幕は開かれる
(……えっ。まさか本当にヴァイン様は命を……?)
その可能性にトゥトゥが行き着いた時。結論を下したのは、エンレダデーラ家当主だった。
いつになく真剣な面持ちで、そっとささやくように問いかける。
「……ヴァイン、お前には分かっているのか」
「ええ、父上。そうでなければとっとと逃げ出しております」
「ならば任せた! 皆の者、いいな。我が息子、ヴァインに全てを託そう。他にこれだという代案があれば、だがそんな時間もなかろう?」
それに対する反論は、今全てヴァインに乱暴に論破されたばかりだ。何より……この場において、最も権力を持っているのは、やはり当主なのだ。誰もその決定には逆らえない。
「昔から、力を持つ魔族にできる事なんて数少ないんだよ。うちが領地を持てたのも、代々この地に住んでいた魔族に生け贄を捧げていたから。そういえば、一番最近の生け贄は母上だったか……」
「そんな……」
「力を持たない家が生き残るためには……普通の家が魔物との戦闘で出す十倍の犠牲が必要なのだ。それこそが、力こそが正義のこの時代に、エンレダデーラ家が繁栄していたトリックさ」
トゥトゥは信じられなかった。ヴァインの言っていることの意味も、何もかも……。何より。何より何より何より。
そんなことを悪びれもせず平然と語るその様が。そんな汚泥にまみれながら、今もまだのうのうと生きている、エンレダデーラの一族が見ていられないほどに醜かったのだ。
「腐っています……。あなたも、この領土も!」
「それがエンレダデーラの血だ。部外者に口を出される謂われはない。これほどの力を持つ魔族だ……。要求は何百の血か永遠の死地か知らないが、まあ、そういうことだ。その被害をなるべく小さく抑えることが、僕ら当主の家の義務だ」
「……領民さえも、差し出すおつもりですか? 西方に固めたというのは、まさか……」
ヴァインは答えない。だが、それこそが答えとトゥトゥは受け取った。そして……生まれて初めて、全力で人の頬を叩いた。
「はあ……はあっ。無辜の民を、そんなことのために犠牲にさせはしません。これよりセイクリッド家はエンレダデーラ領への侵攻を開始します。あなた方のために死ぬ領民など、決して出さない……!」
「……ああ、そうかい。それなら、そうすればいい。できるものなら、な」
ヴァインは打たれた頬をさすることもせず、結界の端……魔王のいる方へと歩み始める。
「いや、これは我が領地の問題。セイクリッド家には手出し無用に願おう。サーシャ。地下経路より西へ行くぞ。ヴァイン一人じゃ、彼の魔族様は満足されないかもしれぬ」
そんな当主の言葉。そうと言われてしまえば、サーシャとしても頷くしかない。
「……はい。御当主様」
「あなた……それでも人の親ですか!?」
そう猛るトゥトゥの肩を、今度はカインが掴んだ。その手は……情けないことに、震えに震えていた。
「頼む、トゥトゥ……。私はやはり、お前には死んで欲しくないのだ……」
「……お父様」
いついかなる時も見たことのない父親の憔悴した姿を見せられて、トゥトゥも勢いが止まった。棺桶の中よりも冷え切った空気の中、当主だけは迅速だった。
「なに、心配するな。ヴァイン、すぐに助けを呼んできてやる。すまないがセイクリッドの方々。逃げ帰る道すがらで構わない。我が領民に声をかけてやってはくれないか?」
「……はい。了承しました」
カインの心は、もう折れていた。かの魔王から目をそらせるのであれば……その程度の頼み。引き受けない理由がなかった。それは、自身の精神安定上のためでもあった。
『……いい加減、耳障りだ。虫けら共』
魔王を舐めていた。どれほどの脅威に感じていても、人類の作り出した叡智の結晶のような、この結界ならば……と、カインですらそう信じ切っていた。
『我が足下でゴチャゴチャと……死にたいのならばそう言うがよい』
ぱあん、と風船でも弾けるように結界が解かれる。部屋の壁を幾つぶち抜いたのか、遙か先に巨大な漆黒の角を生やした魔王が立っているのがヴァイン達からも見えた。
人類が数千年を費やして編み出した術法など、魔王からすれば……薄紙一枚にも満たない何かだったのである。
「お、おお。魔族様。違いますよ。御身に捧げる人身御供をご用意いたしました」
「はん。贄だと? ならば、我の欲するものがあるのだろうな」
その台詞を受けて……常人ならば既に失神してもおかしくないほどの距離から魔王の声を聞いて、ヴァインはそれでも自然体で前に踏み出した。当主はその背を押して言葉を続ける。
「愚息ではありますが、我がエンレダデーラ家の次期当主でございます。僅かばかりにでも腹の足しになることでしょう……」
……沈黙、逡巡。いや、違う。魔王は考え込んだのではない。そう……これ以上ないほど、憤怒したのだ。
「我に対する供物が、その干からびた小僧一人だと? 貴様、馬鹿にするのもいい加減にするがよい。魔力の足しどころか肉を食らえども腹すら満たされぬわ」
魔王が睨んだだけで凄まじい風圧が起こり、当主の体は倒れる。トゥトゥ達も立っていられず、目を閉じて魔の風が去るまで耐えた。
(ここまでか……。せめて……娘だけでも……。神よ……!)
