英雄を奪う者たち
噂は、風ではない。
風は通り過ぎる。噂は、居座る。
王都の外れ――炊き出しの路地に、昨日までいなかった目が増えていた。
視線は短く、露骨ではない。
だが、一定の距離で鍋を見つめ、子どもたちの声に耳を澄まし、男の背丈を測っている。
英雄を探す目だ。
「おじさん、今日もいる?」
子どもが勇者に話しかける。
勇者は木の匙を握ったまま笑った。
「いるよ。鍋は逃げない」
その言葉が、妙に刺さる。
逃げない鍋。逃げる英雄。
この世界の歪みが、笑い話に偽装されている。
俺の横には、魔導院の監視官が立っていた。
常駐。報告義務。
影のように付く男は、影のように現実を見ている。
「……増えたな」
監視官が小声で言う。
「官僚が動いた」
俺は答えた。
「“自発的帰還”の物語を作る準備だ」
監視官は眉を動かさない。
動かさない代わりに、指先が外套の内側を押さえた。
書類がある。命令がある。
そこへ、歌が来た。
吟遊詩人が路地の入口に立ち、声を張り上げる。
「――英雄は帰る、民の願いに応えて帰る!」
子どもたちがきゃっきゃと笑う。
笑いは無邪気だ。
だが無邪気ほど、動員に使いやすい。
勇者の肩が、ほんのわずかに固くなる。
剣ではなく、歓声で動けなくなる瞬間だ。
俺は息を吐き、帳簿を開いた。
今日はここが戦場になる。
剣ではなく、形で。
路地の入口が、賑やかに揺れた。
花束。旗。青い帯。
兵ではない。
“使節団”だ。
官僚が先頭にいた。
清潔な衣。磨かれた靴。声は柔らかい。
柔らかい声ほど、現実を押し倒す。
「勇者殿!」
呼びかけが路地に響き、空気が一段冷える。
勇者という名は、呼ばれた瞬間に本人を奪う。
使節団の後ろには市井の人々が続く。
商人。信者。兵。
そして、いつの間にか増えた見知らぬ“見物”たち。
官僚は笑みを浮かべ、花を差し出した。
「民が、あなたを待っております」
「王都が、あなたを必要としております」
「どうか――自発的にお戻りください」
“自発的に”。
その言葉が、物語の核心だ。
自発的に戻れば、計画書の空欄は埋まる。
意思の不在は消える。
物語が完成する。
勇者は一歩退いた。
退こうとして、足を止める。
子どもたちがいる。
鍋の前にいる。
ここで逃げれば、子どもごと物語に飲まれる。
「勇者は逃げた」でも「勇者は民を捨てた」でも、どちらでもいい。
“逃げた”という一行が出来上がれば、それで終わりだ。
勇者の視線が、俺に向く。
助けを求める視線ではない。
「ここでどうする」――現実の問いだ。
俺は前に出た。
剣はない。
だが、形はある。
「その面会は成立しません」
路地が一瞬静まる。
官僚が首を傾げる。
「あなたは……?」
「後始末係だ」
俺は名乗った。
名はない。だが役割はある。
「そして、現在“試験運用中”の危機管理規程の起案者です」
監視官が、ほんの僅かに息を吸う。
言っていい範囲か。
その判断が、彼の中で走る。
官僚は笑みを崩さない。
「試験運用? 難しい言葉ですね。
民は、難しい言葉を望んでいません。望んでいるのは安心です」
安心。
その一語が、ここでの武器だ。
英雄を呼び戻す最短の理由。
「安心の受け皿は作っている」
俺は淡々と言った。
「だからこそ、ここで“演出”を成立させない」
官僚の目が細くなる。
「演出とは心外です。
我々は民の声を――」
「民の声は今、歌で増幅されている」
俺は路地の入口の吟遊詩人を指した。
「声は本物でも、増幅は操作です」
ざわめきが起きる。
俺はそこで言葉を切った。
これ以上は反発が強くなる。
反発は暴力になる。賢者の理屈だ。
だから次は、“形式”で縛る。
俺は帳簿から一枚の紙を抜き、官僚の前に示した。
成立した仮署名文書。
魔導院印(青)と教会印(白金)。
そして、都市側代表の空欄。
「英雄再招集は、試験運用期間中凍結です」
俺は文書の条項を指でなぞる。
「再招集を成立させるには、本人意思の確認が必要。
そして意思確認には、魔導院符号と教会印の二重承認が必要」
官僚が一瞬、笑みを止めた。
「そんなものは、ここで――」
「ここで成立しない」
俺は先回りして言う。
