はじまりは くらい へやから
「ハロー…ニューワールド」
そう言ってパソコンのキーボードを叩いていたのはいつの自分だったか。
空調の死んだ部屋で、一心不乱に机に向かう私と同僚たち。それを不憫に思った夜勤の警備員さんが、フロアを全消灯せずにいてくれたおかげで多少ましだったけれど、それでも深夜帯になると、乾いた眼球をパソコンの青白い光が焼いていた。
何本も空にして、机に積みっぱなしにしたエナジードリンクの缶。
そんなものに少しノスタルジーを感じている私は、生まれ変わっても心根が社畜ということなのだろう。
染み付いて取れないクマどころか、くすみにくすんでもう黒く見える顔色までをも諦めている。ファストファッションで購入した安い化繊の、あえて重い色の服を好んで毎日着回していた、そんな三十過ぎの女だった。
腕時計の内側が汗のせいでかぶれて、少し痒い。
隙間に指を差し込みかきむしりながら、疲労で重い体を機械的に動かして退社した。そこまではいいものの、陽の光を見上げたところで酷く立ち眩み、思わずしゃがみこんだ歩道で視界が真っ白から暗くなっていった。そうして、その人生を終えた日を思い出す。
最近は時折、心臓を刺すように痛むときがあったからいろいろとガタがきてたのだろうと、私は身動きできないまま、不思議と冷静な思考の中納得してもいた。
確かあれは年度末の繁忙期で、桜の綺麗な時期だった。
精神的に余裕を取り戻した今、お花見したかったな。なんて感慨深い気持ちになる。
あの世界と時代は便利でよかったと思う反面、また自身をすり減らすように働かなくてはならないのならば、戻りたくはないなと苦笑した。
それに伴って出た乾いた咳をする。
長く眠っていたのだろう、しばらく水分を取っていなかったからか喉がかさついていた。
なんであんな昔のことを思い出すのだろうと、頭痛と高熱でぼやける思考を揺蕩っていた。
重い体のまま、横向きに身じろぎする。
力なくかざした手のひらには、少し波打った桃色の爪、節がない指、まだ若い肌質。粗末な織り目の布には、三つ編みにした髪が解けかけている。
華奢な作りをしたこの体は、今身を置いている部族のなかでは異質な黒髪だ。
きっとそれで重なったのだろう。
きちんと手入れをすることができれば、きっと美しくなっただろうに。
栄養失調と、洗いざらしでただ伸ばしただけの毛先は激しく痛んでいた。
「…まだ、寝ているのか」
唐突に開けられた戸の隙間から、無機質な声が聞こえた。
反射で心臓がすくみ上る。この家の者は、私が何かしら働いていないと責めてくるのだ。幼い頃から刷り込まれた恐怖は、前世を思い出したところで払拭できないらしい。
軋む関節がぱきりと鳴った。
何か言わなければ。そう焦るけれど開いた口からは言葉が出ない。げほ。と、痰の絡んだ咳が返事になってしまった。
声のトーンから、見ずともどんな顔をしているかがよくわかる。
「ネウ」
案の定、わざと聞こえるように吐き出されたため息が、静かな部屋に重く響いた。
具合が悪いときでさえ、横になることが許されないのか。そもそもそれが子供に対する接し方なのかと、前世を思い出した今では理不尽さに腹も立つけれど、如何せん体力がなくて動けない。
「…役立たずめ」
熱いのにぞくぞくと悪寒が止まらず、震えつつも投げかけられる叱責に耐えていたら、朦朧としている間に声の主は消えていた。
扉を開けられたおかげで換気ができたけれど、寒さについ悪態つく。
今回の風邪は相当重い。きっと熱が上がりきるまでまだ少しかかりそうだ。
この部族内なら安価で得られる薬だけでももらえれば、ここまで酷くはならなかったろうに。腹立たしい感情をため息で吐き出して、誰も看病しに来ない心細さをひとり慰めてから、首元が擦り切れた古着をそばに引き寄せる。
水分だけは無理にでも取らなければと、湯飲みから温い水を飲み瞼を閉じた。
藁に布を敷いただけの寝台で拳を握りしめる。
…いつか。
いつかこんなところ出て行ってやる。
そんな今まで考えもつかなかった思いを胸に燃やしながら。