Sorĉado-08 親切
革手袋をはめれば、次は魔法円の準備である。ポケットの奥を探った叶奈は、丸めた紙を引っ張り出した。教科書サイズの長方形の紙一面に、六芒星をかたどった魔法円が大きく描かれている。こうしてあらかじめ魔法円を描いた紙を持ち歩いていれば、いつ何時も開いて魔術を使うことができる。敦子に教えてもらったアイデアだった。
人影のない階段の踊り場で魔法円を広げ、右手を押し当てる。吸い込んだ朝の匂いが感覚を研ぎ澄まし、精霊たちの息吹を肌に馴染ませる。まぶたを閉じ、叶奈はおごそかに呪文を読み上げた。
「Trovu ŝian matematikan respondon kaj transdonu ĝin al mi(答案を探してわたしに届けろ)」
一秒と経たずに、紙の舞い降りる軽やかな音が叶奈の眼前を舞った。おそるおそる目を開けると、そこには叶奈が受け取ったものと同じ数学の中間テストの答案が、ほこりの化粧をまとった姿で横たわっていた。
つばさの名前が記入され、おまけに九五点もの点数が付与されている。どこに紛れていたのか知らないが、つばさのものに相違なかった。
「やった……!」
叶奈は夢中で答案を取り上げた。あれだけ練習したのだから当然とはいえ、やはり魔術は叶奈を裏切らない。注いだ力と呪文の分だけ、こうして成果を出してくれる。
朝一番から力を消耗して重くなった身体を引きずりつつ、G組の教室に戻って扉を開けた。当の二人はいまだに捜索を続けていた。
「ね、これじゃない?」
叶奈は二人の前に回り込み、答案を広げた。あまりの早さに驚く間もなく、真ん丸の目でつばさとうららは答案を凝視した。その間、二秒。
「それだ!」
ひったくるようにしてつばさが答案を受け取った。
「うわ、本当に私のだ……! ありがとう春風さん!」
「どこに落ちてたの? うちらがあんなに必死に探しても見つからなかったのに」
とっさに叶奈は「えっと……」と答えに詰まった。探す段階から魔術を使ってしまったので、どこに落ちていたのかは叶奈自身にも分からない。ひとまず苦し紛れに思い付きの場所を口にした。
「ろ、廊下の隅っこ。ゴミ箱の陰になってて見つけづらかったけど」
「そんなとこに落としてたのに見つけられたなんてすごすぎるっしょ! マジでありがとう! この恩はぜったい忘れないから!」
せっかく見つけた答案を握りしめてくしゃくしゃにしながら、つばさは白い歯をいっぱに見せて笑いかけた。
とくん、と心が鳴るのを叶奈は聴いた。この学校に来て初めて、叶奈の前で誰かが笑ってくれた。曇りのひとかけらもない純粋な感動や感謝の目で、彼女は叶奈を見つめてくれている。いっぱいの胸が今にも詰まって、嬉しさのあまり息ができなくなりそうだった。
親切を働くことで満たされるのは、働かれた側だけじゃない。
やっぱり魔術の可能性は無限大だ。
「わたしに任せてって約束したもんね!」
叶奈は笑い返した。心の底から笑いながら、この笑顔だけは誰にも負けていない、と思えた。
G組内での叶奈の立ち位置は少しずつ変わり始めた。
クラスメートたちの多くと親交を持っているつばさやうららが、周囲に今度の件を話して回ったのも大きかった。春風さんがあっという間に見つけてくれた、あの子はすっごく頼りになる──。そんな武勇伝を聞かされれば、叶奈と距離を置いていた彼ら彼女らの目付きも自然と変わってゆく。しかし決定打になったのは、自信を深めた叶奈がクラスの困っている子に声をかけ、その武勇伝を次々と事実に変えていったことだった。悩みごとを聞きつけて目的を探り、こっそり隠れて魔術を行使し、その結果を披露する。隠れて行うことさえ完璧にできるのなら、魔術を使って親切を働くのは難しいことではなかった。
つばさの答案を見つけた日の夕方には、放課後の掃除担当を任された男子二人が困り果てているのに出くわした。サッカー部に所属する日焼け色のスポーツ少年、菊池蒔人と松尾魁だ。直近に迫った試合のために少しでも練習時間を確保したいのに、巨大な音楽室の掃除を任されてしまった。一体どうしよう──。そう吐露されたので、迷うことなく「任せて!」と言い切った。二人をさっさと部室へ追い出し、無人になった音楽室を内側から施錠して立ち入れないようにすれば、叶奈の独壇場の完成だ。好き勝手に魔術を行使しようが、誰にも見つかりはしない。
心配になったのか、練習の合間に二人は音楽室を覗きに来た。黒板も床もピカピカになった音楽室を見回して、蒔人も魁も一様に唖然としていた。
「すげぇ、本当に終わってる……。本当にこれ一人でやったのかよ」
「朝比奈たちの言ってた通りだった! ありがとなっ」
いたく喜ばれたうえ、蒔人はお礼の代わりに自販機のジュースも奢ってくれた。練習に戻って懸命に球を蹴り合う部員たちの姿を遠目にしつつ、グラウンドのベンチに腰掛けて飲むジュースは、心地よく喉に響いて甘かった。
翌日の英語の授業ではグループ発表の課題が出された。一冊のペーパーバックを班内の五人で分担して和訳し、内容をまとめて発表資料を作るというものだった。叶奈の班でも話し合いがもたれて分担が決められたが、もとの席の配置に戻った途端、隣の子が頭を抱えているのを叶奈は察知した。
「英語なんてなんにも分かんないのに……」
