硝煙に茉莉花の香りを添えて
《1》
人々は、その少女の正体を知らない。
「おはようございま〜す」
見た目だけ言えば、彼女は特に目立ったところのない、かといって平凡すぎるわけでもない、ちょうどよく印象に残らない女子高生。
彼女はよく手入れの行き届いた、肩まで伸ばした黒い髪を風に靡かせて歩く。ブレザーとスラックスを身につけた出立ちで登校するその姿は、見る人によっては美しいと思うかもしれない。
だが、宝石に匹敵する輝きを放つ生徒が通うこの場所で、原石たる彼女は、確実に「印象に残る」部類の人種になるだろう。
——《私立星数学園》。
全国的にも有名な、社長令嬢や学力トップのエリートが通う一流の名門校。ここから未来の国を背負う人材が排出されていると、世間の常識として認知されている。
それ故にここに通う生徒たちは、尋常ならざる期待とプレッシャーを背負いながら日々を過ごしていた。
「ふわぁ……」
しかしながら例外的にこの少女だけは、どこにでもいる学生の面を下げて、この学園の中を闊歩している。
その気品あるデザインの制服からして、彼女がこの学園の生徒であることは確実である。
しかし彼女には学園の品格に見合うオーラを感じられない。ふんわりと、ゆったりとした、ゆる〜い存在感は、そのまま一般の学校にも溶け込めるものだろう。
これはある意味、異常な事態である。
「おはよ〜」
「……おはようございます、茉莉花さん」
彼女とすれ違った生徒は、どことなく腹に一物ありげに彼女の名前を呼んだ。「茉莉花仄香」、それがこの「平凡な」少女の名前である。
《2》
彼女という生徒の存在については、学園内でも色々な噂が立っている。というのも、彼女の趣味嗜好や得意なことを知る者はおらず、挙げ句の果てには通っていた中学や生家についても全く知られていない。
これだけのエリート校に通っている以上、何かしらの素晴らしい功績があるのかと思って「茉莉花」の姓を検索エンジンに突っ込んでも、それはしらを切る。名さえもろくなヒントにはならないのだ。
ある生徒は彼女について、「存在がある『だけ』の生徒」という呼び方をした。経緯はともかく、そこに彼女は「いる」。それは認めようのない事実である。
かくして、彼女の存在は確実なものとされながらも、まるで都市伝説のような扱いを受けていたのであった。
だが、彼女と直接話したことのある人間が、悪い印象を抱いたという話も全く聞かない。むしろどこか引き込まれるような、印象的な世界観を持っている。
そんな彼女に魅了されたうちの一人が、この少年。
「いつも話しかけてくれてありがとうね〜」
「いやいや、僕が茉莉花さんと話したいって心の底から思ってるだけだから」
尾山七光。とある政治家の家系に生まれ落ち、学力もこの学園の上位に食い込む実力を持つ、名実ともにエリートと言って差し支えない人物である。
しかしながらその境地に至るまでの努力は凄まじいものだったらしく、精神的な疲れを隠しきれていない様子がよく目撃されていた。
そんな彼の日常の中で、このどことなく緩い感じの雰囲気を持つ少女の存在は、数少ないオアシスとなっているようだった。
そんなわけで、今日の昼休憩でも二人は一台の机を挟んで座り、他愛のない話を始めようとしていた。
「で、今日はどうしたの〜?」
「……実は、この前のテストであんまりいい点が取れなくってさ。父さんに本気で怒られちゃったんだ。『お前は俺という偉大な人間の血を引いている以上、妥協は許さない』って言われちゃって……」
「大変だったね〜」
「うん。もっと頑張るべきだっていうのは分かってるんだ。ただ……父さんは僕に優秀になって欲しいって純粋に思ってるんじゃなくて、単に自分の面子を汚したくないだけなんだろうなって思うと……どうにも最近は、調子が出なくてさ」
「それは……仕方ないと思うなぁ」
ホノカは腰を上げて、ナナヒカリに顔を近づけて言う。近くで見てみると、彼女の「原石」たる所以、「宝石」には届かずとも確かに存在するポテンシャルを実感させられる。
「人間っていうのは基本的に承認欲求で動く生き物だからね〜。それが満たされないようじゃあ、何にも手につかないよ」
「そうか……そうだよね」
その言葉を聞いたナナヒカリは、胸が少し苦しくなった。ホノカのせいではない、彼女の言葉によって、自らの父親に対する尊敬や自身との関係性に、ヒビが入っていることを再確認させられたのだ。
「茉莉花さんの言葉って、重みがあるよね」
「え〜? そう聞こえる〜?」
「うん。……とても」
ナナヒカリは彼女から目を逸らし、考える。この少女は出自や生活などもそれなりに謎だが、それと同様に内面さえも謎に包まれている、と。
多くの同級生は、彼女の謎めいた雰囲気——一種の深淵を覗き見るような「不気味さ」を理由にして、彼女との接触を敬遠する。故に、彼女の親しみやすいながらも「奥行き」を感じさせるその本質を知らない。
見た目の年齢以上に、様々の経験をしたかのような振る舞い。それが彼女の人間として「魅力」と考えることもできるのだが——。
「茉莉花さんは、今までそういう経験なかった? そうだね……家族との関係がうまくいかないこととか」
ナナヒカリはほの暗い笑顔で、思わずそんな質問を投げかけてしまった。まるで彼女に探りを入れるかのようなことを。
——彼は茉莉花仄香に関心を持っている。しかしその関心の形は、一人の友人に対してのそれではない。
それは真偽不明の都市伝説へ向けられるような、暗く、緊張感を伴った知的好奇心、あるいは底の見えない「深淵」の奥を、無謀にも知ろうとする「怖いもの見たさ」だ。
ナナヒカリは「穏やかな日常」と「弛まぬ努力」に囲まれて、これまでの生を歩いてきた。しかし十六年の歳月は、ナナヒカリからそれらと向き合うだけの気概を削ぎ落とし続けてきた。
そんな日常に突如として——あるいは運命的に現れた、この謎が人の形を成したような少女。その穏やかな口調にさえも、ナニカが正体を隠すために、「人」を取り繕おうとしているような歪さを、彼は感じている。
