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帰還の儀

大聖堂の外庭は、戦場よりも整っていた。


旗は左右対称に並び、花は同じ高さで飾られ、壇上の布は一度も皺を許されない。

人の導線まで引かれている。どこで誰が立ち止まり、どこで誰が頭を下げ、どこで拍手が起きるか――最初から決まっている。


決まっているのは、結末だ。


「勇者殿の帰還」

それを前提に、すべてが配置されていた。


合唱隊の声が空に広がり、吟遊詩人がそれに合わせて歌詞を伸ばす。

“英雄は帰る、民の願いに応えて帰る”。

旋律が美しいほど、刃になる。歓声は、ここでは暴力だ。


俺は外庭の端で立ち止まり、帳簿を開いた。

紙の上に、黒い印。


――舞台:大聖堂。

――目的:自発的帰還の演出。

――対処:式典を公的会合に変換。


隣にいる監視官が、青い徽章を指で押さえる。

彼の背後には記録官が二人。薄い板と筆、封蝋の道具を抱えている。


「本当にやるつもりか」

監視官が低い声で言った。

「この場で止めれば、王都はお前を敵に回す」


「もう回してる」

俺は短く答えた。

「問題は、剣を抜かせないことだ」


壇上奥に白い衣が見えた。

聖女だ。


護衛と儀礼が彼女の周囲を囲み、彼女の身体が“象徴”として固定されている。

顔色が悪い。笑みは型のまま、目だけが疲れている。


檻の中で、檻の役を演じさせられている。


その視線が一瞬だけこちらへ滑る。

声は届かない。だが、頼みは届く。


――無理をさせないで。

――私の名前を使わせないで。


俺は深く息を吐いて、前へ進んだ。



壇上の中央に、署名台が置かれていた。


新しい机。新しい羊皮紙。

そして、目立つ空欄。


――再招集計画書。

――勇者本人の署名欄。


第八話で見た空欄は、まだ空欄のままだ。

だからこそ、今日この場で“埋める”ために、舞台が整えられた。


官僚が一人、壇上に上がり、柔らかい声で告げる。


「皆さま。本日は、救国の英雄を迎える日です」


歓声が起きる。

歓声は民のものだ。だが、起こすタイミングは演出のものだ。


「勇者殿。どうか――民の前で、誓いを」


官僚の視線が外庭の奥へ向く。

そこに、勇者がいる。


勇者は派手な装いをしていない。

だが派手さは必要ない。

名が派手だ。


勇者が一歩踏み出した瞬間、空気が変わる。

人の呼吸が揃う。

世界が“物語のページ”をめくる音がする。


そして、勇者の背後には子どもたちがいた。

炊き出しの路地で彼を見ていた子たちが、今日ここに連れてこられている。


無邪気な顔。花束。

善意の盾。

逃げ道を塞ぐための“かわいい道具”。


官僚がさらに優しく言う。


「聖女様も、あなたを待ち望んでおられます」


壇上奥で、聖女の白が揺れた。

揺れただけで、群衆がざわめく。

そのざわめきが、聖女の身体をさらに固定する。


ここで勇者が口を開けば終わる。

「戻る」と言っても、「戻らない」と言っても、どちらでも物語になる。


俺は、前へ出た。



「その手続きは成立しません」


一瞬、合唱が途切れたように聞こえた。

実際は途切れていない。だが耳が、俺の声に世界を寄せた。


官僚が笑みを崩さず振り返る。


「あなたは……?」


「後始末係だ」

俺は名乗った。

名乗りは、肩書きでしかない。

だが肩書きは、ここでは剣に等しい。


「現在の本件は、試験運用中の危機管理規程下にあります」

俺は続ける。

「英雄再招集は凍結。意思確認は公開口頭では成立しない」


官僚の目が細くなる。

客席(群衆)に向けて笑いながら、こちらを殺す目だ。


「民は難しい言葉を望んでいません」

官僚は柔らかく言った。

「望んでいるのは、安心です」


安心。

その言葉が、また刃になる。

“安心”の名で英雄を持ち上げ、英雄を縛る。


「安心の受け皿は作っている」

俺は言った。

「だからこそ、今日ここで“演出”を成立させない」


ざわめきが起きる。

“演出”という言葉は燃えやすい。

俺は次の手へ移る。


「意思確認には教会印と魔導院符号の二重承認が必要です」

俺は文書を掲げる。

