Sorĉado-03 魔女
「……魔術が使えること、もっと秘密にしてるのかと思ってました」
「建前上はね。ここいらの人はみんな知っているし、本当は今さら隠すことでもないんだよ。かといって大っぴらにすることでもないからね」
苦笑しながら優雅な手つきで紅茶をすする敦子の姿は、こうして見ると本当に単なる愛想の良い老婆で、叶奈には目の前に広がる現実が未だに上手く咀嚼できなかった。伝え聞くような不気味で恐ろしい魔女とは大違いだ。黒い帽子もマントも身に着けておらず、箒にも乗らず、市井の一般人と同じように生きている。気色の悪さなど少しも感じさせないばかりか、むしろ年相応の高い気品さえ匂わせている。
「ほ、他には何ができるんですか?」
思わず大声を出すと、敦子は細めた目線をティーカップに落とした。
「一通りのことはできるかしら。普通の人間にもできるようなことはね」
「普通の人間にも?」
「何か思い違いをしているかもしれないけどね、魔術は万能じゃないんだよ。身体を鍛えている人は重い物も楽に運べるでしょう? それと同じで、魔術は私の生活をほんの少し楽にしてくれるの。それ以上でもなければ、それ以下でもない」
終わりの方をやけに強調したがる物言いだったが、勝手に掃除を進めてくれる箒を目の前にして、叶奈には魔術の一体どこが『それ以上』でないのか理解できなかった。魔術で箒に掃除をお願いしておけば、その間に自分は別のことに打ち込めるではないか。洗濯にしろ、料理にしろ、宿題にしろ、魔術を用いてやるべきことを迅速に進めれば、叶奈は何人力にだってなれる。しょせん一人分の力を働くことしかできない身にしてみれば、夢のような話にしか思われないのだった。
「わたしも魔術、使えたらいいのに」
意味もなくティーカップをいじくりながら嘆息したら、頬杖をついた敦子が「どうして?」と尋ねてきた。気恥ずかしさが首を上ってきて、叶奈は敦子から視線をそらした。
「その……わたしの家、片親なんです。お母さんしかいないんですけど、お母さんは仕事で忙しいから、わたしと妹で家事を回してて、だからけっこう忙しくて……。わたしが魔女だったら、きっと家事なんて簡単に片づけて、クラスの子と遊んだり勉強やれるのになーって思って」
そればかりではない。魔術を使って親切を働き、周りの好感度を高めれば、こんな叶奈でもみんなとの距離を縮められて、友達だって手に入るかもしれない。もっともっと大きな夢を遂げることだって可能かもしれないのだ。
敦子は黙っていた。視線を彼女に戻し、叶奈はわずかに身を乗り出した。
「あの、夢野さんは生まれた時から魔女だったんですか」
「いいえ。後天的なものだよ。身につけたのはちょうど、あなたと同じくらいの年の頃だった」
「なら、わたしも魔女になれたりしませんか?」
その言葉が来るのを予期していたように、敦子は露骨に表情をこわばらせた。せっかく自分の未来を明るくしてくれる可能性に出会えた、千載一遇のチャンスを無駄にはしたくない。叶奈も懸命に食い下がった。
「わたし、魔女とか魔術のこと何も知らないですけど、知らないなりに頑張って勉強します! 修行だってやります! 必要があるなら学校にも通います! だからお願いです、わたしのこと魔女にしてくださいっ」
頭を下げて頼み込んでも、敦子は返答してくれなかった。十秒ほどの嫌な沈黙が耳元を過ぎ去り、そっと表を上げてみると、目の前の魔女は眉根に困惑のしわを何本も寄せ、吟味するかのように叶奈の様子を窺っていた。
「……ひとつ、誤解は解いておかなきゃならなさそうだね」
おもむろに敦子は切り出した。
「魔女になるのに特別な努力は要らないんだよ。最初の感覚さえ覚えて、ちょっとばかり語学を身につければ、あとは場数を踏むだけで自由に使えるようになる。あなたのように若い子なら、見習いを脱するのに一年はかからないでしょう」
「なら──」
「その代わり、魔女になれる人間には適性があるの。誰もが魔女になれるわけじゃない」
適性、と叶奈は繰り返した。敦子はティーカップを脇に寄せ、肩の張った叶奈にじっと視線を走らせた。
