Sorĉado-07 禁忌
魔術の練習を始めて一ヶ月が経った。
夢野家には老婆と子猫の他にも同居人がいる。それは、いつか初めて夢野家を訪れた叶奈が目の当たりにして驚愕させられた、あの執事の箒だ。叶奈が魔術の練習を始めてからも、彼──サマンサは毎日のように家の中を行ったり来たり、自由気ままに掃除を続けている。
叶奈には彼の存在が羨ましくて仕方なかった。
「いいなぁ執事箒。わたしが登校してる間に勝手に家がきれいになるなんて夢みたい! あれがいればお掃除ロボットなんて目じゃないよね」
あまりにも叶奈がうっとりしているので、業を煮やした敦子が「やってみる?」と切り出してくれた。魔術をかける相手は、執事箒のおかげでお役御免になっていた夢野家の掃除機である。
「掃除をしなさいっていう呪文では足りないよ。私がサマンサにかけているのは、こちらの命じた仕事をやり続けろっていう、いわば服従の魔術なの。そういうつもりで呪文を組み立ててちょうだい。猛烈に高度な魔術だから、今の叶奈では上手くいかないだろうけどね」
「服従の魔術って、まだ使ったことないやつだよね」
「当然よ。今後もまず使うことはないでしょうね」
一瞬、敦子は渋い顔を見せた。その表情の真意を叶奈はとっさに測りかねたが、ともかく普段通りに魔女語の文法を脳裏で組み立て、単語を当てはめて呪文を作ってみる。
「Funkciigu la vakuon lau mia volo(掃除機をわたしの意のままに操れ)」
詠唱した瞬間、掃除機が跳ねた。
苦しげにバタバタとのたうち回り、命令に逆らわんと暴れている。おぞましい姿に叶奈は凍り付いた。すっかり気が動転してしまって、魔法円に手のひらを押し当てながら立て続けに「Trankviliĝis(鎮まれ)!」「Enlitiĝi(寝ろ)!」と叫んだが、掃除機は命令に従うどころか勝手に電源を起動させ、やかましい動作音を轟かせる始末である。背中の開口部が衝撃で開き、紙パックの中身が噴き出しそうに膨れ上がるのを見て、「いけない!」と叫んだ敦子が割り込み、すかさず別の呪文を詠唱した。
「Nuligu la mendon(命令を取り消す)!」
しかし間に合わなかった。掃除機は爆音とともに大量のゴミや部品をまき散らし、床に横たわってようやく眠りに就いた。
頭から派手にゴミをかぶった叶奈と、敦子と、それからチョコだけが、しんとした居間の真ん中に取り残された。
「……風呂、沸かそうかしらね」
言葉少なに提案した敦子が、給湯器のスイッチを押しに行ってくれた。
高度で扱いの難しい魔術ほど、誰もが習得に苦労する。最初から上手くいくことなど期待していないし、気負う必要はない。──そうと分かっていても大失敗を喫したのはやっぱり悔しくて、叶奈は風呂から上がった後も食卓で【新解魔女語辞典】を眺めながら一人反省会に沈んだ。
遅れて風呂を上がった敦子が、ターバンよろしくタオルを巻きながら叶奈の向かいに腰掛け、紅茶を啜り始める。二階の掃除を終えて降りてきた執事箒は、仕事の好機とばかりにゴミまみれの床を掃いて回っていた。叶奈はサマンサを睨みつけた。当のサマンサにしてみれば言いがかりもいいところだろうが、これ見よがしに叶奈と敦子の力量差を見せつけてくるなんて嫌な子だと思った。
「おばあちゃんはどうやって服従の魔術を使えるようになったの」
何気なく尋ねると、敦子はティーカップを口元から離して、難しい顔をした。
「本物の服従の魔術がどうして難しいのかは分かる?」
「分かんないけど……」
「相手の意思とか精神に介入する必要があるからだよ。機械や道具みたいな無機物は意思も精神も持たないでしょう? だから生物を服従させるのに比べれば、箒を意のままに操り続ける程度のことはそれほど難しくないの。練習を積めば不可能なことじゃないよ。それでも十分に使えるようになるまで三年はかかったけれどね」
敦子のような達人でさえ、三年もの日々を費やさねばならないほど難しい魔術がある。魔女の世界の奥深さを改めて思い知らされ、見習いを脱する道のりの遠さを肌に感じながら、叶奈は何の気なしに「人間相手だと十年はかかりそうだね」とつぶやいた。
途端、敦子の眼差しがキュッと締まった。
