Sorĉado-06 特訓
三年G組の担任・森沢真琴は、転入生の叶奈を気にかけてくれる数少ない存在の一人だった。
「──春風さん」
唐突に声をかけられ、びっくりした叶奈は手元の辞書から顔を上げた。こちらを覗き込む森沢に気づき、慌てて辞書を隠すと、森沢は「勉強熱心だね」と微笑した。あまり作り笑いの匂いはしなかった。
「勉強熱心なのはいいけど、お昼は食べなくていいの? 昼休み始まってるよ」
「えっと、その、もうちょっと自習したいなーって思って。わたし成績あんまりよくないから」
ダミーのつもりで広げたままにしていた英語のノートを、叶奈は森沢の鼻先に押し付けた。これで少しは辞書から関心をそらせたはずだと信じるしかなかった。閲覧していたのが英語の辞書ではなく【新解魔女語辞典】だと知ったなら、森沢は迷わず叶奈の正気を疑っただろう。没収などという憂き目には遭いたくない。
「その割にはずいぶんノートの執り方が整ってるけど……」
一通りノートに目を通しながら森沢は首をひねる。
「でも、その心がけは立派よ。中間テストまで一週間だし、きちんと頑張っていれば結果は出る。英語のテストは期待してるからね」
「へへー。ありがとうございます」
叶奈はしっかり営業用の笑顔を浮かべることも忘れなかった。後ろ手を組んだ森沢がゆっくりと席を離れ、教室の出入り口へ消えてゆくのを見届けてから、汗ばんだ手で【新解魔女語辞典】を取り出した。
英語教師の森沢は、自分の担当する授業の終わった後には必ず教室を見て回り、生徒たちと二言、三言を交わしてから職員室に戻るのを習慣にしている。彼女なりに生徒たちやクラスの動向に関心を持ち、アンテナを張ろうとしているのだろう。その心意気は新参者の叶奈にとっても救われるものだったが、独りで昼食をとっている叶奈の傍らにやって来て「あんまり馴染めない?」と尋ねるのだけは勘弁してほしいと思う。迷惑なわけではない。ただ、少し、惨めになるから。
「そんなことより勉強しなきゃ……」
独り言ちて頭を切り替え、叶奈は辞書に視線を戻した。アルファベットの羅列が瞬く間に意識を飲み込み、学習の進捗状況を脳裏に囁いた。
敦子が詠唱に用いている言葉は、『魔女語』と呼ばれる全世界共通の魔女専用言語なのだという。かつて世界中の魔女たちはそれぞれの母語を詠唱に用いていたが、魔女の社会的地位が低下するにつれて母語では不都合が多くなり、一般の人に詠唱内容を知られることのない補助語として魔女語が開発・導入されたという歴史的経緯があるらしい。正式名称は『ヴォルトイ・デ・エスペーロ』、希望の言葉という意味だ。
詠唱を行っても周囲に怪しまれないという点では、魔女語が希望の言語だったことに疑いの余地はないが、英語と同時並行で覚える羽目になった叶奈にしてみれば絶望の言語に他ならない。思うように頭に入らない単語を小声で音読して叩き込みつつ、はたと叶奈は辞書にため息を吹きかけた。便利な魔術をラクに手に入れることはできない、何事も代償が必要なんだな──と思った。
まずは魔女語を徹底的に覚え、詠唱の能力を積み立てる。それが済んだら実践練習を重ね、少しずつコツを掴んでゆく。そんな魔術練習のロードマップを描いてみせた敦子は、「基本原理は知っていなきゃならないからね」と言って、魔術という異能そのものの発生要因を解説してくれた。
人間の身体には、多かれ少なかれ「エテロ」と呼ばれる力が宿っているとされる。その存在を科学的に説明することは難しいが、一般的には自らの意思でコントロールすることのできない潜在的な力の一種と認識されている代物で、世の中の多くの人間は第六感や霊感、高い共感、火事場の馬鹿力のような形で無意識にエテロを発現させて利用している。つまりエテロとは普通、それだけ非力で微弱なものでしかない。しかしながら例外的に強力なエテロを有している人々もいて、彼らは「魔術」と呼ばれる手続きを行うことでエテロを意のままに操り、物理的な力として発現させることができる。それが「魔女」と呼ばれる人間の本質なのだ。
「魔術っていうのは一種の降霊術なんだよ。自然界に棲息している精霊たちを魔法円の中に呼び出して、私たちに代わってエテロを行使するように命令する。すると精霊は手のひらから私たちの身体に入り込んで、そこで仕入れたエテロを命令通りに発現させるわけだね」
解説を進めながら敦子は叶奈の右手に革の手袋を嵌めさせ、それから魔法円の描かれた紙を差し出して「真似して描いてみなさい」と命じた。魔法円は精霊が魔女に入り込む際の出入り口となるもので、精霊の作業領域を画定するとともに、無関係の余計な精霊に立ち入らせないための不可侵領域を定める役割も持っている。このとき必ず手袋を嵌めるのは、生身で魔法円に触れると精霊と身体が過干渉を引き起こし、発動させた魔術が暴走する危険性があるからだという。手袋を外した状態で魔術を使っては絶対にダメ、何が起こるか分からないと、敦子には口酸っぱく言い聞かせられた。
手順を習った次は実践である。敦子の指導のもと、実際に魔術を使う訓練が始まった。
「Levu la skatolon(箱を持ち上げよ)!」
「Ekbruligu kandelon(ろうそくに火を灯せ)!」
「Ŝarĝu lavotaĵon(洗濯物を取り込め)!」
