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英雄譚の後始末

王都の広場は、昼だというのに眩しかった。

日差しのせいではない。掲げられた旗、磨かれた甲冑、そして人々の期待が、光のように反射していたからだ。


「――勇者よ!」


名を呼ばれた瞬間、歓声が波のように押し寄せる。

魔王を討ち、世界を救った男は、剣を掲げて応えた。聖女は微笑み、賢者は静かに頷く。吟遊詩人の弦が鳴り、英雄譚は完成へと向かっていた。


それを、俺は広場の外れから見ていた。


足元には荷馬車。

その上には木箱が積まれ、縄で雑に固定されている。箱の側面には、遠征時に付けられた識別札がそのまま残っていた。擦り切れた紙に書かれた番号は、もう誰の目にも入らない。


帳簿を開き、閉じる。

最後の確認だ。返却された装備、処分予定の保存食、精算されていない契約金。英雄たちが台座に立つ間、俺は数字を追っていた。


式典が終わる。

拍手はいつまでも止まらず、民は英雄の名を呼び続ける。

だが、その中に俺の名はない。呼ばれる理由も、呼ばれる場所も、最初からなかった。


遠征中、剣が折れた夜があった。

魔法が尽きた日もあった。

だが食糧が尽きたことは一度もない。道を誤ったこともない。仲間が決裂したこともない。


それでも――。


解散の宣言がなされ、王の言葉が締めくくられる。

勇者パーティは、その役目を終えた。


世界は救われた。

英雄譚は、ここで終わる。


俺は帳簿を閉じ、荷馬車の縄を結び直した。

物語が終わったあとに残るものは、拍手ではない。

数え切れない「残り物」だ。


誰も見ていない場所で、俺はそれを引き受ける。

それが、脇役の仕事だった。



解散式の喧騒が嘘のように、王都西倉庫は静まり返っていた。

厚い石壁に囲まれた建物の中には、人の気配も、祝福の声もない。あるのは、木箱の匂いと、古い紙の埃だけだ。


俺は荷馬車を止め、箱を一つずつ確認していく。

遠征に持ち出された支援物資の残り。破損した武具。魔族領との交易品。

それらすべてに、番号と印が付いている。


帳簿に線を引き、数字を書き込む。

この作業は、勇者にはできない。賢者もやらない。聖女には向いていない。

だから俺がやる。


「……やっぱり足りないな」


乾燥肉の数が合わない。

原因はすぐに思い当たった。北の峠で、補給隊が襲われた夜。

あのとき俺は、勇者に進軍の延期を進言し、代わりに近隣の村と交渉した。

保存食と引き換えに、壊れた橋の修復を約束したのだ。


その橋は、今も修復されていない。


帳簿の余白に、小さく印をつける。

約束、未履行。


ふと、遠征の日々が蘇る。

地図を前に頭を抱えた夜。

言い争う仲間の間に立ち、言葉を選び続けた朝。

勇者の剣が届く場所に、必ず道と食糧があった理由を、誰も知らない。


いや――知ろうともしなかった。


「補給係は楽だよな」


かつて、そんな冗談を言われたことがある。

剣を振らず、血を流さず、後ろにいればいい役目。

その言葉に、俺は否定もしなかった。


楽な仕事なら、誰もやらなくなったときに、真っ先に崩れる。

それだけのことだ。


倉庫の奥で、埃を被った箱を見つける。

中には、魔族の商人と交わした契約書が入っていた。

勇者の署名の下に、小さく添えられた俺の名。


責任者:補給係。


指でなぞり、息を吐く。

戦っていない。名も残らない。

それでも、この紙切れ一枚がなければ、遠征は成り立たなかった。


英雄譚の裏側で、俺は確かに働いていた。

それを証明するのは、称賛でも勲章でもない。

積み重なった帳簿と、果たされていない約束だけだ。


そして今、そのすべてが、俺の前に残されている。



帳簿を閉じたとき、倉庫の扉が軋む音を立てて開いた。

外の光が差し込み、埃が舞い上がる。


「まだ片付けていたのか」


現れたのは、王都の文官だった。

式典用の衣装のまま、祝宴の匂いを残している。手には、封蝋の割れた書状が一通。


「解散は正式に終わった。勇者パーティは、もう存在しない」


それは確認であり、宣告でもあった。


「だから――」

文官は淡々と続ける。

「残務は、個人の責任だ。王都としては関与しない」


俺は、黙って書状を受け取った。

内容は簡潔だった。補給契約の失効、遠征時の特例措置の終了。

そして、未解決事項の一覧。


思わず、笑いそうになる。

魔族領との物資取引。辺境都市の治安維持依頼。勇者名義で結ばれた約束の数々。

どれも、英雄譚には載らない仕事ばかりだ。


「これらは……」


俺が言いかけると、文官は首を振った。