「間違っても人間相手に使おうと思ってはダメだよ。服従の魔術は禁忌魔術の中でも特に罪の重いものだから」
「マルペルメッソ?」
「そうか、まだ教えていなかったねぇ。……絶対に使ってはならない、使ったら厳罰に処されても文句は言えない魔術のことだよ」
初めて見聞きする単語に叶奈が目をしばたかせると、敦子は真剣な顔でこちらに身を乗り出した。浮かれていてはいけない空気を悟り、叶奈もティーカップを傍らに追いやった。
「魔女は普通の人にはできないことができる存在でしょう。その気を起こしさえすれば、他人に危害を加えることなんて造作もない。そんな魔女が一般人の世界に受け入れてもらうためには、どうしても自分で自分に足枷をはめなければいけなかった。それで昔の魔女たちは、魔女の信条と呼ばれる禁忌のルールを自分たちに課したの」
「魔女の信条?」
「そう。これだね」
敦子は叶奈の手元から【新解魔女語辞典】を取り、冒頭のページを広げて叶奈の前にかざした。そこには魔女語の一節が警告文よろしく刻まれている。
「【Faru tion, kion vi volas, krom se vi vundas iun ajn】」
「『誰も傷付けぬ限り、汝の志すことを為せ』──そういう意味だよ」
魔術を用いて何をしてもいいが、決して他者に危害を加えてはならない。噛み砕いて解釈すればそういう意味になる。冒頭にこんなページが設けられていることにも気づかなかった叶奈は、首をすくめながら敦子の言葉に聞き入った。
敦子は【新解魔女語辞典】を閉じた。紙の束が折り畳まれる重たい音に、隣で丸くなって眠っていたチョコがおもむろに顔を上げた。
「その信条に従って、禁忌魔術が国際的に定められたの。具体的には殺人の魔術とか、服従の魔術とか、失神の魔術とか、忘却の魔術とかだね。最初は少なかったそうだけれど、実際に各地で魔女が事件を起こすに従って、禁忌魔術の中身はどんどん追加されていった」
「実際に起きたんだ、事件」
「魔女も人間だからね。痴情のもつれから相手を殺してしまうことだってあるでしょう。でも、そこで魔術を使えば、その魔女を待ち受けている運命は十中八九、死刑だよ。魔術なんか使われたら、普通の人は抵抗したくてもできない。そういう被害回避能力の非対称性が、世界中で厳罰化の根拠になっていったの」
難解な用語に叶奈は顔をしかめた。ともかく魔術で他者を傷付けてはならないという基本原理だけは厳重に覚えておかねばならないと思い、付箋にその旨を書き込んで辞書に貼り付けると、「マメだね」と敦子が静かに笑った。目は笑っていなかった。
「叶奈は真面目だし、優しい子だから、禁忌魔術に手を掛ける日が来るとは私も思わないわ。それでも決して忘れないでちょうだい。それを犯した魔女がどうなるか、世間から魔女がどういう目で見られるようになるか──。事は決してあなただけの問題では済まなくなるんだよ」
どこか実感に欠ける危機感を心の中でもてあそびつつ、叶奈はうなずいた。叶奈には罪を犯したいと願ったことも、魔術で悪さを働こうと着想したこともない。捕らえられて死刑にされた魔女たちの心境など想像もつかないまま、曖昧な気持ちでうなずいてしまった自覚はあった。けれどもうなずかないことには敦子を安心させられないし、それが教え子たる叶奈の務めでもあると思った。
実践は難しいことではない。要するに、魔術で他人を害さなければいいのだ。ごく普通の一般人として生きている限り、叶奈が犯罪者になることなど有り得ない。
「約束だよ」
うなずいた敦子がティーカップに手を伸ばした。
今度は、目元も微笑していた。
◆
連日にわたる猛特訓は、叶奈の魔女としての才能をぐんぐん開花させていった。掃除機の一件のみならず、時には失敗して夢野家の調度品や家具を破壊したり、敦子や自分自身をずぶ濡れにすることもあったが、それでもめげることなく着実に重ね続けた努力と反省は、魔術の精度向上という分かりやすい形で絶大なフィードバックを与えてくれた。
物体浮遊や瞬間移動、簡単な家事魔術を一通り使いこなせるようになり、即興で編み出した魔術も何とか形にできるまでになってきた頃、敦子はようやく待ち望んでいた許可を下してくれた。
