未来商人ドクトル・サジタリウス
彼がその男と出会ったのは、職場からの帰り道だった。
通い慣れた商店街の外れにある薄暗い路地。その奥に、古びた屋台がぽつんと佇んでいた。
妙に目を引くその屋台には、手書きの看板が掲げられている。
「サジタリウス未来商会」
彼はその奇妙な名前に引き寄せられるように足を向けた。
屋台の奥には、痩せた初老の男が座っていた。白髪混じりの髪に長い顎ひげをたくわえたその姿は、どこか職業的な風格を漂わせている。
男は鋭い目でこちらを見上げると、不意に口を開いた。
「ようこそ、サジタリウス未来商会へ。ここでは、未来そのものをお売りしております」
「未来を……売る?」
彼は戸惑いながら屋台を見回した。古びた木箱の上に置かれているのは、黒い金属製の機械だった。
それは一見、普通の自動販売機のように見えるが、商品の写真もボタンもなく、ただ硬貨の投入口と黒いボタンが一つだけついているだけだ。
「試してみますか?」
男――自称「ドクトル・サジタリウス」は、親指で機械を示しながら、にやりと笑った。
興味に駆られた彼は、ポケットから100円玉を取り出し、試しに機械へ入れてみた。
「ガコン」という音がして、機械の下部から小さな紙片が出てきた。
「なんだこれ?」
拾い上げると、そこには簡潔な言葉が書かれていた。
「明日、会議が中止になる」
「こんなものが未来を売るだって?ただの占いじゃないか」
そう言い残してその場を立ち去ろうとすると、サジタリウスが軽く手を振りながら言った。
「まあ、明日になれば分かりますよ」
彼は半信半疑のまま帰路についた。
翌日、彼は会社で耳を疑う話を聞いた。
「明日の会議、中止になったってさ。社長が急に体調を崩したらしい」
確かに機械の紙に書かれていた通りだった。偶然だろう、と自分に言い聞かせたが、胸のざわめきは消えなかった。
その日の帰り道、彼は再びあの屋台を訪れた。
サジタリウスは変わらぬ笑顔で彼を迎えた。
「どうです、未来の味は?」
「もう一度試してみます」
今度は500円玉を投入してみた。再び紙が出てくる。
「あなたの家に忘れ物がある」
「また適当なことを……」
だがその日の夜、靴棚の上で見つけたのは、数日前から失くしていた鍵束だった。
「これは……偶然じゃない」
それからというもの、彼は毎日のようにサジタリウスの屋台を訪れた。
1000円札、5000円札と額を上げるたび、出てくる未来の「予言」は具体的かつ驚くべき内容になった。
「宝くじを買うなら10番を選べ」
「右側のレーンで走れば事故を回避できる」
「午後3時、駅前で人生が変わる出会いがある」
ドクトル・サジタリウスは彼の依存に何も言わなかった。ただ、静かに機械を見守りながら、時折小さく微笑むだけだった。
気がつけば、彼の生活はこの機械に完全に支配されていた。重要な決断はすべて「未来を売る機械」に委ね、自分で考えることをしなくなった。
ある日、彼は思い切って10万円を投入してみた。
これまで機械がもたらしてくれた「正しい未来」を考えれば、それだけの価値はあると信じていた。
しかし、その日出てきた紙には、こう書かれていた。
「これが最後の取引です」
「最後?」
彼は動揺した。再び硬貨を入れてみたが、すべて吐き出されてしまう。
ボタンを押しても、機械はまるで壊れたように沈黙した。
「どうしてだよ!まだ未来を買わせてくれ!」
彼が必死に叫んでも、サジタリウスは静かに目を閉じ、言った。
「すべての未来には限界があります。あなたはもう十分に未来を手に入れた。あとは、ご自身でどうぞ」
彼はそれ以上何も言わず、屋台を片付け始めた。
その日以降、彼の生活は大きく変わった。
機械なしでは何も決められない。どの選択も間違えるような気がして、不安でたまらなかった。
「どうしてあの機械は僕を見捨てたんだ……」
悩み続けた末、彼は再びあの屋台を探し回った。
だが、どれだけ歩き回っても、屋台もサジタリウスも見つからない。
仕方なく機械なしで過ごし始めると、最初は失敗ばかりだったが、次第に自分で考えることを覚えていった。
その過程で気づいたのは、「未来を予言する機械」がなくても、自分なりの未来を作る力があるということだった。
数年後、街角で再びドクトル・サジタリウスに出会った。
「久しぶりですね」
彼は以前と変わらぬ穏やかな表情で微笑んでいる。
「どうでしたか?未来商会の商品は」
「……おかげで、自分の未来を考える力を取り戻せましたよ」
そう答えると、サジタリウスは満足そうに頷いた。
「それは何より。機械はただの道具です。あなたの人生を決めるのは、あなた自身ですからね」
それだけ言うと、サジタリウスはまた別の路地へと姿を消した。
そして、彼は二度とサジタリウスにも機械にも会うことはなかった。
【完】