Sorĉado-04 変な子
叶奈には二つ下の妹、咲季がいる。反抗期の真っ盛りだからか、退屈な姉がよほど嫌いなのか、自分からは滅多に口を利いてくれない。姉として尊敬されている気配もない。
その咲季が珍しく、食卓の向こうから自発的に声を投げかけてきた。
「──姉ちゃんさ」
「うん?」
「最近どこ行ってんの」
叶奈は食べかけの朝食を思いっきり飲み込んで喉に詰まらせた。吃りながら「ど、どこって?」と聞き返すと、愛妹はつまらなさそうな顔でトーストにかじりついた。
「私が帰ってくる時間帯、いっつも出掛けてんじゃん。そっから慌てて帰ってきて夕食の準備とか始めてるでしょ」
受験を間近に控える叶奈と違い、中学一年生の咲季は部活動に入っている。家事負担のしわ寄せがことごとく叶奈に来ているのは、部活のおかげで咲季の帰りが遅く、分担できる家事の量が必然的に少なくなるからでもあった。そんなことをいったら受験生の叶奈だって暇ではないのだが、こんな立場に置かれてもなお「わたしだって忙しいんだよ」と声高に主張できないのが叶奈の最大の弱点だった。自覚もしているつもりだった。
「あー、あれね! ちょっと友達のところに出かけててっ」
「嘘つき。友達なんていないくせに」
「失礼だな、友達くらいいるもん」
「星條中にも月峰小にもいなかったじゃん」
「いるったらいるの!」
むきになって言い募りつつも、やっぱり遥か年上のおばあちゃんに懐いているのって変なんだろうな、と不安に苛まれている自分がいる。だからといって咲季の言い分を素直に認めるのも癪だったから、叶奈はあくまで敦子が友達であると思い込むことに努めた。実際問題、学校の教室に友達がいないのは妹の言う通りなのだ。
挙動不審な姉を前にして「どうでもいいけどさ」と咲季はトーストを飲み込んだ。
「分担してる家事くらいちゃんとやってよ。切れてる牛乳と野菜と豚肉、姉ちゃんが買ってくるって話になってたじゃん」
叶奈はたちどころに真っ青になった。
しまった、夢野家に遊びに行くのに夢中で買い物を忘れていた。昨日の学校帰りにスーパーに立ち寄るつもりでいたのに。
「ごめん……」
「こういうの三度目くらいだよ。言っとくけど私はちゃんと風呂掃除とか洗濯物の片付けとか一度も忘れずにやってるんだからね」
咲季は嫌味を付け足すことも忘れなかった。今日は虫の居所がよほど悪いらしい。
首をすくめる姉、退屈げにスマートフォンを覗く妹。気まずい空気が食卓に流れ込んだ。もうひとりの家族であるはずの母は新聞を読むのに夢中で、娘二人の剣呑な空気に気を配ろうともしない。「お母さんも何か言ってよ」と咲季が腹立たしげに唆したが、ため息を返事の代わりにして再び新聞に目を戻してしまった。
これが春風家の日常なのだった。
誰も家族の秩序を気に留めない。ただ、思ったままのことを口にして、思ったままのことを行動に移す。特に、性格の似ている母と妹の間には普段からケンカが絶えない。その狭間で何も言えず、火の粉が降りかかるのを恐れて作り笑いを続けているのが、長女たる叶奈の立場なのだった。
「ごちそうさま」
小声で訴えながら立ち上がり、ついでに咲季の食器も重ねて台所へ持っていった。咲季からの感謝の言葉はなかった。そういえば夢野家で働く執事箒のサマンサも、敦子に感謝の言葉を言われているのを見たことがない。食器用洗剤をスポンジに含ませて泡立てながら、泡のように揺られるしかない自らの境遇がいっそう悲しくなった。
叶奈は執事じゃない。
叶奈にだって執事が欲しい。それこそ家事をみんな分担してくれるような、優しい執事が欲しい。そしてそれは、魔術さえあれば遂げられる、実現可能な願いなのだ。
「わたしが魔女だったらよかったのにな……」
敦子の前では我慢してきた愚痴が、ふと、何気なく口をついて膨らんだ。
黙っていた母が急に新聞を伏せた。驚いて顔を上げると、妙に険しい顔の母とまともに目が合った。
「何て言ったの、叶奈」
「え、いや、別に何も」
「金輪際その発言はやめて。魔女になりたいとか何とか」
「な、なんで」
「あんなろくでもないものを目指したら不幸になる」
「でも──」
「やめなさいって言ったのが聞こえなかったの?」