「あなたは優しい子みたいだね」
どぎまぎした叶奈は顔を火照らせたが、敦子の続けた「でも」という接続詞に一瞬で落胆させられた。白髪の下に覗く敦子の目付きは、鳥肌が立つほどに冷静で、真剣だった。
「優しい子は魔女に向かないんだよ。何もかも一人で抱え込んでしまうからね。あなたが魔術を使えるようになっても、たぶん、いい結果にはならない。他ならぬあなた自身が、痛い目に遭って苦しむことになる」
諦めを要求するように、じっと敦子は叶奈を見据える。それでも諦めきれない叶奈は、食らいつく方法を夢中で考えた。
「じゃ、じゃあ一体、どういう子なら魔女になれるんですか」
「適性は色々あるよ。体質だったり、性格だったり、血筋だったり」
「性格だけなら頑張って直してみせます! ほかの適性があるなら、わたし何が何でもっ」
「無理だよ。性格の矯正は簡単じゃない。三つ子の魂百までって言うでしょう」
「そりゃ言いますけど……!」
「魔女の人口比率は百万人に一人って言われている。ここ神奈川県には一千万近くの人間が住んでいるけれど、そのうち魔女は十人にも満たない。魔女になるっていうのは、そのくらい狭き門の世界なんだよ。あなたと同じように諦めるしかない人たちが圧倒的多数なんだと思って、大人しく諦めなさい」
今度こそ反論の余地を徹底的に潰され、叶奈は黙り込むしかなかった。
──百万人に一人、か。道理でこれまでの人生では巡り合わなかったはずだった。世の多くの人々が魔女への憧れを抱かずに生きているのは、もしかすると身の回りに実物がいなかったからなのかもしれない。仮に憧れたとしても、魔女になれる適性を持つ幸運な人間は本当に一握りで、憐れな残りの人間は雁首を揃えて泣き寝入りするしかない。魔術があれば、魔女になれたら、なんて恨み言を吐きながら。
魔女になれたなら、どんなに幸せな人生を送れるだろう。
魔術で何でもできるようになった叶奈は、きっと家庭でも学校でも大事にされる。日々の家事や勉強に追われて一日を過ごすこともなくなり、クラスメートたちにも頼ってもらえる。その連鎖が心のゆとりを生み、やがては友達や恋人を得ることだって──。
情けなく夢想しながら、敦子の淹れてくれた紅茶をすすった。窓から差し込む金の光に照らされた紅茶は、琥珀とルビーのあいのこのように透き通った色をしていて、人の手を介さずに淹れられたとは思えないほどに甘く、優しい、きめ細やかな味がした。優しい人間は魔女に向かないと敦子は言うが、こんな美味しいものを作れる魔女が優しい心を欠いているはずはない。芯まで温まった吐息をそっと漏らしつつ、テーブルの向こうを見やると、敦子はまだ複雑な表情を消さないまま、口元だけに微笑を作って叶奈のことを眺めていた。
敦子は優しい人だ。
だって、叶奈のことを嫌がらないでくれる。
友達の一人も満足に作れない不出来な少女を、この老婆だけは邪険に扱わないでくれる。
「……あの」
思いきって問いを投げかけた。敦子の眉が少し、持ち上がった。
「わたし、またここに遊びに来てもいいですか」
「それはどうして?」
「友達……いないから」
「あら。悲しいことを言うね」
「わたし、この街に引っ越してきたばっかりで、まだ新生活にも慣れてないんです。家にいてもやることばっかりで気持ちが疲れちゃうけど、ここに来ればわたしの知らない生活があって、すっごく気晴らしになると思うんです」
叶奈はカップをそっと置いた。しおれたままの心がコトンと音を立てて、敦子の側に少し転がった。
こればかりは嘘偽りのない、叶奈の正直な心境だった。たとえ叶奈自身が魔女になれないのだとしても、せめて敦子が魔術を使いこなす姿を見て、その新鮮な経験に感動してみたいと思った。たったそれだけでいい。せっかくこうして幸運にも、滅多にお目に掛かれない魔女と出会えたのだから。
「Forigu la tean tason」
また何事かをつぶやき、空になったティーカップが流し台に飛んでゆくのを見送った敦子は、返す刀で視線を叶奈に向けた。