(——ここまで近づければ、あとひと押しってところだろう。この際、本当にプライベートを明かしたくないだけの少女でも構わない。さあ、茉莉花さん。君の正体のヒントを話すんだ)
「……?」
しかし、ホノカは首を傾げるばかりで、一向に口を開こうとしなかった。言葉の意味は理解しているのだろうが、なぜその言葉を投げかけられたのか、理解していないというふうに。
「……茉莉花さん?」
「え? ……あ、ごめん……私が自分の話をしても、普通すぎて面白くないかなって……思っただけだよ〜」
ナナヒカリの呼びかけによって、ようやく彼女の返答——もっとも、それは「NO」とほぼ同義の言葉だったが——が返ってきた。
彼女はいつも通り笑っているように見えた。その中にはいつもと違って、拙さが混ざっていた。動揺しているとみなしても良いリアクションだろう。
「……あ、ナナヒカリくん、もう授業が始まっちゃう時間だよ〜。次移動教室じゃなかったっけ?」
「あぁ……僕はもう行かないとってことだね。今日も話に付き合ってくれてありがとう、茉莉花さん。明日は、茉莉花さんの話も聞いてみたいな」
「えぇ? ……分かった。準備しておくね」
ナナヒカリは彼女の返答を背中で受け、その場を立ち去った。彼は標的に見えないように、リーチがかかったことに対する感情を顔いっぱいに表現していた。
一方のホノカは、後味悪そうな表情で、持ってきた椅子を元の場所に戻していた。
「……ワシもそろそろ、攻めに出んとアカンか」
《3》
そして放課後。ナナヒカリは独り帰路についていた。
(——午後の授業、茉莉花さんのこと考えてばかりで全く集中できなかったな。……このままじゃ父さんに叱られちゃうから、一旦詮索はやめにしようか……)
彼は学園の敷地から、いつもバスに乗って帰っている。しかし学校を出る時間とバスの時刻が噛み合わないせいで、十分ほどバス停で暇を持て余してしまう。
(——怒られないよう、英単語でも勉強するかな)
彼がバッグに手を伸ばそうとした、その時。
——プー。
「あれ?」
一台のバスが、目の前に停まっていた。いつもならこの時間にバスが来ることはない。バス停の時刻表を見てみても、この時間に来るなんてことは書かれていない。
彼が戸惑っていると、車内から声が聞こえてきた。
「……お客さん、乗らないんですか?」
「え?」
「今日はダイヤに乱れがありましてね。お客さんに迷惑をかけてしまった分、本数を増やしてるんですよ」
「は、はぁ……」
「それで、乗らないんですか?」
「……」
ナナヒカリは怪しんだ。遅延があったなんて情報は入ってきていないし、それにこの運転手の態度も怪しい。彼がステップの前で、立ち止まっていると。
「……!?」
ナナヒカリの隣を通って、一人の少女がバスに入って行った。学園の制服、肩まで伸ばした黒髪。そしてその全身が纏う、どことなく謎めいた雰囲気。
「茉莉花さん!?」
ナナヒカリの足は、反射的にバスの中へと踏み込んでいた。プシュー、とドアが閉まる。彼は信用ならないその車内へと、足を踏み入れてしまった。
バスが動き出す。ナナヒカリは思わず転びそうになり、咄嗟に手すりに掴まった。そしてそのままの流れで、少女の姿を探す。
手すりを持ち替えながら、揺れる車内を歩く。そうしているうちに、ナナヒカリは最後尾の座席まで来ていた。
彼の探す人は、彼から見て左側の席に座っていた。
「茉莉花さん……どうしたの、いつもは帰りこっちじゃないよね?」
「……」
「茉莉花さん?」
「……はッ」
物憂げに窓の外を眺めていた少女は、笑った。
「かかったな、阿呆が」
「え——」
次の瞬間、プシュー、という異音がバス中から鳴った。ドアの駆動音ではない、何かが車内のあちこちから噴出しているのだ。
「……!? なんだこれ……!?」
ナナヒカリは咄嗟に口と鼻を覆った。だが時すでに遅し、その乳白色の気体はすでに彼の体に取り込まれており、全身に巡っていた。
意識が遠のく。視界がぼやける。急激な睡魔が、彼に牙を向く。
(——まさか……これ……毒……!?)
バタリ、と彼は床に倒れた。バスの振動が直に伝わってきて、とてもじゃないが楽とは言えない。
(やばい……か……も……)
彼の徐々に不鮮明になる意識が最後に捉えた輪郭は、有毒の薄靄の中で手すりを掴み佇む、ガスマスクを身につけた少女の姿だった。
《4》
「……茉莉花……さん……?」
程なくして、彼は目を覚ました。否、体感的には一瞬のことだったが、すっかり日は落ちて、最低でも三時間は経過しているようだった。
彼の視界に、人影はない。どこかの倉庫のような場所で、磯の香りが鼻をつく。海が近いらしい。
彼はこの状況が何を示すかを見聞きしたことがある。
(——誘拐)
彼は仮にも政治家の息子だ。
(——政治的要求を通すための、人質。それに違いない)
すぐに自分の置かれた状況を理解したナナヒカリは、立ち上がれないか試してみる。しかし彼の腕は麻縄によってきつく縛られ、更に鉄柱に結ばれている。立ち上がるどころか、動くこともままならないだろう。
とりあえず自力での脱出を諦めた彼は、自分が連れ去られるに至るまでのステップを振り返ってみる。
いつも通りバス停に着き、十分以上待って次のバスに乗ろうとしたところで、「ダイヤが乱れたお詫び」と、いつも来ないバスが現れた。最初は乗ることを躊躇ったが、その時に彼の目の前に——
「……茉莉花さん……?」
あの少女が現れ、自らをバスに誘い込んだ。そして彼女の声を合図にして、催眠効果のあるガスを浴びせられた。そのまま昏睡し、ここに至るという訳である。
このシナリオだと、茉莉花仄香が自分をここまで連れてきたということになる。しかし、これはどういうことだろうか。
彼女はナナヒカリをバスに連れ込む餌として、何かしらの犯罪組織に協力させられていたということだろうか。あるいは、彼女自身がナナヒカリを連れ去ったということだろうか。
どちらにせよ、市営のバス一台を強奪、もしくは複製できる犯罪者となると、相手の規模はかなり大きいに違いない。
(——規模は大きいに違いない。でも……)
ナナヒカリは改めて、自分の周囲を確かめた。
(——僕に対して見張りの一人も置かれてないのは、ちょっとおかしいんじゃないか?)