静かな迫力の言葉に叶奈は呆気なく押し潰された。大人しく「はい……」と首を垂れたら、平静を取り戻した母は再び叶奈に興味を失い、手元に広げられた新聞へ視線を落としていった。元のような気まずい空気の底に、叶奈はぽつねんと取り残された。どうして言っちゃダメなの? なんて、素直に口に出せたならどんなによかっただろう。
魔女になったら不幸になる。
どこかで聞き覚えのあるような言い分に引っ掛かりを覚えたが、新聞を読みふける母にわざわざ声をかけて真意を聞き返す勇気も、元気も、叶奈は持ち合わせていなかった。
その日も友枝市は雨模様だった。
雨天か否かに限らず、夕刻の木之本駅前商店街に人影は少ない。それもそのはず、商店街があるのは駅の南側で、線路を挟んだ北側の再開発地区には巨大な複合ショッピングモール『ミンキーモール友枝』が鎮座している。華やかで店の充実している方に人々が集まるのは必然で、駅前商店街は哀れにも客層を奪われ、刻一刻と人の寄り付かないシャッター街に成り果てようとしているのだった。けれども、ともに散策してくれる友達のいない叶奈にとっては、少しばかり寂れて人の少ない商店街の方が気楽に歩けるのも確かだった。
「えっと、牛乳と……キャベツと……」
書き留めてきた買い物メモをカバンの中に戻し、叶奈はビニール傘越しに望む鉛色の街を見上げた。いつか敦子と出会った書店や、数軒先に並ぶ行きつけの八百屋なんかが、降りしきる雨の向こうに薄く霞んでいる。雨足が強くなる前に帰宅して、勉強しなくちゃな──。早めた足がぴちゃぴちゃと情けない音を立てた。
これでも受験生だというのに、いつまでこうして家事に膨大な時間を注いでいられるだろうか。先行きを思いやると不安の一つも覚えたくなるが、多忙な母や妹のことを考えると文句の一つも言えなくなる。はたと吐息を払い落としつつ『BOOK KIKI』の前に差し掛かると、そこでは見覚えのある制服の一団が、店先の雑誌コーナーの棚に群がっていた。
「朝霧さんだ」
輪の中心でファッション雑誌を手にはしゃいでいる子の姿を認めるや、叶奈の鼓動は数段ばかり跳ね上がった。その名を朝霧小雪。G組女子カーストの頂点に立つ、キラキラと眩しい女王様のような風格の少女だった。
いま一番に出会いたくない子と出会ってしまった。ここが教室だったなら大歓迎なのだけれど、買い物メモを片手に独りぼっちでうろうろしている今は関わり合いになりたくない。気づかれないようにと首をすくめて通学カバンで脇を固め、叶奈は足を速めて『BOOK KIKI』の前を通過しようとした。
それがよくなかった。
「あれG組の子じゃない?」
誰かが甲高い声を発して、釣られた彼女たちは一斉に叶奈を振り向いてしまったのだ。
叶奈はその場で棒立ちになった。どうして神様は見られたくないときにばかりわたしを見つけるんだろう、と思った。
「えへへ……」
愛想笑いを浮かべて振り返ると、ファッション雑誌から顔を持ち上げた小雪とじかに目線が交わった。彼女はさして関心高くもなく「春風さんじゃん」と宣った。
「何してんの」
「ちょっとね。買い物、行こうかなぁって……」
「へー。何の?」
「その……晩ご飯の材料」
邪険な反応で切り捨てられるのは百も承知だったが、ほかに誤魔化す方法も思いつかなかった。正直に小雪を見つめて答えると、小雪たちは互いの顔を見合わせて、それから愚かな下等生物でも評するかのように噴き出した。
「真面目かよ!」
「晩ご飯の材料って!」
「独り暮らしでもしてんの?」
「そういうわけじゃないよ。わたしの家事の分担だから……」
「へー。偉いね」
「こんなに家事やってるなんて知らなかったよね」
「なー。なんで誰とも仲良くしてないのかと思ってたけど」
これにはさすがの叶奈もむっとした。誰とも仲良くしてないわけじゃない、わたしはみんなと仲良くしたい! ──噴き出した感情が喉元まで這い上がってきたが、結局、叶奈はそれを口にすることなく闇へ葬ってしまった。どんな言葉を返したところで、不毛な事態に陥るのは分かりきっていた。
「そ、それじゃ、わたし行くからっ」
