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境界に届く祈り

王都の鐘が「延期」を告げた翌朝、俺は荷をまとめていた。

祝いの残り香がまだ街に漂っている。花びらが石畳の隙間に貼りつき、昨日の歓声がどこかの壁に残響として引っかかっている。


だが、境界は待ってくれない。


机の上に並んだのは、いつもの三つの紙だ。

境界からの急報。教会からの運用確認。魔導院からの監視報告。


そして、聖女の紙片。


「境界へ、祝福を“正しく”届けて」


正しく、という言葉が重い。

正しい祈りは、奇跡ではなく手順の中にある。

届けば人は落ち着く。届かなければ怒りが生まれる。怒りは、すぐに“英雄”を要求する。


監視官が扉の前に立っていた。青い徽章。無表情。

試験運用の鎖だ。


「リュネアへ向かう」

俺が言うと、監視官は頷いた。


「境界の報告では“祝福便の混乱”が再燃している」

監視官は短く告げる。

「加えて、王都文書局名義の緊急命令書が届いたらしい」


文書局。

官僚の匂いがする。


「命令書の形式は?」

俺が問うと、監視官は一瞬だけ眉を動かした。


「……教会印がない」


俺は息を吐いた。

やっぱり来た。

儀式で折れた物語は、別の舞台で立ち上がる。

境界の危機。英雄を迎えに来る危機。


「行くぞ」

俺は帳簿を閉じ、黒い印を付けた。


――第○日。試験運用継続。

――目的:祝福運用の正常化。

――想定:危機の演出。



リュネアへ向かう道は、冬の乾いた風が吹いていた。

荷馬車のきしむ音が規則正しく続く。

規則正しさは安心だ。安心は、英雄ではなく道路が作る。


途中の宿場で、兵の小隊とすれ違った。

彼らは言葉少なに荷を積み、視線だけが忙しい。


「境界が危ないのか」

俺が問うと、隊長は鼻で笑う。


「危ないっていう噂が危ない」

そう言って、彼は荷を叩いた。

「噂は腹を満たさない」


噂。

噂が先に走り、現実が追いかける。

その順番を逆にしなければならない。


日が傾くころ、境界都市リュネアの城壁が見えた。

灰色の石。高い門。門前の列。

そして、煙の匂い。


「……燃えたのか?」

監視官が呟く。


門をくぐると、まず目に入ったのは検査所の周囲に集まる人だかりだった。

怒号。泣き声。押し合い。

剣の抜き身は見えない。だが、空気が刃物だ。


「祝福が効かなかった!」

「偽物だ! 教会は嘘つきだ!」

「俺たちはまた捨てられるのか!」


祝福便の混乱。

一旦沈めた火が、また顔を出している。


俺は馬車を止め、荷袋から板状のケースを取り出した。

紙が折れないためのケース。

そして、印袋。


「ここから先は声じゃない」

俺は監視官に言った。

「形で止める」


監視官は頷き、徽章を見せる位置に立った。

権限の影が、現場に輪郭を与える。


俺は群衆の前へ出て、まず短く叫んだ。


「受領手順を適用する!」


叫びは、最小限にする。

長く叫べば物語になる。


「祝福便は本日、仮受領だ!」

俺は続けた。

「効力は再認証まで保留! 緊急度Aのみ対面祝福! 列を作れ!」