その答えは、程なくして分かった。
——バン! ババンバン!
「——ッ!?」
突如として鼓膜に襲いかかった衝撃音に、思わず身を強張らせる。弾けるような音。更に詳しく言うならば、黒い筒から鉛玉が火薬の力を借りて、勢いよく飛び出す音――すなわち、銃声に似ている。
(——銃を持ち出すって、僕は一体どれだけ大きな組織に……!?)
本能的な恐怖を前にして、ナナヒカリは縄が解けないことをわかっていながら身を捩る。体に縄がめり込むばかりで効果は全くない。
そしてそんなことをしている間も、銃声は鳴り続けている。そして心なしか、その音源、つまりは戦場が、徐々に自分の方へと近づいているような気がしてきた。
(——待って待って待って、待って!?)
ドゴォォォォン! と、一際大きな音と共に、ナナヒカリの十メートルほど先の壁が破られる。壁の奥から現れたのは、スーツ姿の男たち。全員が大小様々な火器を手にしており、全員が何かしらのダメージを負っている。数はざっと見積もって二十ほどだろうか。
そしてナナヒカリに背を向ける彼らの目線の先には、たった二人の男女の姿があった。
片方は、屈強な青年。二メートルはあろうかという筋骨隆々の巨躯に薄い橙色の髪、そして、現世に失望したかのような暗闇を宿した、夕陽沈みゆく空のような色の瞳が特徴的だ。彼は屈強さがより目立つタイトなスーツを着て、一本の灰色の槍を携えていた。
女性の方はその白銀の長髪を渦巻く爆風に荒ぶらせながら、エメラルドのような瞳を伏せてため息をついている。戦場には似つかわしくない、喪服のような黒いドレスを纏っている。腰回りが不自然に膨らんでいて、歪なシルエットを形作っていた。左足のホルスターには拳銃が差してあるが、使われた形跡は今のところ無い。
(——たった二人で、武装した二十人を……)
ナナヒカリが衝撃を受ける中で、一人の持つライフルが啼いた。
——バァン!
そこから戦闘は、怒涛の勢いでくり広げられた。
最初に発砲音がした直後、ダメージを受けたのは狙われた槍の男ではなく、発砲した男の方だった。
ナナヒカリが理解に苦しむ中で、一人、また一人と、発砲した順番に男は倒れていった。五人目が倒れた後、槍持ちの男がその長槍を振り回し、銃弾を弾き返していると理解した。
ナナヒカリと同じ気づきを得た男たちは、銃を懐から取り出した鍔のない刃物——いわゆる「ドス」である——に持ち替え、直接攻撃を試みた。今度は標的を、ドレスの女の方に切り替えた上で。
しかし、槍の男は三〜五メートル離れた彼女へ助けに行かなかった。否、助けるまでもなく、女が自力でなんとかできることを知っていたのだろう。
女の体は瞬きするほどの間に、空中に飛び上がっていた。ピンヒールを履いた彼女が飛び上がった、それだけでも十分おかしい。だが、それよりよっぽど、空中に飛び上がった後の行動が異常だった。
彼女はドレスの、例のこんもりと不自然に盛り上がった部分に手を突っ込むと、その中身を引き摺り出した。ナナヒカリが目を凝らして見れば——それらは全て、手榴弾だった。
女は一瞬で左足のホルスターから拳銃を抜き、自分の下に散らばった手榴弾に発砲した。直後、爆炎と爆風が男たちを薙ぎ払った。その一瞬で、軍勢の九割方は焼け焦げた。
女の身体能力、攻撃方法、その威力、どれをとっても気が遠くなるが、その中で最も異常だったのは、その一連の動作には、足音も、呼吸も、銃声も、爆発音も、全ての「音」を伴わなかったことだろう。
最後に、生き残った男たちがナナヒカリの方に走って行こうとしていたが、彼はそれをよく覚えていない。何せ、こちらを向いた直後に、爆炎を切り裂いて現れた槍先の薙ぎ払いによって、彼らのシルエットは上下に分たれてしまったのだから。
「人間業じゃ……なさすぎる……」
ナナヒカリは始まりの銃声で息を呑んでから、攻防の終わりまで、一度も呼吸をしなかったような気さえするほど、その光景に圧倒されていた。
《5》
「おい、大丈夫か少年」
先ほどの反動で過呼吸になっていたナナヒカリの元へ、激戦を演じたばかりの二人組がコンタクトを図ってきた。
「アマナ。今この子とコミュニケーションを取ろうとしたって、無理な話よ。アタシたちの過激なBattleを見た後だもの、興奮で五分は話せないと思うわ」
「アノン……お前が多少手加減をしてくれれば、こんなことにはならなかったと思うのだが?」
「仕方ないじゃない、あれがアタシのStyleなんだから。それについてなら、アタシはむしろアンタが羨ましいわ。グサってやって満足しちゃうアンタがね。アタシは少なくとも、あの腐れ外道どもの顔とか心臓と、か大事なトコとか木っ端微塵にして、コゲコゲにして原型無くさないとスッキリしないもの」
「お前の『悪』を憎む心には、ある程度寄り添いたいと私は考えている。だが、それにも限度というものがあってだな……オイ、聞いているのか」
「Hello. 人質君。もう大丈夫そう?」
「おいアノン! 今、話は無理だと言ったのはお前のほうだろう!?」
「でも、さっさとしないと援軍が来ちゃうって気付いたから。アンタどうせ、五分はやらないでしょ? アタシが『五分は無理』って言ったから。生真面目って大変ねー。そこは可哀想だと思うわ」
「お前という奴は……」
「はぁ……はぁ……あのッ!」
青年がギリギリと槍の柄を握り始めたのを見て、ナナヒカリは咄嗟に口を開いていた。どうやら人の感情に対する理性的な恐怖心が、彼の冷静さを取り戻させたらしい。
「……助けてくれて、ありがとうございました……でも、あなた方は……一体何者なんですか?」
ナナヒカリの言葉を聞いて、二人は沈黙する。何かまずいことを言ってしまったのかと狼狽始める彼を前にして男女は——
「……これは驚いた……あれを見た上で、私たちを前にしても怖気付かず、礼儀正しく振る舞えるとは……」
「カタギにしておくには勿体無いわねぇ」
感心する声を上げた。どうやら、何を前にしても品行方正を保ち続けるべしという、父親の教えが役に立ったようだった。
「君の態度、尊敬に値する。私たちのことを少し教えてあげよう。私は風解天凪、本職は警察官だが……訳あってここにいる。……ほらアノン、お前も正体を明かしてやれ」