もっとも長い中間部分の解読を分担することになった彼女は悲痛な呻きを上げていた。以前から叶奈を遠巻きにしていたオタク趣味界隈の少女、鈴木芳香だった。叶奈のように積極的な子が得意ではないのか、「手伝おうか」と申し出ても警戒されるばかりだったが、自信を持っていた叶奈は怯まなかった。得意科目の英語ならば魔術で戦える。
「任せて! わたしが鈴木さんの部分もやってあげるよ」
いざ開いてみると、ペーパーバックの分量は中学生向けとは思えないほどに多かった。これが魔女になる前だったなら、いくら英語の得意な叶奈でも芳香を手伝える余裕はなかったかもしれない。けれども魔術の使える今、叶奈には恐れるものなど何もなかった。自宅で念入りに和訳と書き取りを済ませ、それを何事もなく学校に持っていった叶奈を見て、芳香は誇張の余地がないほど驚愕していた。「ほんとに全部やってくれたんだ」と震える声で問われたので、自信をもってうなずいた。
「すごい……! ありがとう! 春風さんがこんなに優しいなんて思わなかった」
あれほど叶奈を警戒していた芳香が、この時ばかりは両手を握り、飛び跳ねるような勢いで距離を縮めてきた。当の叶奈の中では無事に親切を働けた喜びよりも、近づいてきてくれなかった子を攻略できた喜びの方が遥かに勝っていた。
ページ数の多い資料のコピー。
重たい机や椅子の移動。
放課後の教室に出没したゴキブリの退治。
中身をぶちまけてしまったゴミ箱の後始末。
やろうと思えば不可能ではない、けれども苦労には違いないし体力を奪うので誰もやりたがらない、そんな面倒事が身の回りには溢れている。持ち前の勇敢なコミュニケーションを武器に、叶奈はクラスメートたちの面倒事を次々に見つけては「わたしに任せて!」といって引き受け、こっそり魔術を使って消化していった。叶奈にさえ頼めば何とかなるという観念が定着したのか、二週間もする頃にはむしろ周囲の子たちが自発的に面倒事を持ち込むようになり、必然的に仲良しの子は増えていった。つばさとうららは勉強会に誘ってくれるようになり、蒔人や魁は体育の授業で叶奈をサポートしてくれるようになり、芳香は叶奈の知らなかった面白いマンガやアニメや俳優のことを教えてくれるようになった。
「──来る頻度が減ってきたね、最近」
いつものように夢野家で紅茶を啜っていると、向かいに腰掛けた敦子が何気なく問うてきた。図々しく膝に上がり込んで眠っているチョコを撫でながら、「へへ」と叶奈は頬を融かした。
「なんかね、だんだん放課後が忙しくなってきたんだ。昨日は友達と勉強会してたし、明日は家に呼ばれてゲームしに行くの」
「あら。寂しくなくなってきたんじゃないの?」
「そうかもしれない」
曖昧な文句で肯定しつつ、それでもやっぱり夢野家に来るのはやめられないな、と思う。たとえ友達が増えたところで、ここには敦子もいればチョコもいる。魔術という希望を与えてくれたこの場所は、叶奈にとっては今も特別なまま変わらない。
「魔術の方はどうなの」
尋ねられたので、叶奈は自信満々に「ばっちり!」と応じた。クラスメートたちの面倒事を次々に片付けたおかげで見違えるように待遇が改善したことを報告すると、敦子は次第に眉根へしわを寄せ始めた。
「要するに周囲には黙ってるわけね。魔女であること」
「だってこっそりやれって言ったのはおばあちゃんだよ」
「まぁ、そうね……。でも色々と不都合があるでしょう」
「あんまりないよ。隠れて使うのが普通になってきてるから」
「バレたらどうするつもり」
「バレないように頑張るから大丈夫だよ」
得意満面で叶奈は紅茶を飲み干した。なんといっても今の叶奈には実績がある。魔女であることを人前で決して明かさず、何十人分もの願いを代行して遂げてきた実績だ。おまけにそこには、関わった子みんなと仲良くなれたという莫大な副次的効果までも伴っている。
それでもなお、敦子の顔は明るくならなかった。
「気持ちはわかるけれど叶奈、これだけは分かっておいてちょうだいよ。他国はともかく、この国では魔女の社会的地位はうんと低いのが現状なの。魔女だと分かれば疎まれることもある。迂闊に魔術を使えば恨まれることもある。あなた一人の軽挙妄動で、魔女みんなが迷惑することもあるかもしれない。もちろんそれは私も同じことだよ」
「わ、分かってるよ。そんな怖い顔しなくたって」
「今のあなたはただ、親切心と多少の下心だけで魔術を使っているつもりでしょう。私だって昔はそうだった。だけど後先考えずに魔術を使い続けていれば、いくら隠していても正体を知られることはある。軽い気持ちで使った魔術が因果を生んで、不幸な結末を呼び寄せるかもしれない。その覚悟だけは持っておくことだよ」
自らの手を用いて叶奈に魔術の手ほどきをしておきながら、事あるごとに魔術の危険を説く敦子の真意が、今の叶奈にはまだ図りかねていた。敦子は過去、魔術のおかげで一体どんな経験を重ねてきたのだろう。考えてみると叶奈は敦子の現状には詳しくても、数十年の人生の中で敦子がどんな出会いを重ね、どんな日々を送ってきたのかを、何一つとして聞かされていない。
だから、
「ぜったい後悔したりしないよ。だって今、魔女でいることがすごく楽しいもん」
叶奈は言い切った。
自分自身のみならず敦子のことも勇気づけられるように配慮したつもりだったのに、敦子の顔はそれからも曇ったままだった。
「何のつもりか知らないけど、私に構わないで。鬱陶しい」
▶▶▶次回 『Sorĉado-09 理由』