列。

人は列を作ると落ち着く。

列は暴力を遅らせる。遅らせた分だけ、手順が追いつける。


「そんなの待てるか!」

男が叫ぶ。顔が赤い。目が濡れている。

怒りの中に恐怖がある。


「待てない者から優先する」

俺は帳簿を開き、分類表を見せた。

「症状で分ける。倒れる者を先にする。倒れない者は後だ」


誰かが笑おうとしてやめた。

笑いは否定に繋がる。否定は火に油だ。


「判断は誰がする!」

別の声。


俺は指を一本立てた。


「ここにいる医療班と教会支所で共同判断だ」

監視官の徽章を指し、教会支所の司祭を呼び寄せる。

「そして記録官が残す。今日の判断は、明日の恨みにならない形で残す」


司祭は青ざめていた。

偽造の騒ぎで、彼も傷ついている。

だが、傷ついた者ほど手順に救われる。


「……分かりました」

司祭が震える声で頷いた。

「祝福は……聖女様だけのものではありません。ここで出来ることをします」


その言葉が、列の空気を少しだけ落ち着かせた。

“出来ることをする”。英雄の言葉ではなく、現場の言葉だ。


俺は帳簿に印を付ける。


――暴動寸前→列化。

――仮受領運用、開始。

――共同判断、記録開始。


火は、いったん布で覆えた。


だが、覆っただけだ。

布の下で火はまだ生きている。

次は火種を抜く。



境界の調整役――リュネアの代表代行が、詰所に俺を通した。

机の上には紙が積まれ、灰皿には吸い殻が山になっている。

寝ていない顔だ。


「助かった」

代行は開口一番そう言った。

「だが、これだけじゃ済まない。王都から命令書が来た」


紙が差し出される。

文書局名義。緊急命令。

内容は単純だ。


――祝福便の運用を停止。

――代替として、英雄再招集の準備を優先。

――物資は王都へ回送。


「……物資を王都へ?」

俺は紙を見つめた。

境界で燃えているのに、火消しの水を引き上げる命令。


代行が低い声で言う。


「この紙が来てから、倉庫番が動かなくなった。

 『上の命令だ』ってな。

 そして列が荒れた。祝福が届かないと言い出した」


物語側の手は、いつも同じだ。

現場を止め、止まった現場を口実に英雄を呼ぶ。


俺は命令書の端を指で押さえた。


「教会印がない」

監視官が隣で言う。


「魔導院符号は?」

俺が問うと、監視官は首を振る。


「形式はそれらしく見せているが、符号体系が違う」


つまり、偽造に近い。

“それっぽい”の延長。


俺は代行に命令した。


「この命令書は無効だ。倉庫番に伝えろ」

「無効だと叫べば、反発が――」

代行が言いかける。


「叫ばない」

俺は遮った。

「手順で無効にする。今から“命令受領手順”をここに追加する」


俺は白紙を取り出し、書き始めた。


――王都命令書の受領には、教会印+魔導院符号+境界代表印の三点が必要。

――いずれか欠ける場合、暫定保留。

――保留中は現場手順(仮受領・緊急度分類)を継続。

――保留解除は記録官立会いで行う。


代行の目が少しだけ開いた。


「……そんな手順、今から作って通るのか?」


「通る」

俺は言った。