「えー? ……仕方ないわね。私はアノン・ミューテッド。アノンでいいわ。ヨーロッパの方出身なのだけれど、こいつと同じで、色々あってここにいる。あなたを助けるために現れた、正義の味方だとでも思ってちょうだい」
「世間一般からすれば、私たちは悪側だがな」
アマナと、アノン。ナナヒカリがそれぞれの名前を確認すると、彼もまた、自分の身の上を明かした。しかし、彼らはナナヒカリのことを知っていると言う。
「どうして、僕のことを?」
「私たちは……さっきアノンが言った通り、君のことを助けに来たんだよ。どうやらあの男たちの雇い主は、君を出しにして政府に文句を言いたかったらしいのだが……そんなことは、私たちからすれば二の次だ」
アマナはそこまで言うと、ナナヒカリを拘束する縄に、先の戦いで男たちが取り落としたドスの刃を入れるアノンに目配せした。
「……アノン。あの事について、この少年に伝えても良いのだろうか……。その、ボスは良いと言っていたが、どうにも心配でな」
「何怖気付いてるのよ、この筋肉ダルマ。さっさと話しちゃいなさい。何なら、アタシが代わりに言ってあげてもいいわよ?」
「分かった……その、私たちは君の友達と知り合いでね。ほら、いるだろう。『茉莉花仄香』という名前の少女が、君の身の回りに」
「——っ!」
その名前に、思わずナナヒカリは立ち上がる。切れ込みの入った縄は案外簡単に千切れ、彼はアマナに迫る形になった。
「やっぱり、茉莉花さんが関わってるんですね!?」
「ああ、そうだ。彼女の依頼で、君を助けに来たんだ」
「茉莉花さんの、依頼で……?」
ナナヒカリは耳を疑った。それだと、自分をホノカがバスに連れ込んだというあの場面が一体何だったのかという疑問が生じてくる。
あれはホノカに見せかけた別人で、「擬似餌」だったということだろうか。確かにそれだと辻褄が合うが、気絶する直前に発された彼女の声は、発声こそいつもと違うかもしれないが、確かに本人のものだったはず。
「それ、本当なんですか……?」
「うーん、いや、この事実を話すと、君が人間不信に陥る可能性があるから、簡単に口外するのもどうかと私は思うのだが……」
「教えてください! 最悪人間不信になっても構いません! 僕は茉莉花さんの真実を知りたいんです!」
「いや……これは君の想像し得る『真実』とは、だいぶかけ離れていると思うから、下手すると卒倒してしまう可能性も……」
「卒倒する時間はもう終わりました! 今の僕ならどんな事実でも受け止められる自信があります! だから頼みます、あの子について教えてください!」
「……」
アマナは黙り込んだ。どうやらよほどのためらいがあるようだ。もう一押しするか、あるいは一旦手を引いてみるか、ナナヒカリが悩んだ、その時だった。
「テメェ……よくも俺の部下を……!」
「!?」
ナナヒカリは声のする方に目線を向けた。先ほどアマナとアノンが入ってきた方から、小汚い中年の男性が、似合わない小綺麗なスーツを着て立っているのが確認できた。
男を見るや否や、二人は戦闘体制に入る。
「あなたが、ナナヒカリ君を拘束したのですか?」
「ああ、そうだ」
「悪趣味なコトするわね。それに、ここでそういう汚いことするってことは、アタシたちの組を敵に回すって事になるんだけど、それについてはDo you understand?」
「ああ、理解してるさ。だから、ほら」
男が手招きすると、彼の部下と思しきスーツ姿の人影が、ぞろぞろと倉庫内に集まってきた。そしてそのうちの二人が、拘束した人間を担いできていた。
「アンタらのとこのボスの娘を、預かってきてやった」
「!?」
ナナヒカリは絶句した。
男たちの手中にあったのは。
「……茉莉花さんッ!?」
《6》
柔らかで人から愛される立ち振る舞いを見せながらも、その謎めいた私情故に敬遠されてきた少女、茉莉花仄香。
そんな彼女の身柄は今、日本の政治システムに楯突こうとしている、一人の男の手に渡っている。
「茉莉花さんが……この人たちのボスの……娘?」
「……」
アマナはナナヒカリから目を背けた。恐らくは、茉莉花仄香という一人の「少女」と友情を築こうとした、少年の心中を慮って。
対する小汚い男は、ギャハギャハと下品に笑いながら、ナナヒカリの言葉を肯定する。
「こいつはな、《茉莉花組》っつー暴力団の組長の娘なんだよ。ちっせぇ頃から先先代と先代の組長に色々教わってたみてぇだったが、ガキの体じゃ、護身術の一つも使いこなせねぇみたいだったなァ!」
「……は」
ナナヒカリはその事実の咀嚼に苦しむ一方で、腑に落ちる部分も多々あった。学園に通うのは、その特殊な身分に依るところが大きい。身分を明かせなかったのも、そのせいだったのだ。
「……はは」
可能であれば彼女の口から聞きたかった事実の数々が、無関係の、欲を全身から滲み出させた男から語られていく。
「……そうですか。そうでしたか」
ナナヒカリは酷く空虚な気持ちになった。あと少しで解けそうだった問題の答えを、不意に横から教えられたような気分だ。
「それで、」
そのさっぱりした気分のせいか、よく口が回った。
「あなたは僕を通じて、父に何を頼みたかったんですか? 無関係な暴力団の組員まで巻き込んで」
「ふっへへへ……そいつはまだ言えねぇなァ。事はお前の親父さんが要求に応じてから本番なのよ。要するに、この誘拐劇は前座に過ぎねぇってわけ!」
男は汚らしく笑い続けている。周りの部下は微動だにせず、小銃を構えて男が話し終わるのを待っているようだった。
「……ボス……相当苦しい思いをしているでしょうに」
「想像したくもないわ。もどかしいにも程があるでしょう、好き勝手やられておいて、手を出せないなんて」
こちらの《茉莉花組》の成員二人も、敵陣に弱点を囲まれてしまっているせいで、下手に手を出せない様子だった。
(——茉莉花さん……もう叶わないと思うけど)
ナナヒカリは思う。自分がもしこの誘拐事件に巻き込まれないような平凡な家柄に生まれていたならば、彼女の秘密に一人でたどり着けただろうか、と。
あるいは、刺激のない生活のせいで倒錯してしまった、「奇妙な人間」に対する興味ではなく、純粋に一人の人間への好意という、普遍的な感情によって、仲を深められたのだろうか、と。
(——もっと健全な形で、茉莉花さんと秘密を共有したかったな)
ナナヒカリは、目の前の光景に目を瞑った。
——ババババン!
