たった一つの望み
ヴァインの名は、ヴァイン・エンレダデーラという。今は束の間の自由時間を堪能中である。
大小様々な植物に囲まれた緑の椅子に揺られるように、古びた本をぺらりとめくる。
(……結構、穏やかな人なのでしょうか)
トゥトゥはそんな事を思ったりもした。しかし、その後向けられた射貫くような視線にびくりと体をすくませる。
「サーシャ、そいつは?」
しかし、想像していたより……先ほどの挨拶よりよっぽど穏やかで優しい声での呼びかけに、トゥトゥはドキリとした。
「ヴァイン様。こちらはセイクリッド家のご令嬢、トゥトゥ様でございます。それと、館外へ姿を見せるのは御当主様に禁じられているはずでございます」
サーシャの小言が始まる前にヴァインが手を振ってそれを制する。だから、二人とも『姿を見せるのは禁じられている』という言葉にクエスチョンマークを浮かべたトゥトゥには気がつかなかった。
「そうかい。俺はヴァインだ」
言葉は、それだけ。もうトゥトゥに興味は無いとでも言いたげに、また本をペラリと。
「……では、トゥトゥ様。こちらへ。先日、良い茶葉が手に入りまして……」
「えっ。あの……終わり、ですか?」
トゥトゥは思わず、ややも幼い口調が出てしまった。
「はっ、その顔を見るに……権力と恩義を笠に着て、どれだけの言葉を並び立てられるだろうと思っていた、といったところか? ならお望み通りそうしてやろう。双方の領民から不満を招くだけの結婚などするわけがないだろう。少しは頭を使え、『聖女』様の名が泣くぞ?」
その見下すようなヴァインの目を見てトゥトゥは心中で憤怒した。
どれだけの覚悟をしてこの場に来たか……それを慮らずにこの態度だ。
それに、トゥトゥとて全く自分に対して鈍感なわけではない。人の目にどう自分が映るかは理解していたし、事実、これまでそれだけの扱いを受けてきた。
それが……こうも無碍にされ、馬鹿にされたのでは、例え大きくなくとも自尊心は傷つけられたと感じても致し方ない。
「いいえっ。どうせ、私はあなたとの婚約なんて破棄するつもりでした!」
「なら問題ない。世間のくだらない目が気になるというなら俺の方から、フラれましたと新聞でもばらまいてやろう。貴様の愚かさでは今後の婚活が心配だからな」
実際に人の感情が爆発する音を、サーシャは初めて聞いた気がした。
その発生源はトゥトゥからだ。だが、流石は貴族のご令嬢。それを面に出すことはしなかったが……。
「ヴァイン様は随分お忙しそうですね。私の相手をする時間も惜しいのでしょう? 本なんかめくっていらっしゃるから、大層お暇だと思っておりました」
「ああ。これが中々面白い。俺の理想のヒーローが、ここにいる」
嫌味のつもりで言ったつもりが、妙に素直に返されてしまってトゥトゥは目を丸くした。
「それで、貴様に何か関係あるか?」
「別に。関係なんてありませんけれど。そうですよね。あなたくらいのスキルでしたら……」
と、続く言葉が至極残酷なことにトゥトゥは気がついて、押し黙った。
あなた程度のくず鉄スキルでは、それは空想の世界に逃げ込んでも仕方ありませんね。
それは差別だ。市民が酒場で笑い話にすることはあれど、トゥトゥ程の立場にいる人間が口にしていいことではない。
「まあ、そんなところか。さすがの白金スキル、『聖女』様から言われれば、何も言い返せない」
「いえ、その……私は、そんなつもりでは」
「……ふうん?」
じゃあどんなつもりだい、とヴァインが目で問うてくる。トゥトゥは何も答えられず、ただ謝罪の言葉を口にした。
「……ごめんなさい」
「案外素直なものだ。くず鉄スキル、『蔓』のヴァインに向かって聖女が頭を下げるなんてな」
「つる……?」
咄嗟に言われて、トゥトゥは聞き間違いだろうかと耳を疑った。ツル。弦……だとすれば、職人向けの良いスキルだ。
以上の思考から、ヴァインのスキルは『蔓』であると、遅ればせながら理解した。理解して、仰天した。
「しょ、植物系スキル……それも、形態変更のスキルですか。それも、最低ランクってことは……」
