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Sorĉado-26 罪滅ぼし

 



 地震で給食調理室や図書室を焼かれた木之本中は、火災の起きた教室を閉鎖した上で、一週間後に授業を再開した。地震発生を受けて各地から集まってきた魔女たちの協力で、倒壊家屋の多くが速やかに復旧され、避難所が早々に不要になった結果の学校再開だった。

 再開早々、期末試験が叶奈たちを待ち受けている。通学路上を行き交う生徒の大半は単語帳やノートに目を落とすか、友達と答えを教え合っていたので、叶奈も思いのほか視線を気にすることなく、一週間ぶりの道を学校へ向かった。教室に一番乗りする気で足取りを速めていたので、周りを気にする心の余裕もそれほどなかった。

 校門の前では円花と待ち合わせていた。勇気を出して「おはよう」と声をかけると、円花は気まずげに下を向いた。


「……おはよう」

「元気ないの?」

「違う。その……こういうことするのに慣れてないだけ」

「わたしもだよ。なんか変な感じするね」

「春風の方から声かけてきたくせに」


 素っ気なくそっぽを向きつつ、円花は叶奈の先に立って昇降口に入ってゆく。膨らんだ頬が仄かな赤みを帯びていたことに気づいた叶奈は、沈みかけだった心がわずかに浮き上がるのを感じながら、ぱたぱたと円花の背中を追いかけた。

 津波の迫り来る直前、ひとりの少女が海沿いを走り回って避難の手助けに励んでいたという噂話は、救われた人々の口から次々と世間に知られていった。けれども少女の正体が木之本中の三年生であることは、今もなお世間に知れ渡っていない。ひとたび木之本中の校門をくぐれば、そこでは叶奈は相変わらず「一時は犯罪の容疑をかけられた危険な魔女」という認識の視線を注がれる。廊下で叶奈とすれ違えば誰もが避けて歩くし、目さえ合わせてくれない。その残酷な事実を眼前に突き付けられると、分かっていたはずなのに心がチクチク痛む。


「かえって歩きやすいくらいじゃない」


 円花は意にも介していなかった。叶奈を前に立たせ、生徒たちの避けた後をのんびり歩こうとする。人除けに使わないでほしいと不満を溜めつつ、「ね」と叶奈は尋ねた。


「その……大丈夫なの。学校でもわたしと一緒にいたら色々と誤解されるかもよ」

「何が誤解されるっての?」

「それはその、魔女とつるんでる葉波さんも気味悪いヤツだ、みたいな……」

「そう思いたい人には思わせとけば。もともと教室でも孤立してたんだし」


 鼻で笑った円花は、「それに」と続けながら叶を振り向いた。

 不愛想だった口の端が、わずかに上を向いていた。


「春風が悪い魔女なんかじゃないことを私が知っていれば、それで十分でしょ」


 とくん、と胸が軽やかに鳴って、何か熱いものが込み上げてくるのを叶奈は覚えた。どれだけ魔術を駆使してもクラスの便利屋扱いを受けるのが関の山だった叶奈が、初めて魔術を使って勝ち取った信頼の欠片が、いま円花の胸元に燦然と輝きを放っている。なぜか気後れがして、小声で「忘却魔術をかけるような魔女でも?」と訊くと、「何を今さら」と彼女はまた鼻で笑った。


「早く行くよ。机の落書き、みんなが来る前に消すんでしょ」

「そうだった。忘れてた」


 急かされるままに叶奈は歩き出した。

 教室に入れば、いじめの痕跡が刻まれたままの机が叶奈を出迎える。手作業で消すのだけはごめんだが、円花の眼前ならばともかく、魔女アレルギーの強いクラスメートの前ではまだまだ魔術を使えない。早起きして一番乗りを目指したのはそのためだった。どのみち机は期末試験で使うので、いつかは掃除しなければならないことになっていたのだった。

 だが、教室についた叶奈と円花を、思いがけない光景が出迎えた。


「……朝霧さん?」


 叶奈の机にうずくまって何かをしていた少女は、飛び上がるような動きで叶奈を振り返った。図書室の火災で頭部と呼吸器に怪我を負って入院していたはずの、朝霧小雪だった。


「よかった。学校、来られるようになったんだ」


 おそるおそる叶奈が尋ねると、「まぁ」といって小雪はこめかみを掻いた。


「頭も肺も軽傷だったからさ。二日で退院した」

「それで退院早々、春風の机に落書きね……」


 円花が呆れ声でつぶやくや、肩を跳ね上げた小雪は「違う」と言い張った。彼女の後ろ手に隠されていたものがゆっくりと姿を現すのを、叶奈も、円花も、固唾(かたず)をのんで見守った。

 隠されていたのは雑巾と消毒用エタノールだった。


「消そうとしてたんだよ。だけどなかなか消えなくて」


 小雪はうなだれた。意表を突かれた叶奈は、地面から生えたように動けなくなった。


「あたし、ずっとあんたが嫌いだった。大好きだった人を目の前で横取りされたショックで、あんたの本性が何も見えなくなってた。あたしから何もかもを奪っていく極悪魔女だって、心の底から思い込んでた。実際問題そう見えたんだから仕方ないよね」

「……うん」

「でも、さんざん蹴ったり殴ったりいじめたりしてきたくせに、あんたはあたしのことを助けようとした。『助けたかったから助けた』とか何とかバカなこと言いながら、燃えてる図書室に乗り込んできて魔術なんか使って火を消して、崩れた本棚の間で死にかけてたあたしを見つけて、また魔術なんか使って……」


 叶奈は息を詰まらせた。

 あの場で意識が戻っていなければ、叶奈が『助けたかったから助けた』と言ったことなど知っているはずもない。火の消えた図書室で叶奈と円花の交わしていた言葉を、小雪はみんな聞いていたのだ。