そして、銃声が鼓膜を突いた。
「……はぁ。男気のない奴やな、ナナヒカリ。ここでテメェが拳一つでこいつらに立ち向かってくれりゃ、ワシとしても我慢した甲斐があったんやが」
「?」
ナナヒカリは親しんだ声から発せられる、聞き覚えのない口調に耳を疑った。そして目を開く。
「お? 何じゃいその間抜けな顔は。……あ、まさかまだワシの正体に気付いとらんかったんか? ……うは、うはははははは! こいつぁ想定外! なかなかいーもん見せてもらったわ! ははははは!」
声の主は、間違いなく茉莉花仄香だ。しかし目を瞑る前まで彼女は拘束されて、男たちに棺桶が如く担ぎ上げられて、微動だにしていなかったはずだ。
それが今はどうだ、拘束を自力で解き、撃ち殺した護衛の骸を椅子代わりにした上で、可愛げなどまず感じない荒々しい口調で、こちらのことを笑っている。
「茉莉花さん?」
ナナヒカリはその名前を呼んでみて、自分の声のトーンの間抜けさに驚いた。
「はぁ。心配させるような作戦はやめて欲しいものですよ、ボス。まあ、こうなることは分かってましたけど……」
「しかも……ネタバラシが雑。もっと手の込んだPerformanceだってできたはずでしょう? 相談してくれれば手伝ったんだけどねー」
「え? え?」
成員の二人は、このことをまるで前から知っていたかのように、呆れた表情を作っている。緊張感のない表情は、ナナヒカリの疑問を加速させる。
「は、はぁ!? テメェ、組長の娘だろ!? あいつを連れ去る時だってビクビク怖がって、俺らの要求に抗えなかったじゃねぇか!? さっきだってほら、ちょっと殴っただけで簡単に気絶して……」
そして挙げ句の果てには、ナナヒカリの誘拐の首謀者だったあの男も、ナナヒカリと同様にパニックを起こしているのだから、彼の頭の中はすでに滅茶苦茶であった。
ホノカはそんな誘拐犯の男の方を睨む。
「なーにワシの演技を間に受けとるんじゃ、阿保。あんな弱っちい生娘の真似なんざ、ワシだってしとぉなかったわ。表向きの身分を隠すために色々頑張っとったっちゅーところやったのに、全部このナナヒカリとかいうやつが余計な真似をしたせいで……あァッ!」
苛立ちを思い出したのか、ホノカは乱暴に腕を振るった。するとその腕からけたたましい銃声が響き、指先から伸ばした直線上の男たちが一気に倒れた。
「ワシは政治家の息子に目ぇつけられた思ってな、どうにかしてこいつを遠ざけよう思うたんじゃ。そしたら都合よく、テメェがこのガキ通じて国に文句言おうとしてるっつう情報が手に入った。うちのシマ荒らすやつ懲らしめるついでに、目障りなガキも懲らしめよう思たんじゃよ」
ホノカは立ち上がり、泥やら血やらで汚れた学園の制服姿で、誘拐犯に迫る。その気迫は年頃の少女には似合わないもので、遠巻きに見ているだけで手が震えてくる。
「て、て、てっ、テメェ! 何者なんだチクショウ!」
「何者って言われてもヨォ、その答えは兄さんがさっき口走っとったやないか。《茉莉花組》組長の娘ってなァ。あー、でもそれじゃあ説明が足りねぇか。おい、アマナ! テメェの言葉で説明してやれ」
「……はい、ボス」
「「!?」」
アマナの使った敬称に、《茉莉花組》に属さない全員が目を見開く。
「ボスは……いいえ、茉莉花仄香様は、我々《茉莉花組》の先代組長の娘であり、当代の組長です。加えて、以前より交流のあった宗教団体の協力の下、歴代組長の要素を一纏めにした、概念的な《茉莉花組》組長でもあります」
「「????」」
「要するに……純粋な人間ではないということです。ボスは《茉莉花組》という組織をまとめてきた人物の合計にして平均、あるいはその総意。全ての組長の意思を具材にして作った闇鍋。それを『茉莉花仄香』という『器』に収めたのが……今のボスです」
「うし。説明感謝するぞ、アマナ。……それじゃあ」
ホノカは頷くと、指の骨を鳴らした。
「事情は理解してもろたと思うし、こっからはワシのフラストレーションと、ストレスの発散に付き合ってもらうさかい」
「あの……全然理解できないんだけど」
「……後でお前さんには細かく話しちゃるわ、ナナヒカリ。だからその前にあいつをしばかせて」らうわ。おいテメェ。覚悟しときや?」
「ひっ……うわァァァァァァ!?」
男は悲鳴をあげた。その人の形をしたナニカ、想像を絶するナニカに、敵意を向けられているという事実に対しての、理性的、本能的、包括的な恐怖故に。
「少し離れましょう。怒ったボスは手がつけられませんから」
「え? え?」
ナナヒカリは平均的な男子高校生の体格をしているはずなのだが、アマナはそれを易々と担ぎ上げて走り出す。アノンもそれに続いて、その場を後にした。
「あまり派手にやりすぎないでよ、ボス」
「わかっとるわ、アノン。ワシもそんなガキじみた真似はせん」
「ならよかったわ。あとはよろしくお願いするわね」
「おうよ——そんじゃァかかってこい。全員ブッ殺したる」
《7》
「か、かかれ!」
誘拐犯の薄汚い男がハンドサインを送ると、どこに隠れていたのか、またワラワラと銃を持った人が現れた。
「ほぉ〜……さては、テメェもワシと『同じ』部類か。ならより遠慮はできんなぁ、全力で潰しにかからねぇと」
その言葉を合図にして、彼女の体に異変が起きる。肌から湧き上がるようにして黒鉄の機構が現れ、彼女の四肢を包み込んだのだ。