「通らないなら、通らないことで人が死ぬ。

 死ねば“英雄が必要”という物語が完成する」


監視官が低く言う。


「魔導院としても、形式不備の命令書は認められない」

彼の声が、紙に背骨を与える。


代行は頷いた。


「分かった。倉庫番を呼ぶ」


倉庫番は、硬い顔で来た。

命令書を握りしめている。

紙を盾にしている顔だ。


「上の命令です」

倉庫番は言った。

「これに逆らえば――」


「逆らうな」

俺は言った。

「従うな、でもない。保留しろ」


倉庫番が眉をひそめる。


「保留?」

「手順だ」

俺は書いたばかりの受領手順を机に置く。

「教会印がない。魔導院符号が違う。境界代表印もない。

 形式不備。よって保留。

 保留中は現場手順を継続する。これが“無難”だ」


“無難”。

その言葉に、倉庫番の肩が少し落ちた。

現場の人間は勇気より無難を欲しがる。無難は生存の形だ。


「……分かりました」

倉庫番は頷いた。

「保留として扱う」


俺は帳簿に印を付けた。


――命令書、形式不備→保留。

――物資回送、停止。

――現場運用、継続。


板が一枚増えた。

だが、敵は板を燃やす方法をいくつも持っている。



夜。

検査所の外で、また小さな騒ぎが起きた。


「魔族が出た!」

そんな声が走る。


人は“魔族”という単語にすぐ火をつける。

魔王がいなくなっても、魔族は物語の燃料だ。

燃料があれば、英雄が必要になる。


俺と監視官は現場へ向かった。

兵が慌てて隊列を組み、松明が揺れる。

松明の光は、影を大きくする。影が大きくなるほど、人は怖くなる。


「どこだ!」

隊長が叫ぶ。

「目撃者は!」


目撃者は震える商人だった。

彼は指差し、言った。


「角が……! 目が赤くて……!」


俺は地面を見た。

足跡。

泥の付き方。

角の生えた魔族の足跡は、こんな形じゃない。

これは人間の靴跡だ。

しかも、同じ型が複数。集団で動いている。


「隊長」

俺は低く言う。

「追うな。囲え」


「魔族だぞ!」

隊長が反射で言う。

反射が危険だ。反射は物語に従う。


「魔族なら、追えば引きずられる」

俺は言う。

「囲えば止まる」


監視官が徽章を見せ、命じた。


「外周を閉じろ。門を押さえろ。記録官を前へ」


隊長は歯噛みして従った。

従ったのは納得したからではない。権限があるからだ。

権限は嫌われる。だが、嫌われる形があるから剣が抜かれない。


外周が閉じると、倉庫街の暗がりから影が走った。

角――見せかけの角。布で作ったもの。

赤い目――炭の粉と油で光らせている。


人間だ。


「止まれ!」

兵が叫び、影が転ぶ。

捕まえられた男は、汚れた外套の下に紙束を隠していた。


紙束。

また紙だ。


男は唾を吐き、笑った。


「境界が燃えれば、勇者が帰る」

彼は言った。

「それがみんな幸せだろ?」


幸せ。

便利な言葉。

“安心”と同じ匂い。


俺は男の紙束を奪い、開いた。

そこには、粗雑なチラシが入っていた。


――今夜、魔族襲来!

――境界崩壊!

――英雄再招集は必須!


