Sorĉado-02 老婆
この世に『魔女』と呼ばれる女性たちがいることは、それほど世俗に明るくない叶奈でも知っている。その人数は日本中を見渡してもほんのわずかで、叶奈も実物とお目にかかったことはないが、聞くところによれば魔女は不可思議な万能の力──魔術を自在に用い、それゆえに人々から恐れられているのだという。
実物に会ったことのない叶奈には、魔女が恐ろしいものだと聞かされてもピンと来ない。かといって積極的に関わり合いになりたいわけでもなかった。ただ、万能の魔術には常日頃から漠然と羨望を抱いているし、それは世の多くの人々が同じはずだと思う。あんな異能が叶奈にもあれば、豪雨の中を帰宅することなど造作もない。その気になれば自宅から傘を取り寄せられるし、なんなら濡れることなく自宅に瞬間移動することもできる。そればかりか万能の力をもってすれば瞬く間に親しい友人を見つけて、家事や運動や勉学にも苦心しなくなって、素晴らしく幸せな日々を手に入れることさえ可能だろうに。
我が身の凡人っぷりを情けなく嘆いている間も、雨の止む気配はいっこうに見られない。もう、濡れる覚悟で帰ろうかな──。重い腰を持ち上げて膝の砂を払い落とし、ため息の臭いに溺れながら家路につこうとした、その時だった。
「傘、忘れたのかしら?」
頭上から柔らかい声が降ってきた。
不意打ちに釣られ、叶奈は顔を上げた。大きな黒い傘を差した女性が叶奈の前に立ちふさがっていた。逆光で顔が上手く伺えなかったが、声のしわがれ具合からして、七、八十の老婆であるようだった。
とっさに叶奈は嘘をついた。
「忘れてなんかないです」
「じゃ、こんなところで何をしているの」
「友達と待ち合わせしてるんです」
思い付きとはいえ、つくづく惨めな嘘をついたものだと悲しくなる。じゅくじゅくと傷んだ心が腐敗臭を漂わせ、叶奈はふたたびカバンを抱え込もうとしたが、顔を覗き込んだ老婆が「嘘だね」と一蹴する方が早かった。
「……え?」
「お友達と待ち合わせているような顔には見えないね。おおかた誰かに傘を貸したか、さもなくば盗られたんでしょう」
「な、なんですか。事実無根です、言いがかりですっ」
「つまらない意地を張るのはよしなさい。傘も差さずにこんな雨の中を歩いたら風邪を引くよ」
事実を突きつけられた上に正論まで塗り重ねられ、抵抗できなくなった叶奈は悔しさのあまり唇を噛みしめた。そこまで分かっているなら、この老婆は何のつもりで叶奈に声などかけたのだろう。つまらない憐れみか冷やかしのつもりか。切なさと苛立ちのあまり邪推が募ったが、捨て猫入りの段ボールを見つけたような眼差しで叶奈を眺める老婆の顔に、その嫌味な邪推は上手く反映できなかった。
「これ、使いなさい」
老婆は持っていた傘を差し出した。そして、叶奈が疑問を口にする前に、その答えに先回りした。
「私は雨の中でも平気だからね。仮に風邪を引いたとしたって、あなたと違って失うものは何もないよ」
「わたしだって失うものはないですけど……」
「屁理屈を言うんじゃないの。ほら、受け取りなさい」
しぶしぶ、言われるままに叶奈は傘を受け取った。ずっしりと重い傘が、納得のいかない心と絡まって深々と腕に沈んだ。今しがた叶奈の傘を受け取ってくれた円花も、存外、こんな心境だったのかもしれない。やはり押し付けの親切は誰も幸せにしないのだ。塩辛い味のする失望を重ねつつ、か細い声で「ありがとうございます」とお礼を述べると、老婆は満足を覚えたように口元へしわを刻んだ。
そうして次の瞬間、長いレインコートを翻しながら雨の中へ躍り出た。
「あっ……!」
呼び止める間もなかった。慌てて傘を差しながら立ち上がり、追いかけたが、老婆は十メートルも走らないうちに道を渡り、雑居ビルと雑居ビルの合間に伸びる路地に入って行ってしまった。叶奈も夢中で路地に駆け込んだ。あなただって濡れるべきじゃないです、せめて相合傘で帰りましょうと提案するつもりだった。