「ああ。指先が蔓に変化する。ある程度は自由に操れる。それだけさ」
トゥトゥはお嬢様とは思えないほど口をぽかーんと開けてしまっていた。
「……さ、最弱のスキルではないですか。何の役にも立たない……」
体を変化させるスキルは多岐に及ぶ。例えば獣人という種族には天性的に現れやすい。腕の一振りをクマのかぎ爪にする。足を馬より強力にする。
体を霧に変え惑わす。伝説の神獣に変化することができれば、神様並みの扱いを受けることになる。
……が、その中でも特に必要とされていないのが植物系の変化能力だ。大樹となるならまだしも、ただの草とは。
「だからどうした? 何事もやってみなければ分からない。やる前から臆病風に吹かれていては敗者以下だ」
だから、トゥトゥにとってはそんな言葉さえもただの強がりにしか聞こえなかったのだった。
「ヴァイン様。ご自身のスキルを明かすことは御当主様に禁じられております」
「相変わらず保身が大好きなようだな。我が父上は。まあ、口を封じようと思えばいくらでも手はある。黙っておいてくれるのが身のためだと思うがねえ」
ここでようやく、トゥトゥはかねてから疑問に感じていたことを訊くことが出来た。
「あの、禁止、って……」
「……」
だが、ヴァインはもうそれ以上トゥトゥと口を利くつもりはないようで、無言を返す。背後から、やれやれ、とサーシャが周囲を目で探りながら説明した。
「恐れながら、領地を持つ当主なら当然のことですよ。トゥトゥ様。あなた様のように優れたスキルならまだしも、領地を守る頭がくず鉄ランクでは、お話になりません。なので、口外厳禁となる事は多々あります」
「でも、そんなのって……」
トゥトゥにとってスキルとは、言わば自分の存在を表してくれる後ろ盾だった。言い換えれば、彼女にとっての生きる意味だった。
まだ十数年しか生きていない彼女には、その最大の生命線が恥になるなんてこと、想像もつかなかったのだ。
いかなるスキルにも使い道がある。とは遙か昔の伝説の勇者の言葉である。それは、どんな人間にも生きる価値はある、という意味だ。
だが、しかし。金しか持たない領主の息子として生まれ、誰の理解も得ること叶わず人の目から隠され、それでも周囲から蔑まれ、そうしてこの先もこの小さな庭で生きていくであろうヴァインに、一体どんな価値を見出せというのだろうか。
「……ヴァイン様の、目的、って……」
もはやトゥトゥは、このエンレダデーラ領に来る時の心境のままではなかった。嫌味な成り上がりの息子と強制的に婚約させられる、という屈辱ではなく、今やヴァインに対して哀れみの感情さえ覚えていた。
だから、彼なりの目的があって、もしスキルに恵まれた自分にできることがあるならば……そう思っての問いだった。
「魔王を殺して、ヒーローになる」
端的に、一言。それ以上をヴァインは述べなかった。
「魔王……って、今は封印されているでしょう? 何でも、歴代最強と名高いらしいですが……」
再びトゥトゥは呆然とした。というかもはや途方に暮れた。
魔王退治。それこそが勇者の本質だというロマンチストはいる。だがそれは絵本の中の物語のことであって、現実のものではない。
だから当然、トゥトゥは冗談だと思った。そして、失望した。なんのことはない。ヴァインは逃げているのだ。
自分の弱さから目をそらし。蔑視ばかりの周囲の世界から抜けだそうと。だから、そんな夢物語でごまかそうとしているのだろうと。
ヴァインは、普通に幸せになりたいだとか、家族が欲しいだとか、そういった願いを述べるべきだった。それなら、トゥトゥにも手伝いのしようが……。
(って! そもそも、それを拒否するためにここに来たはずでしょうに!)
ぶんぶん、とトゥトゥは髪が乱れるのも構わず、大きく首を横に振った。
「……できるといいですね。それでは。ヴァイン様のご武運をお祈りしていますよ」
「……はは。そんな風に言われたの、初めてだ」
サーシャに連れられて庭園を去るまで……彼がどんな表情で笑っていたのか。それを確かめなかったことだけが、少しだけ惜しく感じられた。