印はない。符号もない。

だが、文字だけで人は動く。

動けば火が起きる。


監視官が男を拘束し、低く問う。


「誰の指示だ」


男は笑う。


「知らねえよ。金が出るからやっただけだ」


また“ただ金”。

末端はいつも同じだ。

だが今度は、末端が“物語の台詞”を口にした。

誰かが台本を書いている。


俺は男の懐を探り、小さな札を見つけた。

受け渡しの合図。

そして、見覚えのある符号体系。


おとりで使った偽装符号と、似ている。

似ているだけで同じではない。

真似している。

つまり、こちらの手順を見ている者がいる。


背筋が冷えた。


「……買い手は、ここまで来ている」

俺が呟くと、監視官が頷いた。


「演出は、境界で起こすのが一番効く」

監視官は言った。

「王都は遠い。境界は近い。恐怖はここで膨らむ」


俺は帳簿に印を付けた。


――魔族襲来演出、発生。

――末端拘束。

――台本の存在、濃厚。

――手順が監視されている可能性。


火種は抜いた。

だが、火を起こす手はまだ残っている。



翌朝。

検査所の列は昨日より整っていた。


仮受領が回り始め、緊急度Aの対面祝福が効き、怒りが“待てる形”になっている。

待てる形になった人間は、話ができる。

話ができれば、物語に飲まれにくい。


司祭が小さな声で言った。


「……効いた、と言ってもらえました」

彼の目に、少し光が戻っている。

「祝福便を待つしかない、と思っていた方々が……」


「待つしかない、は檻だ」

俺は言った。

「待てる形を作れば、人は檻の外で生きられる」


そこへ、伝令が駆け込んできた。


「王都から、追加の命令書です!」


嫌な予感は、いつも正しい。


紙を受け取る。

今度は、形式が整っていた。

教会印がある。魔導院符号もある。

そして、境界代表印の欄が空白。


空白。

また空白。


だが、これは昨日の“偽の空白”とは違う。

こちらは、空白を埋めさせるための空白だ。


文面はこうだ。


――境界危機対応のため、勇者殿を安全確保の上、王都へ移送する準備をせよ。

――試験運用は「一時中断」し、再招集手続きを優先する。


中断。

板を引き抜く言葉。

板が抜ければ火が上がる。火が上がれば英雄が要る。

官僚の筋書きが見える。


監視官が紙を読み、静かに言った。


「……これは、賢者の符号だ」


賢者。

魔導院が動いた。

官僚だけじゃない。

統治側が、危機を“危機管理”として握り直しに来ている。


俺は紙の端を押さえ、ゆっくり息を吐いた。

敵は一枚岩じゃない。

官僚は物語で統治したい。

賢者は理屈で統治したい。

教会は権威で統治したい。


そして現場は、腹を満たしたい。

祈りを欲しがりたい。

今日を生きたい。


「……代表印を押すな」

俺は代行に言った。

「押せば、板が抜ける」


代行が苦い顔で言う。


「押さなければ、王都と敵対する」


「敵対じゃない」

俺は言った。

「条件を付ける」


条件。

脇役の武器。

英雄に頼らないための、現実の細工。


俺は帳簿を開き、受領手順の余白に新しい一行を書き足した。


――代表印は、境界の安全評価(24時間の実測)と祝福運用の安定確認後に限り押印する。

――評価前の中断命令は、現場混乱を招くため保留。

――保留中、試験運用は継続。


代行は目を見開いた。


「……それで通るのか」


「通す」

俺は言った。

「通らないなら、境界は燃えて、英雄が呼ばれる。

 それはあなたの民のためじゃない」


代行は唇を噛み、頷いた。


「分かった。評価を取る」


評価。

数字。記録。

物語が嫌うもの。


俺は監視官に目を向けた。


「魔導院は、これをどう見る」

監視官は少しだけ沈黙し、やがて言った。


「……理屈は通っている」

そして、ほんの小さく付け足した。

「賢者は、理屈で止められることもある」


救いのようで、脅しのような言葉だ。


俺は帳簿に黒い印を押した。


――勇者移送命令、条件付き保留。

――境界評価、開始。

――試験運用、継続。


板を抜かせない。

抜かせないために、板の上で踊らせない。


そのとき、司祭が小さく言った。


「……後始末係さま」

「なんだ」


司祭は視線を落とし、囁く。


「昨夜、教会支所に“使い”が来ました」

「使い?」

「聖女様の名を語る者です。祝福便を渡せ、と」


胸の内側が冷えた。

聖女の名前は、まだ使われる。

そして境界に届く偽物の祈りは、次の暴力を呼ぶ。


俺は立ち上がった。


「その使いの特徴は」

「……青い紐を腕に巻いていました」


青い紐。

どこかで見た色。

魔導院の青ではない。

官僚の青でもない。

もっと安い青。偽装の青。


買い手の印だ。


俺は監視官を見た。


「来るぞ」

監視官が頷く。


「次は偽造じゃない。誘拐かもしれない」

監視官が低く言う。

「聖女の名を“手に入れる”ために」


祈りを正しく届ける。

それは、祈りを奪われないことでもある。


遠くで、検査所の鐘が鳴った。

不吉な鐘ではない。

ただの合図だ。

だが合図は、物語の合図にもなれる。


俺は帳簿を閉じた。


英雄を戻さないと決めた世界は、

英雄を戻させる理由を、次々に作ってくる。


だから、理由を潰す。

剣で潰すんじゃない。

形で、潰す。


「まず、偽の使いを捕まえる」

俺は言った。

「そして、聖女の名前を、もう売り物にさせない」


境界の風が、乾いた紙の匂いを運んできた。

その匂いの中に、インクの甘さが混じっている。


誰かが、次の台本を書いている。

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