「Kompletigu la puzlon(ジグソーパズルを完成させろ)!」
「Solvu kvadratan formulon(二次関数の数式を解け)!」
──とにかく来る日も来る日も、叶奈は紙に魔法円を描き、手袋をはめた右手を押し当て、うろ覚えの呪文を詠唱することを繰り返した。魔法円の描き方にもじきに慣れ、手袋をはめる習慣もすぐに身についたが、目に見えないエテロをコントロールすることだけは一筋縄ではいかなかった。持ち上げた箱は勢い余って天井にぶつかるし、ろうそくは火だるまになるし、洗濯物は取り込まれた衝撃でしわくちゃになったし、ジグソーパズルは最後の数ピースがとうとう嵌まらなかった。中でも難儀したのは数学で、へとへとになるまで詠唱を繰り返しても、置かれたペンはいっこうに動かなかった。
「単純にあなたの魔術の精度が未熟なこともあるけどねぇ……」
びくともしなかったシャープペンシルを取り上げて眺め回しながら、敦子は眉根にしわを寄せる叶奈を窺い見た。
「多分それ以前の問題だと思うんだよ。叶奈、あなた自身はこの数式が解けるの?」
「こんなの自力じゃ解けないよ。わたし数学苦手だし……」
「それだよ、原因は。魔術はあなたができることの範囲でしか行使できないの。あなたが根本的に苦手としていることは、魔術を使ってもできない」
道理で家事の魔術はすんなりと実行に移せたはずだった。魔術の練習に向き合うことはつまり、自分が何を不得手にしているのかという現実に向き合うことなのだ。思わず「不便だなぁ」とぼやくと、すかさず「万能じゃないって言ったでしょう」と厳しい諫言が飛んできた。
魔女語の基礎を一通り覚えてしまうと、詠唱する呪文を自力で編み出す練習も始まった。「〇〇を××しなさい」という敦子の指示に従い、即興で考えた呪文を詠唱して魔術を行使するという練習だ。こうなるともはや、魔術の訓練というより語学に近い。ただでさえ高校受験や迫り来る中間試験に向けて英語の勉強が難化している中、魔女語の単語と英単語を混同して発音することもしょっちゅうで、そのたびに慌てて敦子に詠唱を中断させられた。間違った呪文を口にすると精霊の混乱を招き、これまた魔術が思わぬ暴走を起こしかねないのだ。
魔女語は覚えられない。呪文は間違える。力のコントロールも上手くいかない。家事や学校の勉強に追われる身では、努力の量にもおのずと限界がある。魔術は行使するたびに身体から力を奪ってゆくので、少し大きな魔術の練習に取り組んだ日の夜には、疲労困憊でベッドから動けなくなることもある。それでも叶奈が頑張り続けることができたのは、ひとえに敦子の褒め言葉があったからだ。
「勉強家だねぇ」
あっという間に魔女語の基礎を習得してきた叶奈を見て、敦子は感心を隠さなかった。魔女語のもとになっているラテン語の文化圏で育った魔女でもない限り、一ヶ月も経たずに魔女語をマスターしてみせた叶奈は相当な早熟の部類に入るようだ。
「ただの勉強だったら得意なんだけどなぁ。わたし、英語でも一番苦手なのは発話なんだよ。呪文なんかとっさに編み出せる自信がないよ」
「継続は力なりだよ。学校で勉強するより実際に海外で生活した方が、語学力も伸びるって言うでしょう。使っていればそのうち慣れてくるからね」
休憩の合間に弱音を吐くたび、敦子は件の紅茶を淹れ、端的な言葉で叶奈を鼓舞してくれた。中途半端なところで放り出されるのが何より危険だと考えてのことだったのだろうが、それがたとえ虚構の優しさでも叶奈にはありがたくて、つい、真剣な目で練習に戻ってしまう。こういう優しさのことも敦子は「独善」と呼ぶのかと思うと、心に刺さったままの棘が少しばかり疼きを深めた。
心の支えになっていたのは敦子ばかりではない。いつか命を救ってやった子猫の存在もまた、叶奈の意欲の維持に一役を買っていた。
「来たよーチョコ! お利口にしてた?」
毎日、敦子に解錠してもらって夢野家に踏み込みながら声をかけると、彼はどこにいても猛ダッシュで玄関に現れ、得意げに座り込んでなでなでを要求する。要求通りに撫でてあげれば、尾を立てながら居間まで叶奈をエスコートしてくれる。その仕種ひとつひとつの可愛らしさに当てられるあまり、叶奈も時には魔術そっちのけで構ってしまい、敦子に「何しに来たの」と白い目で見られた。
トイレの場所や爪とぎの場所を子猫に教え込むのは大変だと聞くが、叶奈の場合は魔術を使って手っ取り早く教えることができた。チョコと命名したのも叶奈だった。ビターチョコのような色をしているからと思って命名してみたが、本人も思いのほか気に入ってくれたようで、名前を呼べば機嫌よく膝に飛び乗ってくる。年相応にやんちゃで遊び盛りなところもあって迷惑にも思うけれど、それでも確かな信頼を受けている感触があるのが嬉しくて、チョコが待っているというだけでも夢野家に足を向ける理由になる。どんなに達成感が得られなくても叶奈が魔術の練習から逃げなかったのは、きっと、敦子とチョコがそこにいてくれたからだった。
心を寄せる誰かが隣にいてくれるだけで、頑張る意味がある。生きる望みが生まれる。
やっぱり友達が欲しい、と思った。
「『誰も傷付けぬ限り、汝の志すことを為せ』」
▶▶▶次回 『Sorĉado-07 禁忌』