「英雄の仕事じゃない」


その一言で、すべてが切り捨てられた。


「勇者は象徴だ。象徴は、泥仕事をしない。

 世界が救われた以上、細かい混乱は自然に収束するだろう」


自然に。

その言葉が、胸の奥に引っかかる。


自然に収束しなかったから、俺たちは遠征した。

自然に任せた結果が、魔王だった。


「地方ではもう、問題が出ています」


文官は事務的に告げる。

「勇者の名を騙る連中が現れ、勝手に徴税をしている。

 魔族領との境界では、補給が止まり、小競り合いが起きている」


だが、その声に焦りはない。

英雄譚が終わった以上、物語は閉じられたと信じている顔だ。


「対処は?」


「様子見だ」

即答だった。

「勇者が動く案件ではない」


文官はそれだけ言うと、踵を返した。

祝宴に戻るのだろう。歌と酒と、完成した物語の中へ。


扉が閉まり、再び倉庫に静寂が戻る。


俺は、未解決事項の一覧を見下ろした。

一つ一つが、小さな歪みだ。

だが、積み重なれば、世界は簡単に傾く。


英雄が去った後に残るのは、平和ではない。

管理されない現実だ。


倉庫の奥で、風が鳴った。

それは、誰にも語られない問題が、静かに息をしている音のようだった。


世界は救われた。

――ただし、物語の中でだけ。



倉庫を出ると、王都の空はやけに高く見えた。

祝宴の音楽が、石畳を伝ってかすかに届いてくる。笑い声、杯の音、英雄譚の続きを求める声。


俺は歩きながら、書状を握りしめていた。

紙は薄く、内容も簡潔だ。

――関与せず。責任は個人に帰す。

世界を救った後に、切り捨てられた言葉。


門の前で足を止める。

ここを出れば、王都の外だ。

補給係としてではなく、ただの一人の人間として、生き直すこともできる。


故郷は遠くない。

畑仕事なら、剣も魔法も要らない。

帳簿も、契約書も、もう見なくていい。


一瞬、その光景が頭をよぎった。


――だが。


懐から帳簿を取り出す。

最後のページ。遠征終了の署名欄の下に、小さく書かれた一行。


「責任者:補給係」


誰かに命じられたわけじゃない。

だが、俺はそこに名を書いた。

書いた以上、終わっていない。


魔族領との契約。

放置された橋。

勇者の名を使った偽者たち。


どれも、英雄が剣を振る理由にはならない。

だが、放っておけば、次の戦争の種になる。


俺は深く息を吐き、帳簿を閉じた。

選択は、もう済んでいる。


荷袋に、地図を入れる。

契約書をまとめ、縄で縛る。

武器の代わりに、筆と印章を確かめる。


門番が、怪訝そうにこちらを見た。


「遠征か?」


問いは軽い。

勇者の一行が、また出立するのだと思ったのだろう。


俺は首を振った。


「いいや。戦いに行くわけじゃない」


少し間を置いて、言葉を選ぶ。

遠征でも、冒険でも、英雄譚でもない言葉。


「……ただの後始末だ」


門が開く。

王都の影が背後に落ち、前には未整理の世界が広がっていた。


剣は持たない。

名も掲げない。

それでも、物語は続いている。


勇者が去った後の場所で。

脇役だった俺の選択から。



王都を離れて半日。

街道は、すでに整備の手を失っていた。


石畳の継ぎ目には草が伸び、倒れた道標はそのまま放置されている。

魔王が倒れたからといって、道が自分で直るわけじゃない。

そのことを、世界はもう忘れ始めている。


俺は地図を広げ、進路を確認した。

目的地は、境界都市リュネア。

魔族領と人の国をつなぐ、かつての補給拠点だ。


その町から、最初の歪みは生まれる。


街道脇の簡易宿営地で、数人の旅人が口論しているのが見えた。

耳に入ってきた言葉に、足が止まる。


「――勇者様の名に逆らうつもりか?」


その呼び名に、胸の奥が冷える。


男たちは粗末な旗を掲げていた。

即席で描かれた紋章。

見覚えがある。勇者パーティの旗を、雑に真似たものだ。


「通行税だ。勇者様の命令でな」


旅人たちは怯え、荷を差し出しかけている。

誰も、それが嘘だと言い切れない。


俺は、ゆっくりと歩み寄った。

剣は抜かない。

声を荒げることもしない。


ただ、帳簿を開く。


「その命令書、見せてもらえるか」


男たちは一瞬、言葉に詰まった。


勇者の物語は終わった。

だが、勇者の名前は、まだ世界を動かしている。


それが歪みになる前に――

俺は、その名前を正しく片付ける。


次の仕事は、もう始まっていた。

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