右腕はマシンガン。左腕は大口径のキャノン砲。両足の側面には小型のミサイルランチャーが発生し、足裏にも銃口が出現する。軍用兵器が如き様相に、彼女は一瞬で変化した。
「ひっ……何してる、さっさと殺れ!」
恐れを成す男の二度目の合図で、個性の無い男たちの銃口が一斉に火を吹いた。十数なんてものではない、雨霰のような弾丸が三六〇度からホノカに襲いかかった。
「遅いんじゃよ、雑魚共」
しかし、その弾道の先に彼女はいなかった。彼女は足裏の銃口から爆撃を放つと、その反動で飛び上がっていたのだ。黒鉄の巨躯を持つにも関わらず、彼女は風に巻き上げられた木の葉が如く軽やかに、雷鳴のような「ドドドドド!」という爆音を伴って空を駆ける。
それだけで、彼女を狙っていた男たちのうち数人が倒れた。ホノカを狙う弾丸が、そのまま反対側の男の眉間を撃ち抜いたのだ。
「お前さんとこの雇われ、自滅しちまったじゃねぇか。んじゃ、次はワシの番じゃな」
「くっそぅ……もっとだ、もっと銃弾を浴びせろ!」
「チッ……やっぱ話は通じなさそうじゃな」
更なる銃撃が迫り来る前に、ホノカは全身の皮膚を黒く鋼鉄化させた。撃たれても甲高い音と共に火花が散り、弾丸があらぬ方へ飛んでいくばかりで、弾丸が彼女に効いている感じは無い。
「んじゃぁ今から、ワシもお前さんの話聞いてやらねぇぞ」
彼女はそう言って、両腕の巨大な砲を、そして両足のミサイルランチャーの照準を、誘拐犯の男に向けた。周りから小突いてくる銃撃手の事など、まるで無いものかのように。
(——「核」を叩く。それが集団戦の鉄則じゃ)
男たちが一糸乱れぬ統率された動きで、またしてもホノカ目掛け突っ込んでくる。死の恐れがない、人間らしさを極限まで排斥した動きだ。
ホノカはそれに砲撃を浴びせる——ことすらなく、その鋼鉄の柱を鈍器として振り回した。ブォン! と大気をかき混ぜながら、男たちの筋肉質な体が易々と吹き飛んでいく。さながら、木枯らしに巻き上げられる枯葉のようであった。
「それじゃあ、最後は——」
キャノン砲の発射口が赤く熱される。ガトリングの砲身が回転を始める。脚部のミサイルランチャーから、フシュー、と空気が放出されていく。
「メインディッシュじゃなァァァ!」
「いやああああアアアアッ——!?」
ついに襲撃者の男は自らの武器を、飾りのない無骨なハンドガンを上着の内側から取り出すと、叫びながらも正確にホノカの眉間を狙って引き金を引いた。
迫る銃弾を、ホノカは目で追っていた。
バギン! と甲高い音が響いた。彼女は鋼鉄化した額で勢いよく頭突きを繰り出し、弾道を大きく足元へ逸らしていた。彼女へのダメージはない。
男の絶望顔を見て、ホノカは四肢に備わった武装へと命令を飛ばした。その命令はただ一つ——「一斉放火」のみ。それに応じた四肢は熱を放ち、大量の空気を発し、そして——放たれる。
「終いじゃ、馬鹿者」
砲弾、弾丸、そして爆撃。簡単な城塞程度ならいとも容易く崩せてしまうような攻撃のその全てが、たった一点、たった一人の人間に向けて放たれた。
「死ね——」
光と爆発音によって全てが遮断され、男と男の仲間の結末を見届けることは誰もできなかった。ただ確かなのは、その余波によって海沿いの倉庫が跡形なく消し飛ばされたこと、そしてその爆破の中から、勝ち誇るようにホノカが歩いて出てきたことだけだった。
「……なかなかの歯応えだったわ」
《8》
鮮烈な体験をしてきた後、ナナヒカリは警察の事情聴取を受けて帰ってきていた。だが彼は、どうやって家に帰ってきたのかあまり覚えていない。
警察に護送されて帰ってきて、両親に涙を流されて。すりガラス越しに見るくらい、それらの記憶は不鮮明だった。取り調べで何を話したのかとか、いつ警察がやってきたのかとか、そういうことも全て、同じように記憶できていないようだった。
丸一日学校を休まされたものの、その何も整理できていない脳内環境と精神状況は、何一つとして休まってなどいない。
「……茉莉花……さん」
二日後の早朝、バスの中。彼が呟いた「茉莉花さん」のニュアンスは、以前に比べてそれはもう大きく変化していたと言っていい。
彼の体は静かに揺られている。昨日との違いは、自分以外にもたくさんの客が乗っていることだろう。乗客が一人もいないバスの中に一人で突っ込んだ昨日の自分を、愚かしく見せてくれる光景だ。
『——次は 星数学園前 星数学園前です』
無機質な女声のアナウンスを合図にして、ナナヒカリは出口の方を向く。ぞろぞろと同じ制服の学生たちが降りていく中に、彼もまた混じってバスを去る。
(——あの人、来てるのかな……)
あんな荒事をした後なのだ、学校に来られなくても無理はないから、休んでいてもおかしくはない。
彼はホノカの普段通りの登校を望んでいるかというとそういうわけでもない。どちらかといえば「会いたくないから休んでいてくれると助かる」というのが、ナナヒカリの本心だった。
「ナナヒカリく〜ん!」
しかしながら、現実は容易く空想を足蹴にした。
「おはよ〜!」
門の向こうへ吸い込まれていく人混みに逆らって、一つの人影がこちらへ走ってくる。長かった黒髪はボーイッシュに切り落とされ、スカートはスラックスに履き替えられていたが、その甘い——本来の強烈な毒味を誤魔化すための、征服するが如き背筋が凍る濃さのシロップのような——声音は確かに、「《茉莉花組》組長」という概念の化身が、本性を覆い隠すためのものだった。
