前編
ジュリアーヌは屋敷のテラスでぼんやりと花を眺めながら、とある人物を待っていた。
約束の時間からたっぷり一時間以上経つ。もしかして忘れてしまったのかも知れない、と不安に思う一方で、あの方はとてもお忙しいのだから仕方ない、と言い訳のように自分に言い聞かせる。
淹れていた紅茶はすっかり冷めてしまい湯気も立てない。寂しい静寂がテラスを包んでいた。
「……ねぇ、またカルヴィン様を待っていらっしゃるの?」
その静寂を破ったのは、屋敷の中からテラスに顔を覗かせた少女の声だった。
ジュリアーヌによく似た栗色の髪に翡翠色の瞳の少女。名を、ジュリエット・アラバスターという、ジュリアーヌの妹だ。
「あらジュリエット。殿下をこうしてお待ちするのは臣下として、そして婚約者として当然のことでしょう。あなたにはあなたの務めがあるはずですわ、お帰りなさいな」
淑女の笑みでそう言って妹を追い返そうとしたジュリアーヌ。だが、ジュリエットは引っ込むどころか逆にずんずんとテーブルの方に近づいて来る。
そしてジュリアーヌの向かい、本来彼女の待ち人の席にどっかりと腰を下ろしてしまった。
「私の勉強はもう終わったわよ。ところで姉様、いい加減にカルヴィン様と婚約解消なさったらいかが?」
「こらジュリエット。冗談でもそんなことを口に出すべきではありませんわ」
「冗談? そんなわけがないじゃないの。私は本気よ。前からずっと思っていたし、私は、もう限界。姉様をこんなに待たせるってどういうつもり? 仮にも筆頭公爵家の令嬢よ? 暇人だとでも思っているのかしら。本当に腹が立つわ!」
憤慨し、はしたなくも顔を赤くする妹をどうやって宥めるべきかと考え、ジュリアーヌは静かにため息を漏らした。
確かに妹の言い分は一つも間違っていない。本来ジュリアーヌはこうして一時間も待ちぼうけしていられるほど暇ではない。栄えあるアラバスター公爵家の長女として、色々な勉学やら社交やらに勤しまねばならない身であるからだ。
後でしっぺ返しとばかりに忙しくなるし、それが負担ではないと言うと嘘になる。それでもジュリアーヌにはこうしている義務があったし、こうしていたいとすら思っていた。
もちろんそんな恥ずかしいことは、決して口に出しはしないけれど……。
「待たせたな。が、これは一体どういうことだ? 茶は冷めているし俺の席にお前の妹が座っているではないか」
その時、待ち侘びた声音がジュリアーヌの鼓膜を震わせた。
幼い子供が背伸びしたかのような偉そうな、それでいてどこか頼りない声。
ジュリアーヌは静かに席を立ち、深々と頭を下げた。
「まあ殿下、お久しぶりでございます。本日はお越しくださり誠にありがとうございます。ジュリエットにはすぐに言って聞かせますから。ほらジュリエット、退席なさい」
唇をかみ、どこか悔しげにしながらも、ジュリエットは屋敷の中へ戻っていく。
「カルヴィン様のクソッタレ」と呟いていたのは聞かないことにしよう。そもそも淑女がそんな言葉遣いをするわけがない。そう思いたい。
ジュリアーヌはすぐにメイドを呼びつけ茶を再び淹れさせた上で、遅れて到着したその人物を向かいの席へ座らせた。
「うん、うまい」
お茶をガブガブと飲んでそういう彼は、当たり前のように挨拶も謝罪もしない。
今更ジュリアーヌはそれに対して何か言うつもりはないが、少しは気遣いをしてくれてもいいと思う。彼にそれができないことは、嫌と言うほど承知してはいるが。
――カルヴィン・エル・ドウェーク。
ジュリアーヌが今対峙している青年は、彼女の婚約者であり、ドウェーク王国の王太子でもあるやんごとなきお方である。
キキラキラと輝く金髪。瞳は柔らかな薄紅色。顔立ちは芸術品のようだし、手や足の先まで整い過ぎているほどに整っている。美しいという言葉では足りない美丈夫だ。
もしかするとこの世界で一番ではないかと思うほどの美貌を誇る彼はしかし、非常に不敬でありながらも、一部貴族の間では『ダメダメ王太子』と有名だった。
例えば何事も――王子教育や王族として必要最低限な公務でさえも自分でやらず、周りの人にすぐに頼ろうとするところとか。
全く責任感がないのもそうだし、約束を守らないこと、面倒臭がりなこと、自分の都合が一番で、配慮や我慢ができないことなど、挙げればキリがない。そのくせ態度だけは一人前。端的に言ってしまえば無駄に偉そうなのだ。
そしてその上、本人に自覚が全くないのも性質が悪いところであった。
「ん? お前、今日も俺の美しい顔に見惚れているのか?」
「……ええ。殿下のお顔だけはいつでも見飽きませんわ」
「そうだろう、そうだろう!」
カルヴィンは心底嬉しそうな顔でジュリアーヌに身を擦り寄せ、豪快に笑う。
『顔だけは』と言われたことに全く気づいていない頭のお花畑さを指摘するべきかどうかと悩み、ジュリアーヌは結局やめた。言ったって無駄なのはわかっているから――。