いっときの怒りが収まれば、空いた心の洞に羞恥心が流れ込む。上ずった声を張り上げて強引に挨拶を残し、笑顔だけは頑なに浮かべたまま、傘の柄を固く握った叶奈はふたたび歩き出した。小雪たちの見せた反応は知りたくもなかった。決して耳にも入れないように努力したつもりだったのに、取り巻きの子の誰かが発した嘲笑が背後から飛んできて、べったりと耳にこびりついた。
「──やっぱ変な子だよね」
そうとも。わたしなんて変な子に決まってる。だって転校から一ヶ月も経つのに、未だにクラスに馴染めないし、友達の一人も作れないんだから。
やるせない感情を足に込めて地面を蹴れば蹴るほど、不思議と足取りは重くなって、思うように進めなくなる。濡れゆく傘にしがみつきながら、叶奈はとぼとぼと角を曲がった。きっと母や妹や敦子がいまの叶奈を見ても「変な子」に感じるのだろうなと思った。初めから分かっていたことだ。ありのままの叶奈を認め、受け入れ、親しくなってくれる都合のいい人間など、この世界にはほとんど見当たらないのだから。
同意するような弱々しい声が足元に転がった。
「にぃ……」
心臓が跳ねて、叶奈は足を止めた。子猫の声だ。
どこから叫んだのだろう。周囲に視線を這わすと、シャッターの下りた二棟の雑居ビルの谷間に不審な段ボール箱が置かれている。箱の中で何かが蠢くのを見た気がして、叶奈はおっかなびっくり、そこへ近寄った。
息を飲むのに数秒も要らなかった。段ボールの底に横たわっていたのは、ほんの小さな黒猫だったのだ。びしょ濡れの毛玉の奥で激しく息をしながら、時おり苦しげに「にぃ……」と鳴いている。
「だ、大丈夫!?」
無我夢中で駆け寄り、抱き上げてみると、粘り気のある感触が手の甲に走る。赤黒く染まった右手の甲を見た叶奈は卒倒しそうになった。
鮮血だ。
それも、とびきり温かい。
「ケガしてる……!」
必死で傷を探すと、子猫の腹には派手に出血した痕があった。よく見ると段ボールの中にも血痕が落ちている。どう見ても自然発生的な傷ではない、暴行の痕跡だった。
どうしよう、どうしよう。叶奈の手には負えないし、動物病院にでも連れてゆくべきか。焦って通学カバンから財布を引っ張り出したが、入っている金額が千円にも満たないのを見て叶奈は黒い息を漏らした。もともと小遣いの額面が小さいこともあって、買い物に使うだけの金額しか叶奈は持ち歩いていないのだった。これでは初診料を払うこともできない。
かくなる上は春風家で匿おうか。ちょうどこれから牛乳を買いに行こうとしていたところだし──。一瞬ばかり生じた気の迷いを、いや、と叶奈は打ち消してしまった。母の芽久は大の動物嫌いなのだ。帰宅した母に子猫を見つけられれば、さらにむごたらしい結果になるかも分からない。
「にぃ……に……にゃぁ……」
苦しげに鳴く子猫を胸の前に抱きながら、叶奈は雨の中で途方に暮れて立ち尽くした。
このままこうして叶奈が手をこまねいている間も、刻一刻と子猫の寿命は縮まっている。腹を流れ出した温もりは真紅の涙になって、足元のアスファルトに次々と飲み込まれてゆく。それなのに、叶奈は何もしてやれない。中途半端な優しさで抱き上げてしまった姿勢のまま、動けない。無力感ばかりがいたずらに募ってゆくのを、重くなった胃の底にひしひしと実感する。
ああ。
せめてお金か、匿ってやれる家か、この子を治してやれる技術か、そのどれか一つでもあればよかったのに──。
「……そうだ!」
ひらめいた途端、あれほど重たかった足が瞬く間に軽やかさを取り戻した。胸の中で弱ってゆく子猫をがむしゃらに抱き締め、叶奈は雨の中を走り出した。目指すは動物病院でも、自宅でもなく、敦子の待つ夢野家だった。叶奈は魔女ではないが、知り合いの魔女にならば当てがある。敦子の魔術があれば、子猫の傷も癒やしてやることができるかもしれない。当てにできる人は他に思いつかなかった。
子猫が目を開け、不安げな眼差しで叶奈を見上げている。そのぐったりと闇色に濡れた双眸の奥に、言葉にならない悲鳴を聴いた気がした叶奈は、
「わたしに任せて!」
吹き付ける雨を腕で避けながら無我夢中で叫んだ。
「それでも叶奈、あなたは魔女になる道を選ぶ覚悟を持てる?」
▶▶▶次回 『Sorĉado-05 決心』