ところが、路地まで駆け込んだところで叶奈は足を止めてしまった。
すでに老婆の姿はそこになかったのだ。
両側のビルを見上げたが、窓や扉や進入口のようなものは見当たらない。路地の長さは目測でも五十メートル以上ある。老婆が入ってから叶奈が滑り込むまでのわずかな時間に、老婆の足で反対側まで到達できる距離ではない。おまけに路地にはバケツの一つも転がっておらず、身を隠すだけの障害物もない。
「なんで……?」
路地の真ん中に立ちすくんだまま、叶奈はつぶやいた。途方に暮れて発した疑問符が、足元に溜まった水の中に落ちて溶けた。
足場が悪くて滑りやすい。不意の段差につまづきかけ、慌てて足元を見やった叶奈は、水溜まりの傍らに一冊の手帳が転がっているのを見つけた。拾い上げて持ち主の名前を探すと、後ろの方のページに女性の名前が書き込まれている。
「……夢野敦子」
叶奈は名前を読み上げた。名前の下には住所も書いてあった。叶奈の住む町と同じ、神奈川県友枝市の海沿いに広がる地名が記載されている。
もしや、さっきの老婆が落としていったものかもしれない。いずれにしても届け出た方がいい。ハンカチで手帳を包み、慎重に水気を取りつつ、老婆の動向を叶奈はひとつひとつ思い返した。
──『私は雨の中でも平気な身体だからね』という台詞。
──路地からの一瞬での失踪。
──残された痕跡は皆無。
まさか、と思った。何かの勘違いだと自分を諭そうとしたが、目の前に横たわる現実がそれを許してくれなかった。なぜって、あんな芸当のできる人種を叶奈は一つしか知らない。
魔女だ。
魔女は瞬間移動ができると聞く。この不可解な現状を説明できる方法があるとすれば、それは魔女の使う魔術をおいて他にはない。
悪寒が足首のあたりを駆け抜けてゆく。寒気の中に痺れるような快感を見出して、それが好奇心の燃え残りであることを自覚した時には、頭で考えるのをやめた叶奈は傘の柄を握りしめながら路地を抜け、ひたひたと路面の沈みゆく商店街を駆け出していた。
魔女の恐ろしさなどはどうでもよかった。ただ、真実が知りたい。あの老婆が本当に魔女なのかが知りたい。それさえ知れば他のことは何でも構わなかった。無我夢中で傘にしがみつき、荒天の歩道を駆け抜けながら、こんなにも夢中にさせるほど彼女への好奇心が募っていることに叶奈自身も驚いていた。
◆
夢野敦子の家は森に囲まれた屋敷だった。ごくありふれた住宅街の真ん中にあって、高い生け垣や鬱蒼とした屋敷森を持つ夢野邸の雰囲気はひときわ異様で、友枝市に移住してきたばかりの叶奈にも濃厚な違和感を植え付けた。思わず間違いを疑いかけたが、手帳に記載された住所とスマートフォンの位置情報は確かに一致していたし、門には【夢野】と書かれた表札が掲出されている。
借り物の傘を丁寧に折り畳みつつ、叶奈は門の前に立った。雨上がりの湿気た空気がセーラー服にまとわりついて、静かな緊張をいやに際立たせた。
「ここが、あのおばあさんの……」
つぶやく声も心なしか震えてしまう。震えを帯びた指でインターホンを押し込み、反応を待った。てっきり応対してもらえないかもしれないと不安を覚えたが、玄関の扉は存外あっけなく解錠され、中から見覚えのある老婆が顔を覗かせた。
「誰です?」
「あ、あの、わたし夕方に『BOOK KIKI』のところで傘を貸してもらった者なんですけどっ」
叶奈は夢中で声を張り上げた。ここで老婆──夢野敦子に逃げられてはたまらない。論より証拠と思って傘を差し出すと、敦子は鼻にかけていた眼鏡をくいと押し上げ、頭のてっぺんからつま先まで叶奈のことを観察し尽くした。
「どうしてここが分かったのかしら」