「……まだ名前を聞いていなかったねぇ。あなた、名前は?」
「は、春風叶奈って言います」
「春風叶奈、ね」
敦子は目を少し見開いて、それからじっと細めた。
「素敵な名前だね」
脈絡のない褒め言葉に動揺して、叶奈は「そんなことは……」と口ごもってしまった。赤らむ年頃の娘を眺めながら、敦子は唇の緊張を解き、苦笑気味に口角を上げた。
「いいでしょう。どのみち私は仕事もしていない自由の身だし、いつでも好きな時にいらっしゃい」
その言葉が叶奈の心をどんなに震わせたか、きっと敦子に伝わることはあるまい。
叶奈は夢中で立ち上がった。「本当ですか!」と叫んだ声が高い天井にこだまし、向こうでキッチンの床を掃いていた箒が立ち止まってこちらを窺い見た。
「本当だよ」と敦子はまばたきをした。
「でも一つだけ条件を付けようかしら。いい、私と話すときには敬語を外してちょうだい」
「敬語?」
「お安い御用でしょう」
確かにお安い御用だった。ほぼ初対面の老婆にため口で話すのはどうかと思わなくもなかったが、浮かんだ違和感が幸福感に勝ることはなく、叶奈はためらいを挟まずに「分かりました!」と応答した。しまったと思って口を覆うと、今度こそ敦子は苦笑してくれた。
「私はこの街で最初のお友達になるようだね。よろしくね、叶奈」
「わたしこそ!」
嬉しくて、嬉しくて、叶奈も笑い返した。この街のクラスメートには未だに見せたことのない、底抜けに明るい渾身の笑顔をようやく引き出せたことが、今は何よりも嬉しかった。
◆
二年G組の教室では、用事でもない限り、誰かに声をかけられることはない。なので頭上から声が降ってくると、不意打ちを食らった心が跳ねてしまう。
「春風」
登校早々、席を立った葉波円花に声を掛けられ、叶奈の身体は驚きで数センチほども浮き上がった。彼女は折り畳み傘を手にして叶奈のもとへ歩いてくるところだった。
「わ、びっくりした。葉波さんか」
「傘、返す。ありがとう」
「あ、ううん全然……」
どもりながら受け取りつつ、ふと我に返って、願ってもない感謝の言葉をかけられたことに気づいた。しかし円花は早くも叶奈に背を向け、自分の席へ戻ってゆこうとしている。その背中に会話の意思はもはや見受けられない。丁寧にしわを伸ばして畳まれた傘と、ぴんと伸びた彼女の背筋を見比べながら、叶奈は言いようのない物悲しさを吐息に混ぜてそっと漏らした。
ひとりぼっちで友達のいなかった叶奈の目にも、葉波円花という少女は以前から異質に映っていた。他の同級生たちと比べても、不愛想の度合いが桁違いに高い。そもそも根本的にクラスメートから話しかけられない叶奈と違って、円花は話しかけられても淡白な態度を崩さない。叶奈が自発的に心を開いて近づこうとする子なら、円花は誰の前でも心を閉ざして距離を取っている印象がある。もとはと言えばそんな彼女の素性に親近感や好奇心を覚えて、あわよくば友達にもなりたくて、雨天の軒下で傘を貸したのだった。けれども、ぴんと律義に閉じられて返却されてきた傘の姿に、彼女の答えは嫌というほど凝縮されていた。
「……いいもん」
遠ざかってゆく友達候補の後ろ姿に、叶奈は鬱屈した心のかけらを投げつけた。
「わたしにだって今は友達がいるんだから」
春風家はシングルマザーの家庭だったが、当の母・春風芽久もまた、シングルファザーの家庭で育った女性だった。つまり叶奈には祖父がいる。祖母がいた時代もあったのだろうが、少なくとも叶奈には物心がついて以降、祖母と会った記憶は一度もない。だから、初めて出会って親しくなった老婆のことを叶奈が「おばあちゃん」と呼ぶようになったのは、叶奈にとっては自然な流れだった。敦子は決して良い顔はしなかったが、それでも叶奈が敦子を「おばあちゃん」と呼べば仕方なく返事をしてくれたし、重そうな腰も上げてくれた。
叶奈が夢野家を訪問する習慣は、出会った翌日にはさっそく当たり前のものになった。