「ひぃ——ッ!?」
ナナヒカリは思わず腰を抜かしていた。全身から弾丸やら爆弾やらをバラバラ撒き散らしていた鋼鉄兵装が、こちらに向けて弾むように走ってくる。そういうイメージが、彼に危険信号を発したのだ。
ドサっ、と間抜けに尻餅をついた彼に、ホノカはどんどん近づいてくる。
「やめてくださいやめてください、やめてくださいッ! 本当に——」
ぎゅっと目を瞑って、体を小さくして、ナナヒカリはあまりにも情けない防御姿勢をとった。石をひっくり返したらいそうな、日本有数の名門校にふさわしくない姿勢だった。
しかし、それだけの防御をした彼が受けたのは——
「だ、大丈夫?」
——ふんわり優しい少女のホノカから差し伸べられた、繊細な手だった。というのが今朝の出来事である。
《9》
しかし。
「ナナヒカリ、テメェ……ワシを前にしただけやのに、公衆の面前であのリアクションったァ……どういうことだァ!? あァ!?」
「ごめんなさい勘弁してくださいッッ……!」
ガシャァン! と、股の間を通って後ろのフェンスを蹴る——「足ドン」というやつとも言えようか——を繰り出したホノカを前に、ナナヒカリは魂がヒュンと萎んだような気分さえ味わわされる。
授業中、「この前のホノカさんの姿はきっと夢だ」という自己暗示を絶えず続けていたナナヒカリの目を覚まさせたのは、他でもないホノカの言葉だった。
『——ナナヒカリ、ツラ貸せ』
彼はこれまで生きてきた中で、これほどまでに緊張感のある言葉を聞いたことがない。ついさっきま猫を被っていた猛獣が、突然牙をちらつかせてくる……それは、下手に正面から猛獣に立ち向かうよりも肝を冷やすと彼は知った。
そういうわけで、ナナヒカリは校舎屋上にてフェンスを背にした状態で、組長モードの彼女に追い詰められていた。
「……僕はッ……出来心でッ……!」
ナナヒカリは今の自分がどれだけ情けない姿かを、今朝からよく理解している。それだけの醜態を晒してでも生き残りたいと思う思い、もとい本能が、今の彼を形作っている。
「その態度を見てっと、テメェが政治家の息子ってことがよぉ分かる……見苦しすぎて、弄ぶ気も起きねェわな」
そんな彼を見て、ホノカは足を下ろした。
「……もう後出しみたいにしか聞こえないかもしれねーが、ワシも悪かった思っとる。呼び出しといていきなり脅すなんざ、器の小せェ雑魚のやるこった」
「は……はぁ……」
ナナヒカリはその場にへたり込む。そして改めて、スラックスに履き替えた彼女の——どことなく「男装」っぽさを感じさせる出で立ちとなった——ホノカの顔を見上げた。
「ど……どうして僕を呼び出して——」
「敬語はやめろ、ワシの素情がバレたらどー責任取るつもりじゃ、テメェは。あ? カタギは指詰めるなんてこたァ出来ねぇだろ?」
「は……はい……ホノカさん」
ナナヒカリが、できる限り普段のホノカと話すトーンに声を寄せると、彼女は「それでええ」と頷いた。
「……で、どないしてワシがテメェをここに呼び出したかっちゅー話じゃが……ワシの正体を絶対に漏らすなってだけの単純な事じゃ」
「……え、それだけ……本当に?」
「なんじゃァ? ワシが正体を知られた程度で、テメェの脊髄ぶっこ抜くよーな人間に見えとったんか?」
「う、うん。かなり」
ナナヒカリが頷く様子を見て、ホノカはため息をついた。どうにも、この返答がお気に召さなかった御様子だ。
「……あンなァ、ナナヒカリ。ワシは確かに、荒事を進んでやる時もある。でもなァ、ずっとそうってわけでも無いんじゃ……特に学園にいる間は、出来る限り穏便に済ませとう思っとる」
その後で、彼女は付け足すように言った。
「似た境遇におるテメェなら、ちったぁわかってくれる思うとったんじゃがな……」
「僕とホノカさんが……似た、境遇?」
ナナヒカリはもちろん耳を疑った。自分は清廉潔白な政治家の息子だ。毒霧の立ち込める中で暮らしているようなこの少女とは、似ても似つかないはず。
その疑問を彼が口にする前に、ホノカは口を開いた。
「ワシは……この前アマナがゆーとったように、純粋な人間やあらへん。『作られた命』なんじゃ」
「……それって、本当なの?」
「ああ、紛れもない事実や。前の組長……ワシの親父は組が永く続いていくために、怪しげなオカルト集団と手を組みよったんじゃ」
彼女が「父親」という言葉を口にした時、その表情は曇った。
「……アイツはそいつらに言われるがまま、歴代の組長の墓から、なんちゅーかその、『記憶の断片』みたいなヤツを儀式で引き出して、それを自分の嫁に下ろした。それが胎ン中の赤子に流れ込んだみてェでよォ——」
「それで生まれたのが……ホノカさんなの?」
彼女は苦い顔で頷いた。よほど意識したくない事実だったのか、今の彼女は少しでも刺激すれば、あの時のように指先を銃に変えて襲ってきそうだった。
しかし、ナナヒカリは恐怖を抱かなかった。
「ワシはアイツ……親父から見りゃ、自分の『娘』どころか『茉莉花仄香』なんていう、『個体名を持った人間』ですら無ェ。《茉莉花組》っちゅーデケェ機械を維持するためのパーツでしか無ェのよ……」
「それって……」
「ワシは、歴代組長の要素をパッチワークした『作り物』の癖に、『年頃の生娘』でもあった。生娘のワシからすりゃァ、親父からの扱いにゃ、耐えられんモンがあった。だから——」