「バカだよね。ほんとバカ。信じらんないようなお人好しバカ。初対面の男に言い寄られても首を横に振れない、最初から最後まで悪気のないバカ。目の前のクラスメートを助けたばっかりのくせに無理して街中の人間を助けようとか考える、どうしようもないくらいのバカ。……そんで、そのバカにあたしはずっと悪魔みたいな幻を重ねて、必死になって牙をむき続けてきたんだ」


 吐き捨てた小雪の眼差しが、ぐったりと叶奈の机に注がれる。ありとあらゆる罵詈雑言の散りばめられた机は、窓から差し込む朝日のかけらを浴びて白く光っている。


「だからこれはあたしなりの罪滅ぼし。あたしが消さなきゃいけないんだよ」


 机を睨みながら小雪は言い切った。

 響きのいい声がわずかに震えていた。震えを誤魔化さんとばかりに彼女は雑巾を握りつぶし、ふたたび机の落書きに挑もうと腰を落とす。その丸い背中にじんと心が染みて、気づけば叶奈は誰に言われるでもなく革手袋を引っ張り出し、右手に嵌めていた。あっと円花が押し止めるような声を発しかけたが、耳に入れなかった。


「Elŝiru la graffiti sur la skribotablon(机の落書きを消せ)」


 一陣の風とともに落書きが消し飛んだ。

 目の前の取り組みを一瞬で台無しにされた小雪は、「何すんのよ!」と怒りもあらわに叶奈を振り向く。革手袋を外してカバンに突っ込みながら、叶奈は不器用に笑った。


「初めからこうするつもりだったの。いたずら書きをされるような真似をしたの、元をただせばわたしの方だから」

「それは確かにそうだけどさぁ!」

「それで、あのね。……わたし、これからもまた、朝霧さんにお節介を焼いてもいいかな」

「は?」

「告白の手伝いは上手くいかなかったけど、他のことなら何でもできると思う。宿題だって手伝えるし、簡単な仕事ならすぐに終わらせられる。次こそはきっと朝霧さんの気持ち、満足させてみせるから……」


 提案の意図を掴みかねたように小雪は黙り込む。確かな熱意を瞳に宿したつもりで、叶奈は沈黙する小雪を一生懸命に見つめ返した。憤りと当惑の狭間で立ち尽くす彼女の姿に、隠しきれない嬉しさがじわじわと足元から湧き出しつつあった。

 ずっと、実感が掴めなかったのだ。あの地震の日、襲来する津波から街を救ったのは間違いなく敦子の功績で、叶奈はそのお供を務めたのに過ぎなかった。何十人もの人々を避難所まで送り届けたのにしても、面と向かって礼を言われたわけではないし、そもそも助け出された人々は誰ひとり、救世主の正体に気づいていない。倒れて動けなくなるまで魔術を使い続けて、それで果たして叶奈は本当に人々の役に立てたのか──。その答えを、小雪が教えてくれた。誰よりも早く図書室に駆け付けて消火や蘇生を行った叶奈の努力を、誰よりも叶奈を嫌っていたはずの小雪が認めてくれた。

 だから、これからも小雪の役に立ちたい。

 誰かの役に立てる魔女であることを、小雪のもとで証明し続けたい。

 その果てしのない営みの先で、ようやく叶奈はみんなに存在を認められる。得体の知れない魔女という悪印象を払拭して、信頼を得たい。頼られる魔女になりたい。敦子を失って以来、泥沼の底で溺れながら死にかけていた本来の意欲を、小雪は叶奈のもとに取り戻してくれたのだ。


「……どこまでお人好しだったら気が済むんだよ」


 やがて小雪は苦笑した。それも一瞬のことで、彼女はすぐに目尻を吊り上げて表情を険しく整えた。


「言っとくけどあたし、あんたに大鳥居を取られたこと許したわけじゃないから。そこんとこ忘れないでよね」

「うん。それは、分かってる。悪かったって今でも思ってる」

「あいつを惚れさせろって頼んでも聞き入れてくれんの?」

「やれたらいいけど……それやったらわたし捕まっちゃうよ。人の心を操るのは服従の魔術っていって、絶対に使っちゃいけない魔術だから」


 同じく『絶対に使っちゃいけない』忘却魔術を使った相手の前でこんなことを言うのは、本当はちょっぴり気が咎める。それでも正直に事実を吐露すると、思いっきり眉を下げた小雪は「やっぱ役立たずじゃん、魔術」とぼやきながら背もたれに寄り掛かった。いつしか険しさは影をひそめ、その横顔には薄い赤みが差していた。


「……ま、そのくらい役立たずの方がこっちも安心できるか」


 穏やかな口ぶりで小雪はつぶやいた。

 なぜか訳もなく、こらえきれないほどの高揚感が足元から湧き出して、叶奈は目尻を拭いながら微笑んだ。円花も困ったように微笑んでいた。「ニヤニヤすんなよ」と毒づきながら小雪も笑っていた。しまいには三人そろって頬を桃色に染めながら、それぞれの席について試験勉強の続きに取り組み始めた。

 開いたままの窓から吹き込んだ風が、しきりに叶奈たちの足元をくすぐっては回り、踊り、虚空に舞い降りてゆく。

 どこへ行っても異物扱いの魔女が一人と、その被害に遭ったクラスメートが二人。仲違いを乗り越えて真夏を迎えた三年G組の教室には、新たな日々の幕開けを歌う潮騒のコーラスが静かな波紋を立てていた。





「だから叶奈には立派な魔女になってもらわなきゃ困るの」


▶▶▶次回 『Sorĉado-27 仲間』

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