「その、さっき去り際に手帳を落としてゆかれましたよね。あれに名前と住所が載っていて」
「あらあら、拾ってくれたんだね。見当たらないと思っていたところだったんだわ」
敦子は一転して頬を綻ばせた。不興を買わずに済んだことに安堵しつつ、いそいそとカバンから手帳を取り出して、これも一緒に敦子へ手渡した。
「しかしあなたも物好きだね」
手帳の中身を確認しながら敦子は苦笑した。
「物好きですか?」
「こんな汚い手帳一つ拾ったくらいで、わざわざ住所を確認して届けに来るなんて珍しい子だよ。普通は交番にでも届けて終わりでしょう」
「あ、それは……」
魔女なのかどうか確かめたかったから、と口走りかけた叶奈は慌てて唇に封をした。隠れて魔術を使っていた以上、敦子には何か、周囲に魔女であることを隠す理由があるのかもしれない。こんな住宅街の真ん中で、わざわざ大声で話すことでもない。
「その、実は……見たんです。わたしに傘を貸してくれたあと、おばあさんがあっという間にいなくなってしまったのを」
うんと潜めた声で切り出すと、敦子の額にはたちまちしわが寄った。
「それで、えっと、わたし思ったんです。そんなことできるの、魔術を使える人くらいしかいないよなーって……」
「私が魔女なのか調べに来ようと思ったんだね」
「う……」
「ま、いいでしょう。これまで何人も似たような人を家に上げてきたからね」
縮こまる叶奈の姿を見て警戒心を解いたのか、敦子は「おいでなさい」といって門を開けてくれた。拒まれるかと腹を括っていた叶奈は拍子抜けしたが、ともかく促されるままに階段を上り、洋風に設えられた玄関の戸をくぐって、夢野家に一歩を踏み入れた。
敦子はまだ、自分が魔女だとは一言も認めていない。しかし実際に魔女だったとしても、さすがに初対面同然の女子中学生を取って食ったり、煮込んで薬の原料に使用したりはしないだろう。いや、それとも彼女が実は黒魔術を使う悪い魔女で、おびき寄せた人間を取って食うような危険人物だとしたら? 母や学校の先生やクラスメートたちの言うように、得体の知れない術を使う恐ろしい存在だとしたら──?
冷や汗を拭いながら居間を覗き込んだ叶奈は、くだらない妄想に浸りかけた自分をたちまち恥じ入った。
そこに広がっていたのは、ごく普通のリビングダイニングの光景だった。テレビ台の上には薄型テレビがあり、カウンターには炊飯器と給湯ポットが乗っかり、床に敷かれたカーペットは優しい春の緑色をまとっている。瞳を閉じれば爽やかな香りが鼻腔に萌える。叶奈の家と比べても居心地の良さに引けを取らない、ありふれた居間の世界だった。──箒がひとりでに床を掃いて回っているという、たった一つの重大な差異さえ除けば。
「あ、あれ、あれ!」
叶奈は思わず箒を指差して叫んでしまった。箒は動きを止め、あろうことか叶奈に向かってお辞儀をした。驚愕する叶奈を意にも介さず、敦子は「サマンサっていうのよ」と微笑しながら部屋に踏み込んでゆく。
「執事の代わりをしてもらっているの。大半の家事は私が自力でしてしまうから、掃除くらいしか任せていないけれどね」
話しながら、敦子はどこからかティーカップを二つ取り出してきた。そうして、叶奈の目の前で白い手袋を右手に嵌め、聞き覚えのない言語を口にした。
「Verŝu nigran teon en tason」
叶奈は我が目を疑った。ティーカップが音を立てて揺れたかと思うと、そこには宝石のように澄んだ色の紅茶が二杯、なみなみと湯気を立てていたのだ。
「これで、あなたの疑問を晴らすには十分だろうかねぇ」
微笑した敦子は食卓の椅子に腰かけながら、向かいに座るよう目配せをしてくる。興奮と衝撃で粟立つ肌をなだめ、おそるおそる叶奈も椅子に座った。
「優しい子は魔女に向かないんだよ。何もかも一人で抱え込んでしまうからね」
▶▶▶次回 『Sorĉado-03 魔女』