ホノカは辛そうに笑った。
「——殺した」
「……」
ナナヒカリは、何も言わず、彼女の言葉に耳を傾けていた。一人のホノカという人間の言葉に、耳を傾けていた。
「ありゃぁ傑作じゃった。ワシは欲張りな親父の希望で、この体に色々細工されとった。そのせいでアイツは死んだ。要するに、自分でこさえた銃の暴発で死におったんじゃい」
ホノカは自分の指先に目線を送る。指先の形が揺らいで拳銃の銃口が現れて、再び人間の指に戻っていく。陽炎を見ているような変な心地がした。
「それだけやない。親父についとった組員も、ほとんど殺し尽くした。今残っとる《茉莉花組》の面子は、元々親父に反抗的だったヤツらか、組長がワシになってから集めたヤツらかだけじゃ」
「ホノカさん」
「笑えよ、ナナヒカリ」
ホノカは己を嘲るかのような調子で、ナナヒカリをじっと見つめた。彼女の視線が、突き刺さるように彼に響いた。
「……ホノカさん——」
だが、ナナヒカリは笑わなかった。とても真面目な調子で、あの指先が自分の額に向くことも承知の上で、彼は口を開いた。
「——ホノカさんは、すごいね」
「は……?」
「背負わされた全部を裏切るなんて、そんなの、相当な覚悟が必要だったはずだよ。自分に向かってくる期待も、運命も、全部退けて更に、自分の求める覇道を征くなんて……僕には到底できない」
それを果たせない、果たせなかった、果たすことのないまま今まで生きてきた、そんな「尾山七光」だからこそ、言える言葉。
「ホノカさんみたいな『素直な人』、尊敬しちゃうな」
「……は」
ホノカの瞳は、陰って見えなかった。でも、彼女の口元は笑っていた。嘲笑うように。
「ナナヒカリ……テメェは、本当に阿呆なんやなぁ」
「好きに言えばいいよ。僕は、」
ホノカが過去を振り返ったように、ナナヒカリは思い出していた。自分が、「ナナヒカリ」という名にすら縛られない無垢な己が、「茉莉花仄香」に何を思って近づき、その中で何を育んでいたのかを。
「僕は、ホノカさんのこと、ずっと気になってた身なんだから」
ナナヒカリは笑う。ふわりと。いたずらに。
「好きな人に何言われたって、どうってことないよ」
《4》
学園の中で、新たな噂が囁かれるようになった頃。
「ナナヒカリくん、ここ、おべんと付いてる」
「え? あ、ほんとだ……」
昼休み、机を組み替えて仲睦まじく話す二人の少年少女。尾山七光と、茉莉花仄香。
「……ばん」
「むぐっ!?」
「……なーんてね」
「ちょっ……ホノカさんがやると洒落にならないから」
「えへへ、ごめんね。魔が差しちゃって」
二人の姿を見る周囲の目は、暖かかったり、冷たかったり、あるいは黒い炎に燃えていたりもする。人によっては、行き着く暇すらないような激戦の中にいるこの学園で、その光景はノイズになるかもしれない。でも。
「……尾山くん、茉莉花さん。そういうのは外でやってくれないか。この時間を有効活用したい人もいるんだから、少しは考えてくれ」
不意に冷たい目の男子に話しかけられて、二人は顔を見合わせる。
「……だったら、僕らを気にしないようにしたらいいんじゃない? ちょうど僕たちが君たちを気にしてないみたいにさ」
「方法はいくつもあるんだから、勉強だけじゃなくて、そういうことにも頭使ったら?」
「……ッ! 君達……!」
二人のそんなのお構いなしという態度に、その男子は怒りを見せようとした。だが彼の身柄は一部の、件の「噂」を好意的に受け取っている生徒たちによって人混みの中に押し込まれていった。
「「……ぷっ」」
ナナヒカリとホノカは、顔を見合わせる。
「あははははっ……」
「ふふふ……」
二人はささやかに、それでいて幸せそうに笑って見せた。二人の在り方を、誇りに思うように。
ナナヒカリは思う。
(——僕たちは荒波の中にいる)
どれだけ置かれた環境が違っても。
(——立場や理由が違っても、それは同じだ)
その中に、少しでも寄り添えるところがある限り。
(——でも、僕らがこうして集まれる限り、)
人々はお互いを慰め、癒すことができるのだと。
(——背中を預け合いたいと、僕は思う)
不意に、優しく甘い風が、彼らの髪を揺らした。
(——僕は君についていく。何があっても、どこまでも)
初めましての方は初めまして。そうでない方も、よくぞお越しくださいました。割り切れない物書き、クロレキシストと申します。この度は「硝煙に茉莉花の香りを添えて」を読んでいただきありがとうございました。
この作品は、高校の文芸部の部誌に寄稿させていただきました、同名の作品の加筆修正版になっています。前編/後編で分かれていたものを一つにまとめ、そして一部描写を追加・変更した形です。その部誌のテーマは「花言葉」でした。そして作中で何度も触れられている花は「茉莉花」=「ジャスミン」の花。つまりこの作品は、ジャスミンの花言葉を最終的なテーマに据えて制作したものになっています。
一つの花をとっても様々な花言葉がありますが、私が取り上げたのは「私はあなたについていく」というものです。その言葉が「どちら」から「どちら」へのものなのかというのは、読者皆さんに委ねるとします。皆様の中でホノカとナナヒカリがどのようなアフター・エンディングを過ごすのか、作者としてとても楽しみです。
それでは皆様、私はこれにて失礼します。皆様の脳内世界が、私の作品でより広がりますように——。