青い印と白金の印。第八話の仮署名。


「祝福便偽造が発生した以上、本人意思の取り扱いも同様に事故防止が必要です」

“偽造”はここで大声にしない。

“事故防止”に包む。

教会の面子を守り、群衆の怒りを刺激しない言葉。


そして、最後の楔。


「記録官を立てます」

俺は横へ合図した。


記録官が前へ出て、板を掲げる。筆を構える。

封蝋道具が見えるだけで、空気が変わる。

歌は切り取れるが、議事録は切り取りにくい。


監視官が一歩前へ出た。


「魔導院監視官より宣言する」

乾いた声が外庭に響く。

「試験運用期間中、英雄再招集の手続きを凍結する。

 本日の場は式典ではなく、公的会合として扱う」


官僚の笑みが一瞬、固まった。

式典から会合へ。

舞台の性質が変わる。

物語のページが、手続きのページへ差し替えられる。


群衆がざわめく。

不満の匂い。

俺はその匂いを嗅ぎながら、次の火種を見ていた。


官僚は、最後のカードを切る。



「聖女様」

官僚は壇上奥へ向き直り、慈愛の声で言った。

「あなたからお言葉を。勇者殿が戻るべき理由を」


その言葉は“お願い”の形をしていた。

だが本質は命令だ。


護衛が聖女の肩に手を添え、彼女を一歩前に出す。

白い衣が、光の中に引きずり出される。


聖女の唇が動く。

型の微笑が、声になる直前――


聖女の身体が揺らいだ。


ほんの小さな揺れ。

だが壇上の揺れは、民の心を揺らす。


「聖女様!」

誰かが叫ぶ。

叫びは心配の形をしている。

だが心配は、さらに彼女を壇上に縛る。


聖女は倒れないように踏ん張ろうとする。

踏ん張るほど、檻は“役割”を続けさせる。


俺は一歩踏み出した。


救出しない。

引き剥がす。

檻を壊すのではなく、檻の鍵を止める。


「進行を停止します」


俺の声は大きくない。

だが“手続き”の言葉は、舞台を止める力がある。


「安全上の理由です」

俺は続けた。

「聖女の祝福運用は配分表に基づくべきで、過剰運用は規程違反。

 本件は“祈りの儀式”ではなく“会合”です。

 健康状態を理由に、聖女を壇上から下げます」


大司教が眉をひそめた。

怒りではない。

面子と現実の間で揺れる顔だ。


官僚が食い下がる。


「民の前で――」


「民の前だから止める」

俺は言った。

「倒れた聖女を利用して英雄を連れ戻せば、それは信仰を壊す。

 信仰が壊れれば、明日から列が暴力になる」


賢者の理屈を、群衆の前に落とす。

理屈は冷たいが、冷たさは火を消す。


監視官が補強する。


「医療班を」

監視官が命じ、準備していた者が動く。

準備されていた。

つまり、倒れる可能性まで舞台に組み込まれていた。

その事実が、俺の背中を冷たくした。


聖女は護衛に支えられ、壇上奥へ下げられる。

彼女の目が一瞬だけこちらを見て、ほんの僅かに頷いた気がした。


言葉は要らない。

“利用されない形”が、今この瞬間、成立した。


だが、次は勇者だ。


官僚は焦り、矛先を戻す。


「ならば勇者殿!」

官僚は声を張る。

「あなたの口から、民へ――!」


歓声が起きる前の、あの一瞬。

空気が息を吸う。

ここで勇者が何か言えば、歌になる。


俺は、勇者の方へ目を向けた。


勇者は俺を見た。

助けを求める目ではない。

“言わない”決意を保つための、確認だ。


俺は懐から封筒を出した。


非公開宣誓書。


第八話で設計した、英雄の意思を物語にしないための箱。

公開の場で拒絶を叫ぶのではなく、拒絶を“記録として封印”する。


俺は勇者に近づき、低く言った。


「短く。拒絶じゃなく委任で」

「……分かった」


勇者はゆっくり壇上の手前まで進み、群衆を見た。

群衆の眼差しは期待だ。

期待は優しさに見えるが、優しさは責任を奪う。


勇者は深く息を吸い、言った。


「俺が戻るより先に――」

声は大きくない。

だが、言葉が少ないほど、切り取りにくい。


「戻らなくて済む形を、試してくれ」


ざわめきが走る。

怒号になりそうなざわめき。

だが“戻らない”と言っていない。

“民を見捨てる”と言っていない。

“試す”と言った。

それは拒絶ではなく、委任だ。

