書く。
言葉を選ぶ。剣よりも慎重に。
――暫定は制度に移した。
――勇者の名は使っていない。
――橋はまだある。だが揺れている。
密使は無言で頷き、闇に消えた。
部屋に戻ると、机の上に新しい封筒が置かれていた。
封蝋は赤。王都の印。
そしてその端に、昼に見たのと同じ薄い青の押印がある。
嫌な予感は、たいてい当たる。
封を切り、紙を読む。
「説明のため、速やかに王都へ出頭せよ。
併せて、境界協定の原案一式を提出すること。
監督:王立魔導院 参議――(名)」
名前の部分は、略されている。
だが、肩書きだけで分かる。
魔導院。参議。
賢者の領分だ。
俺は紙を置き、しばらく動けなかった。
勇者再招集の噂の裏で、別の手が動いている。
英雄が戻ればすべてが解決する。
そう信じたい人間のために、世界はまた物語に押し込められる。
俺は帳簿を開き、新しい印を付けた。
――王都召喚。
――魔導院関与。
――英雄譚による上書きの兆候。
窓の外、城壁の灯が揺れる。
火は消えていない。形を変えただけだ。
「勇者が戻るのは、解決じゃない」
声にすると、夜が少しだけ重くなった。
「物語で現実を覆うだけだ」
そして、その覆いを剥がすのは――
また、名もない者の仕事になる。
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