「あとは実践あるのみかしらね。ここまで実力がついてくれば、普段の生活の中で魔術を使っても、そこまで手酷い結果にはならないでしょう」
敦子の話では、見習い卒業のためにはもう少し高度な魔術を身に着けることが必要で、それまでの間は言わば仮免許のような形で、限定的に魔術を行使することが許されるのだという。見習い卒業の折には「魔名」なる名前が与えられ、適切な実力を持った魔女として自由に魔術が使えるようになるようだ。敦子の魔名は『A.Y.Atentema』というらしい。
見習いであろうが一人前であろうが、決して人前で堂々と魔術を使ってはいけない、やるにしてもこっそりにしなさいと敦子は口酸っぱく言い含めてきた。それでも叶奈にとっては大いなる進歩に過ぎる。帰宅早々、さっそく料理や洗濯物の整頓に魔術を使ってみた。思いのままに家事を進められることが嬉しくて、夢中になって翌日の朝食作りまで済ませてしまい、帰宅した妹に不審な眼差しを向けられた。
季節は六月頭。
中間試験はすでに終わりを告げ、窓の向こうでは紫陽花が梅雨の恵みを待ち望んでいた。
朝食の用意を省くだけで、普段よりも三十分ほど早く登校することができる。部活の朝練もなければ友達だっていないのに、こんなに早く登校してもな──。慣れない葛藤で足を止めかけたが、早く着いたら勉強に充てればいいよ、受験生なんだもんと自分を納得させて、叶奈は午前七時の街に踏み出した。朝食作りに追われていたはずの時間にストレスフリーで外を出歩ける、この高揚感を何に例えればいいだろう。このぶんならきっと一番乗りに違いない。意気揚々と木之本中の校門をくぐり、三年G組の扉を開いたが、すでに二人の人影がそこにあるのを認めて叶奈は肩を落とした。
二人は怪訝な面持ちで机の間を探し回っている。朝比奈つばさと十六夜うらら、両名ともクラスきっての秀才だ。叶奈の見立てる限り、このクラスの女子カーストの中ではだいたい中位に位置していて、その地位を活かして広範なクラスメートたちと柔軟に交流を持っている。そもそもカーストの埒外に締め出されている叶奈には、彼女たちのような芸当は到底かなわない。
こんな早朝から何をしているのだろう。
自分のことを棚に上げ、叶奈は二人の背中を見つめた。焦っているらしく、机の中身を漁る音がずいぶん乱雑だ。「見つけた?」「ううん、こっちも駄目」──ひそめられた囁き声にも緊迫感が滲んでいる。
「探し物?」
声をかけに行くと、二人はぎょっと凍り付きながら叶奈を振り向いた。
「あ、春風さんか……」
「な、何でもないよ。大丈夫大丈夫」
大丈夫には見えなかったから声をかけたのに、そこまで露骨に距離を取ろうとしなくてもいいではないか。濁りかけた心が腐臭を放ったが、叶奈は懸命にそれを飲み込んで笑顔を繕った。このさい何が何でも二人の役に立ち、少しでいいから株を上げてやる所存だった。なんたって今の叶奈は、不可能を知らない魔女なのだ。
「わたしも手伝うよ。大事なもの無くしたんでしょ?」
めげずに畳み掛けると、二人は不安げに互いを見合わせた。口を開いたのはつばさだった。
「大事なものっていうか、私の数学の答案なんだけどね」
「数学の答案って、昨日返されたやつ?」
「そうそれ! 確かにカバンに入れたはずなのに、家に帰ったら見つからなくて」
「見つからないとヤバいんだよ。つばさの家、めっちゃ厳しいもん」
うららに補足され、つばさはいよいよ青ざめながら机の周りを見回し始める。多忙なあまり娘の成績にも無頓着な母の顔が脳裏に浮かび、関心を持たれなさすぎるのも考えものだと叶奈は思ったが、内心、同時に興奮を隠しきれなかった。敦子のもとで鍛えられた魔術があれば、たかが答案一枚を見つけ出すことなど造作もない。
「大丈夫、わたしに任せて! きっと見つけてみせるから」
自信たっぷりに言い切り、叶奈は教室の扉を開いて外へ出た。驚きと不信感を入り交ぜたような目つきで二人は叶奈を眺めていたが、その目は叶奈が教室を出る瞬間、ポケットから出した白い革手袋を右手へ嵌めたことには気づかなかったはずだった。
「ぜったい後悔したりしないよ。だって今、魔女でいることがすごく楽しいもん」
▶▶▶次回 『Sorĉado-08 親切』