物語が作りにくい。


官僚が口を開きかける。

だがそこで、俺が封筒を掲げる。


「意思はここに封印します」

俺は言う。

「勇者本人は本日、公開の誓いを行わない。

 代わりに、非公開宣誓書として魔導院に保管。

 教会印と魔導院符号で封印し、改竄を防ぐ」


監視官が頷き、記録官が封蝋の準備をする。

大司教が一瞬迷い、そして――頷いた。


面子を守れる形だからだ。

“公開で敗けた”ではなく、“安全のための封印”になる。


封蝋が押され、青と白金が重なる。

紙が紙でなくなる。

意思が歌ではなく、記録になる。


官僚は笑みを保ったまま、目の奥を冷たくした。

物語側が一度引く顔だ。



儀式は中断された。

合唱は終わり、吟遊詩人は歌う場所を失う。

だが歌は消えない。人の口がある限り、どこかで続く。


群衆は完全には納得していない。

「なぜ今じゃない」

「勇者は戻るべきだ」

ざわめきは不満の形をして、外庭の端で渦を巻く。


俺はその渦の中で、勝利の匂いを嗅がないようにした。

勝ったと思った瞬間、足元が燃える。


壇上の裏手へ回ると、聖女は椅子に座らされ、医療班が脈を取っていた。

大司教が近くに立ち、護衛が通路を塞ぐ。

檻の形は変わらない。

ただ、今日は檻が“台詞装置”として使われなかった。


それだけでも、板は厚くなる。


聖女の侍女がすれ違いざま、紙片を俺の手に滑らせた。

短い。短いほど刃だ。


「止めてくれて、ありがとう」

「でも、私の名前はまだ使われる」

「境界へ、祝福を“正しく”届けて」


俺は紙片を握りしめ、頷く。

言葉を返せない代わりに、帳簿に印を付ける。


――帰還の儀、中断。

――意思、封印。

――群衆、不満残留。

――次:境界の祝福運用。


背後で官僚の足音が止まった。


「見事です、後始末係」


振り返ると、官僚が微笑んでいた。

微笑みの型。

教会の型と似ているが、こちらは政治の型だ。


「あなたは英雄を戻さない制度を作りたい」

官僚は囁く。

「だが民は、制度では眠れない」


「眠れる形を作るのが制度だ」

俺は答えた。


官僚は肩をすくめる。


「なら、次は“眠れない夜”を用意しましょう」

官僚は微笑んだまま言った。

「境界の危機です。

 危機があれば、英雄が必要になる。自然な流れです」


自然。

自然ほど人工的な言葉はない。


官僚は去り際に、さらに小さく言った。


「祝福便の件、よく処理しましたね。

 ……ですが“買い手”は逃げていますよ」


その一言で、背中が冷える。

知っている。

つまり官僚は、その影の位置を把握しているか、影と繋がっている。


俺が言葉を返す前に、官僚は人の波に消えた。

舞台の裏側で、次の舞台の幕が上がり始める。



外庭を出ると、夕暮れの風が冷たい。

石畳の上に、花びらが散っている。

美しい。だから滑る。


勇者が俺の隣に来た。

剣を持たない手が、少し震えている。


「……助かった」

勇者は小さく言った。

「言えば、終わってた」


「言わない形を作っただけだ」

俺は答える。

「今日言わなかった。明日も言わせないために、板を増やす」


勇者は短く笑った。

笑いは軽いが、目は重い。


「……民の顔が、怖かったよ」


「歓声は優しい顔をしてる」

俺は言った。

「だから暴力になる」


監視官が近づき、封印された宣誓書の保管先を告げた。

魔導院の保管庫。

鍵は二つ。魔導院と教会。

二重承認の形が、ここにも刺さる。


「次は境界だ」

監視官が言った。

「官僚が動くなら、危機は演出される。

 演出でなくても、火種はある」


俺は頷いた。

聖女の紙片が、胸の内側で熱い。


境界へ、祝福を正しく届ける。

それは物資と同じ。

正しく届かない祈りは、怒りになる。


帳簿を閉じ、俺は空を見上げた。

大聖堂の鐘が鳴る。

今日は“帰還”を告げるはずだった鐘が、“延期”を告げている。


英雄を戻さなかった。

だから今度は――危機の方が英雄を迎えに来る。


俺は黒い印を押し、歩き出した。

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