「だから、あなた方の“自発的帰還”は今日成立しない」
官僚は周囲の視線を感じたのだろう。
笑みを作り直し、声をやわらげる。
「ならば、正式な場で」
官僚は言った。
「大聖堂の外庭で、民の前で。
聖女様にも立ち会っていただく。
それなら、教会印も――」
その瞬間、胃の底が冷える。
聖女の名前を使う。
紙片にあった警告が、現実になった。
「彼らは私の名前も使う」
まだ届いていないはずの言葉が、胸の内側で鳴る。
監視官が一歩前に出た。
初めて、影が形になる。
「その提案は、現在の試験運用の趣旨に反します」
監視官の声は乾いている。
だが公的だ。
俺が言うより効く。
監視官が口にした瞬間、ここは“制度の場”に半分変わった。
官僚が監視官に視線を向ける。
「魔導院が、民の願いを阻むと?」
監視官は表情を変えない。
「阻んでいるのではない。
事故を防いでいる」
事故。
いい言葉だ。
物語を否定せず、現実を優先できる。
俺はその隙に、次の手順を出す。
「面会場所を移します」
俺は言った。
「路地ではなく、公的施設で。
記録官を立て、議事録を残す。
歌ではなく、記録で決める」
官僚が舌打ちしかけて、飲み込む。
舌打ちは民の前でできない。
「……いいでしょう」
官僚は柔らかく言う。
「では本日、魔導院で。
勇者殿が“自発的に戻る”と――」
「言葉は危険だ」
俺は遮る。
「口頭の『戻る/戻らない』は物語化される。
意思は非公開宣誓書に誘導する。
公開は禁止。
勇者を守るためでもあり、民を守るためでもある」
勇者が息を吐いた。
彼の目が、ほんの少しだけ軽くなる。
逃げるためではなく、逃げずに済む形が見えたからだ。
官僚は笑みを保ったまま頷いた。
「――賢明な提案です」
賢明。
その言葉ほど信用できないものはない。
賢明と言う者は、次の舞台を用意している。
使節団は引いた。
だが引き方が、勝利の引き方ではない。
官僚は去り際に、こちらへ微笑んで言った。
「では次は“大聖堂”で」
舞台が大きくなる。
物語が勝つための舞台に。
路地が静かになると、子どもが勇者の袖を引いた。
「おじさん、どっか行くの?」
勇者はしゃがみ、子どもの目線に合わせて言った。
「行かないよ。ここにいる」
そして、少しだけ言葉を探して続ける。
「……ここで、働く」
その言い方が、勇者の覚悟だった。
剣ではなく匙を持つ覚悟。
だが、覚悟は物語の前では脆い。
俺は監視官と視線を交わした。
監視官は短く頷く。
“今日の場”は制度が勝った。
だが明日の場は、まだ分からない。
そのとき、境界からまた紙が来た。
伝令が息を切らし、机に叩きつける。
――試験運用の穴を突かれた形跡。
――祝福便の偽造を試みた者がいる。
――偽勇者残党の動き、濃厚。
第八話で組んだ二重認証。
それが早速、試される。
俺は紙を握りしめる。
制度は、作った瞬間から攻撃される。
攻撃されるほど価値があるのだと、誰かが言っていた気がする。
たぶん賢者だ。
胸の内側で、聖女の紙片がまた熱を持つ。
そして、今度は新しい紙片が届いた。
侍女の手から、すれ違いざまに。
短い。刺さる。
「彼らは私の名前も使う」
俺は目を閉じた。
官僚の言葉と一致する。
大聖堂で、聖女立会い。
物語の完成形。
英雄を守るには、英雄を隠すのではなく、
英雄を奪えない形にするしかない。
俺は帳簿を開き、黒い印を付けた。
――自発的帰還演出、始動。
――次の舞台:大聖堂。
――祝福便偽造の兆候。
――境界、再燃。
勇者は鍋の前に戻り、木の匙を握った。
その背中は、剣を持つ背中より頼りない。
だからこそ、守らなければならない。
物語は英雄を欲しがる。
現実は英雄を壊す。
俺は路地を出た。
次は魔導院へ行き、宣誓書の枠を作る。
次は教会へ行き、聖女の名前を勝手に使えない形を作る。
次は境界へ、偽造の穴を塞ぐ手順を流す。
紙は紙だ。
だが紙がなければ、剣が出る。
英雄を奪う者たちは、剣を持たない。
花と歌と善意で、英雄を連れ戻す。
だからこそ――
こちらも剣を抜かずに勝たなければならない。
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