学校が終われば、誰に呼び止められることもなく校舎を出て、そのまま自宅には寄らずに敦子のもとへ赴く。そうして敦子と他愛のない話をしつつ、宿題に取り組みながら二時間ほど時間を潰し、夕暮れのグラデーションを見上げながら帰路につく。時には下校前に図書室へ寄って本を探し、夢野家の広いカーペットやゆったりとしたソファの上で読書に励むこともした。広いカーペットも、ゆったりとしたソファも、そして何より一切の家事から解放されたストレスフリーな時間も、春風家の狭い団地には決して見当たらないものだった。
「叶奈は本当に紅茶が好きだね」
毎度のごとく紅茶をねだる叶奈を見て、敦子はいつも呆れたように笑った。淹れる際に必ず魔術を使っているせいか、敦子の用意してくれる紅茶の味は常に安定した美味しさを湛えていて、たちまち叶奈の大好物に成り果てたのだった。
「だって温まるもん」
「五月にもなろうかっていう時期になって『温まる』なんて感想を聞くとは思わなかったよ」
「温まるっていうか、味が好きっていうか……。おばあちゃんが魔術で淹れてくれると、なんだかすごく優しい味がして」
紅茶ばかり偏愛しすぎて機嫌を損ねてしまっただろうか。しょげてみせると、敦子は「そんな悲しい顔しないの」と目を細め、空になったティーカップにたちまち中身を用意してくれる。家ではこんな具合に誰かに甘えることはできない。いたずらにオトナであることを求められず、年相応の子どもとして扱ってもらえることが、どんな場面でも自立した長女であることを求められてきた叶奈にとっては新鮮な体験だった。せめてもの誠意を見せたくて、お礼のお菓子を持ってゆくこともしばしばだった。
敦子は叶奈の前でさまざまな魔術を披露してくれた。洗濯物を畳む魔術、机を拭く魔術、トイレや風呂を磨く魔術、夕食を作る魔術、要らなくなった暖房器具を段ボールに収納して倉庫にしまう魔術──それこそ枚挙にいとまがない。どれ一つとっても単なる家事労働に過ぎず、異能と呼ぶにはいささか大人しいものだったが、いかなる些細な魔術であっても叶奈の目を輝かせるには十分だった。だって、何でもかんでも呪文一つ唱えただけで、手のひらさえ触れずにやってのけてしまうのだ。魔術を持たない叶奈に同じ芸当はできない。だいたい敦子が何の言語を使っているのか、呪文の意味が何なのかさえ分からない。
おばあちゃん、すごい。
やっぱりわたしもこんな風に魔術を使ってみたい。
敦子の傍らで魔術を眺めていると、押し隠していたはずの欲がむくむくと心の奥に膨らみかける。夢野家を後にして自宅に帰れば、そこでは山のような家事が叶奈を待ち受けているのだから、どだいそれも無理のない話だった。それでもときどき心が弱って「魔女っていいな」などとつぶやこうものなら、たちまち敦子に厳重にたしなめられた。
「憧れない方がいいって言ったでしょう。叶奈には分からないと思うけどね、魔女として生きていると弊害も多いんだよ。面倒ごとにも色々と巻き込まれるし、痛い目にも遭うかもしれない。軽い気持ちで目指すと後悔するよ」
「分かってますよぅ。そんなに怖い顔で言わなくたって……」
むくれた叶奈が諦めを口にすると、敦子は大抵、ほっと息を漏らして肩の力を抜いてくれた。うだうだと諦めの悪い叶奈に業を煮やしているのかと初めは考えていたが、敦子の面持ちを観察する限り、どうやら安堵を覚えているらしい。怒りでなく安堵を覚える理由は分からないが、少なくとも敦子にとって、叶奈を魔女にするというのが絶対的なタブーであることは確かなようだった。こんな些細なことで敦子の不興を買って出禁にされてはたまらない。叶奈の方も用心して、どんなに油断しようとも「魔女になりたい」とは口走らないように努めた。
たとえ叶奈が魔女でなかったところで、ここには叶奈の居場所がある。
どんな魔術が使えたって手に入らないものが、ここにある。
そう思っていれば、勉強や家事に追われて忙しない日常の合間にも、ほんのわずかな心の安らぎを得られるのだった。
「誰とも仲良くしてないわけじゃない、わたしはみんなと仲良くしたい!」
▶▶▶次回 『Sorĉado-04 変な子』