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第二章 狭間の刻

 穂稀たちの婚約の報せは明朝、深山邸を駆けめぐった。

 侍従長が少女らを花笑苑の広間に集め正式に告げた瞬間、花笑苑は一気に華やいだ。

 白い皿に盛られた砂糖菓子が配られ、幼い子らが歓声を上げる。


「ねえ聞いて」

 琴葉が頬を紅に染める。

「毎朝、彼にお茶を淹れる約束をしたの」

三人は集まって砂糖菓子を摘んでいる。

「私は——何があっても夫と国に尽くすわ」

詩野は後輩たちに胸をはった。

「それが、私の誇りだから」


 螺鈿細工の皿の光をを見つめながら、穂稀は桜形の落雁をそっと指にとった。

 口に運ぼうとして、ふと力が抜ける。落雁は淡い音を立てて膳の上に転がった。昨日、桜花殿で散った花片の光景が蘇る。自分も浮き足立っているのだと気づいた。



 数日後、緋乃宮より届いた婚礼道具の数々が穂稀の私室に運び込まれた。

 衣桁に掛けられた打掛は緋乃宮の色である赤銅色に金糸、白無垢は白地に桜紋様が白糸で浮かび上がるように刺繍されていた。

 螺鈿の櫛や簪、漆塗りの化粧箱。

 並べられた品々は一目で最高級品とわかると共に、この婚礼が対外的に誇示しなければいけないものであることを語っていた。


「……まだ、実感がないわ」

 穂稀は雪花にこぼす。

「…おひいさま、習うより慣れろ、といいますから」

雪花は変わらぬ声で答える。

「否が応でも人は環境に流れゆくものですよ」



 とある夕刻。縁側に穂稀達は揃って腰を下ろし、夏の香り含んだ風を楽しんでいた。


「……幸せになれるよね」

いつになく感情的に琴葉が問う。

「…私たちの務めを果たすだけですわ」

詩野は澄んだ声で言い切った。

「彼のこと、まだよく知らないけど……物語の王子さまみたいにおもうの」

琴葉は笑う。少し不安げな琴葉を気遣ってか、詩野も珍しく続けた。

「…私の婚約者殿は、少し頼りない気もするけど、優しくて賢そうだから、私が才能を開花させてあげたいの」


穂稀は二人が可愛らしく思って笑った。

「…素敵な縁組になってよかった」


 二人の視線が穂稀に集まる。

「あなたの婚約者なんか、この国いちばんの大財閥の御曹司じゃない!」

琴葉がからかい、詩野もくすくす笑う。

 穂稀は少し照れて口元を押さえ、でも小さく笑った。


「私たち、ずっと一緒にいたのに、これから離れ離れになるのね」

琴葉の目に涙が潤む。

「そうね…あまり会えなくなるわね」

詩野も目を伏せる。

「……幸せになれるといいね」

穂稀は二人の手を握った。

 胸を締めつける切なさが残った。



 雪花と穂稀が連れ立って廊下を歩く。庭で灯篭の灯が揺れた。

「よく知らない相手を愛せるのかしら」

「相手とあなた次第です」

励ますように言う。

「言葉を交わし、歩み寄ること。愛は、育むものです」

「……育む?」

「ええ。おひいさまは朝顔ですら枯らしそうになりますから、しっかり励んで下さいまし」


 穂稀は幼い頃の鍛錬に没頭していたため水をあげるのを忘れていて朝顔を枯らしかけた思い出に、思わず笑った。

 雪花の言葉が胸の奥が少し腫れる。雪花が緋乃宮についてきてくれることが、心強かった。



 晴れた大安吉日。

 緋乃宮が懇意にする料亭の座敷にて、顔合わせが行われた。

 明嗣の父であり現当主の雅臣(まさおみ)、隣に後妻の菖蒲(あやめ)、次男の永二(えいじ)と妹の椿と菫も控えていた。


「明嗣の目を戻したと聞いた。神命花はやはり素晴らしいな。…異国語も得意と聞くが…」

 雅臣の声は低く重い。褒め言葉の先は晩花としての値踏みと女性への軽い侮蔑が込められているように感じられた。


 次男の永二がそれに倣うかのように鼻先で笑った。

「あんなに神民の力を借りなくともって言ってた兄さんも結局は神民を選んだんだね」


 空気がひんやりと張りつめた。


 雅臣の言葉で明嗣の眉間に皺を寄せていた明嗣が押し殺しきれない強い怒りを込めた声色で言った。

「永二、それ以上は言うのであれば…」


 菖蒲が慌てて永二を制し、明嗣の袖に手をかけた。


「まあまあ、祝いの場ですからね、どうか……」声は震えていた。


 椿が溜息をつき、横目で永二を見る。その目線は鋭く弟を責めていた。

 菫は不安げに穂稀を見やり、小さく申し訳なさそうに頭を下げた。


 穂稀は微笑んで受け流す。想定内であるから。だが、明嗣は勢いよく立ち上がる。

「失礼する。少し風に当たる」


 明嗣に袖を引かれ、穂稀も席を立った。



庭の逢瀬


 灯籠の影の庭の隅。葉桜の下で明嗣は深く息を吐いた。


「さっきは我が家の人間が本当にすまない。あんな言葉を貴方に聞かせるつもりじゃなかった」

「…神命花を使い切った神民に対してはまだ優しい方かなと」

 明嗣は黙って眉根を寄せ、頭を振った。


 しばし沈黙が落ちた。


「結婚は不安じゃないか?」

「いいえ、それは…。ただ不安なのは——“妻”という名の檻に囚われること」

穂稀はまっすぐに言う。


「…ふむ。それなら、共犯者になろう」

明嗣の声は低く熱い。


「囚われるのでなく、この家を余すことなく利用して共に世の中を変えよう」

無邪気に笑う顔が少年のようで、穂稀もつられて笑う。

 ひとしきり笑うと、明嗣は真剣な顔で低く響く声で言った。


「…君には、神民でなくとも素晴らしい才能がある。夫として君の自由は私が必ず守る」


 その言葉と共に穂稀は強くかき抱かれる。思ったよりもずっと大きな体に包まれ、腕の中は暖かく、男性らしくとても力強く感じた。


 穂稀は驚き、息を一瞬止めた。だが胸の奥に不思議な安心が満ちていき、深呼吸をした。

 明嗣の背に穂稀の細く白い腕が回された。


「……貴方の言葉、信じたいわ。この世界を変えられるという言葉を…」

「私は、君も、この国も、愛している。必ず実現しよう」


 二人の影は闇に紛れるまでいつまでも重なっていた。



 深山邸の奥深く、静まり返った花笑苑で今日も灯りがひとつ揺れている。

 机に広げた書を閉じて、穂稀は窓の外を見た。深い森は闇に沈み、風が強い。


 母の声が遠くから聞こえた気がした。

——苦しいときほど、自分の力を、人のため、世のために。


 硝子窓に映った己の瞳を見つめる。

「……私は、私が、彼を選んだの」


 その響きは小さくとも、胸の奥で確かな炎となった。

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