カインはそう心中で叫び、呆然と何かを見ているトゥトゥの体を抱きかかえ、死の宣告を待った。
その時、カインはふと肩口に痛みを感じた。風によって切り裂かれたか……いや、違う。当主が刺したナイフから魔力が流れ出ている。まるで鉛のようなそれは、カインとトゥトゥを包み込み、身動きを奪った。
「そ、そうでしょうとも。こんな愚図だけではありません。白金ランクの指定を受ける、慧眼のカイン・セイクリッド殿と未来の『聖女』もここに捕らえました。西には我が領民が何千も生き延びて、待たせております。ですからどうか、どうか……私だけはお助けをおおおぉぉ!」
当主、心の底からの叫び。そこで、ようやくカインは理解した。トゥトゥとの結婚……いや、身柄の確保をああも急いだ理由を。
(この男っ……! 最初から私達を贄の候補として手にしたかっただけなのか……! 一体どこまでのクズだ!)
カインの腹の奥底からどす黒い怒りがこみ上げる。しかし、自分達にはもうどうしようもない。自由の身であるのはもはや、エンレダデーラの家の者しかいないのだ。
その子息、ヴァインがどこか冷たいものを含んだ声を発する。
「……父上。それは本気で申されているので?」
「黙れっ! この出来損ないが! 貴様がもっと魔力を持って生まれれば事は済んだのだ! 何をしているサーシャ。さっさといくぞ! 道中、私の身を守れ! この三人の魔力を合わせれば私が逃げる程度の時間稼ぎはできるだろう」
サーシャの目に映るのは、自己愛の権化。他の栄養を吸い尽くしのうのうと花を咲かせる蔓そのものであった。
(……それでも、私のご主人……。なんて、呪われた因果でしょうか。私はいつまで、こんなクズに仕えなければならないのか……)
「……はい。こちらへ。御当主様」
サーシャは感情を押し殺し、床の一部に魔力を流して隠し通路を表した。そして、当主が我先にと飛び込んでいく。その背を……十数年を共にしても敬意など一切芽生えなかった影を見送り、トゥトゥ達の元へ歩き出す。
(ならば、死に様くらいは選ばせていただきます。さようなら。エンレダデーラ家)
「申し訳ありません。セイクリッド家の方々……。もはや、これまでのようです。せめて、天に昇るまで、お供させていただきます」
「サーシャさん……」
もう全てを諦めたといった風のサーシャが、硬直したカインの腕の中で震えるトゥトゥに向かって、初対面の時と同じ笑みを浮かべた。それが、サーシャにできる精一杯であった。
「……やはり、人間などに価値はなかったか。少しは楽しませてくれるような相手を出すでもなく、聞き入るような詩もなく――ただの醜い言い争いを続けるとは」
そんな、魔王の呆れ。そこに含まれた嫌悪の感情に、カイン達は今度こそ死を感じた。
「……では、贄は必要なしということでよろしいか?」
しかし。まだそこには無事な者がいた。いつの間にか傷も癒え、悠然とした態度で。幽鬼のような表情にただ憎しみの炎だけを燃やし立っている者が一人だけいた。
その名はヴァイン・エンレダデーラ。蔓の紋章を受け継ぐ、最弱の少年であった。誰より力がないために、魔王の視界にすら存在していなかった弱者である。その場に残された誰もが、そこに期待などしようはずもない。
「当たり前だ。起き抜けにこんな茶番を見せられるとは……。不愉快だ。死ぬがよい」
魔王が慈悲もなく腕を振り下ろす。そこには、一個の存在が持っているとは信じたくないほどの魔力が込められていた。やがて、視界は灼熱の色に染まる。
「トゥトゥ……すまないっ!」
「……お父様」
トゥトゥ達が初めて目にする死の光景は……白、これまで見た何よりも純潔な白銀色であった……。
「……え?」
誰がもらした声だったか。しかして、世界は続いていた。
「どんな気分だい?」
「……なんだと?」
「虫けら程度にこんな魔法を打ち込んで、まるで無傷な様を見た感想はどうだって訊いているんだよ。魔王」
結界は……いや、館は、そこにあったはずの丘は、灰すら残さず消え去っていた。しかし、その声の主を中心にした十メートルほどだけは……つまりは、その場にいた人間を包み込むほどの領域のみは、まるで何事もなかったかのように依然として無事なままなのであった。
「……契約は破棄された。ならば、俺がお前を殺してしまっても、構わないということだな? 魔王――!」
魔王の魔法を全てその身で受け止めたヴァインが猛る。これまで誰も見たことが無いほど不遜に、嬉々として、唇が裂けるほどの笑みを浮かべて、ヴァインは嗤った。
「こ、の……虫けら如きがあ!」