Sorĉado-25 真実
初夏の友枝市を襲った大地震は、震度六強を誇る破壊力で街中の木造家屋を倒壊させ、交通やインフラを遮断して都市の機能を破綻に追い込んだうえ、推定高さ十二メートルに及ぶ巨大津波を沿岸に送り込んだ。多くの人々が倒壊家屋の下敷きになり、火災で街を追われ、押し寄せる津波の恐怖に逃げ惑った。誰もが市街地の壊滅を確信し、命の覚悟さえ決めようとしていた。無人の海岸線に突如として出現した大量の消波ブロックと堤防が、その頑丈な身体で大津波から市街地を守り抜く衝撃の光景を、上空の報道ヘリコプターは驚きの声とともに全国のテレビへ実況した。
──『信じられません。あの堤防はいったい誰が用意したのでしょうか? ただいま照会したところ、友枝市や神奈川県の防災計画においてもあのような堤防の建設は想定されておらず、まったくの詳細不明であると……』
この映像は翌日も使い回され、SNS上にも瞬く間に拡散。「見知らぬ女の子が現れて避難所に送り届けてくれた」「魔女を名乗る人々に瓦礫の下から救い出された」といった多数の経験談とともに、不可解な力を持つ魔女たちの仕業なのではないかとして大きな話題を呼んでいった。地元首長や市民団体、辛辣な語り口で知られる情報番組のコメンテーターすら、この一件が本当に魔女の仕業であるならば、という前置きの上で魔女を絶賛した。世の中を惑わす悪い存在が、今度は立派に力を活かして人々の営みを救ってくれた。我々は感謝することしかできない──という。
それは、叶奈の知る限り初めて、世間が魔女の功績を公に認め、微笑んでくれた瞬間だった。
幾度となく目にした上空からの実況映像が、今日もテレビの画面を賑わしている。もはや真面目に見る気も起こらず、惰性的に意識だけを画面へ向けていると、リモコンを手にした咲季が「消すよ」と嘆息して、本当にチャンネルを変えてしまった。
「もう見ない方がいいよ、これ。あの魔術ナントカ局の人もそう言ってたじゃん」
「……見ようと思って見てたわけじゃないよ」
「だったらもっと楽しいもの見てさ、早く元気出してよ。その方がおばあちゃんだって喜ぶでしょ」
叶奈の抗弁を淡々と切り捨てた咲季は、一瞬ばかりベッドの中に視線を落としてから、複雑な面持ちで部屋の扉を開けた。慌てて「どこ行くの」と尋ねると「トイレ」と返答があったので、ほっと胸を撫で下ろしながら、叶奈は純白のベッドにかじりついた。
枯れ木のような老婆の寝姿が横たわっていた。耳をすませば、消え落ちそうなほどの微弱な呼吸が口元をわずかに潤している。このぶんではテレビの音量を上げようとも敦子の耳には届くまい。それでも叶奈はこっそりリモコンを握り、チャンネルを元の情報番組に戻して、音量を上げた。自分の作った堤防が無数の人々を救い、日本中の賛美を集めていることを知れば、夢野敦子も目を覚ましてくれる気を起こすかもしれない。それがどんなに幼稚な妄想であるかを頭の片隅では分かっていても、やめられない頑固さを同時に叶奈は持ち合わせていた。
「ねぇ、おばあちゃん」
へにゃりと叶奈は笑った。
「みんな感謝してるってよ。宮藤さんも『さすが夢野さんね』って感心してたよ。このまま眠り続けるなんてもったいないよ。目ぇ覚まして、みんなの前で胸を張ろうよ。私が作った堤防なんですよ、って」
敦子は目を覚まさない。そっと指を伸ばして、怒られる覚悟で敦子のまぶたを開いてみたが、漆黒に沈んだままの瞳は相変わらず微動だにしない。夢も見れていないんだな──。切なくなってまぶたを閉じた叶奈は、戻した手を膝の上に固め、きゅっと握りしめた。
こんなとき、どうしても試したくなる。
握りしめた右手には革手袋が嵌まっている。
「……Veku avinon(目を覚ませ)」
うつむいたまま、詠唱した。敦子に変化はない。
「Restarigu la forton de via avino(体力を元に戻せ)」
「Veku la konscion de via avino(意識を覚醒させろ)」
「Aktivigu la spiron de avino(呼吸を活性化させろ)」
立て続けの詠唱にも敦子はびくともしない。弱り切って水気の抜けた顔のまま、何も言わずにベッドの中へ沈んでいる。せめて、わたしの手から温もりの一滴でも吸い取ってくれたら──。祈る思いで敦子の右手を握りしめたが、どれだけ時間が経とうとも敦子の冷たさが肌に染みるばかりで、がっかりした叶奈は手を離した。
きっと叶奈が未熟なせいだ。
もっと頑張って、一人前の魔女になれていたなら、ほんの一息で敦子を元に戻してあげられたのに。
「……ごめんね、おばあちゃん」
震える声で呼びかけた。こらえきれなかった光の粒が膝に弾けて、ぐったりと濡れながら落ちていった。
「ごめんね……役立たずなわたしでごめんねっ……わたしのことずっと守ってくれたのに……わたしは……おばあちゃんのこと、守れなかった……っ」
啜り泣く叶奈の背後で、静かに扉の開く音がした。忍び込むようにして病室へ戻ってきた咲季は、ベッドに突っ伏して嗚咽を漏らす姉の隣にそっと椅子を置いて腰掛け、溜め息をこぼして、それから背中を撫でてくれた。その手付きがあまりにも敦子のそれに似ていたものだから、叶奈は募り過ぎた悲嘆を喉に詰まらせて、またも無様な嗚咽に息を詰まらせた。
思えば、長らく不思議に感じていた。
初対面も同然の状態で夢野家を訪れた叶奈に、どうして敦子は敬語の使用を辞めさせ、叶奈が「おばあちゃん」と呼ぶのを止めなかったのか。何の責任も持てないはずの他所の子に丁寧な手ほどきを与え、一人前の魔女に育てようとしてくれたのか。大人しく罪状を認めて警察へ出頭しようとした叶奈を、なぜ引き留めてくれたのか──。
その答えを与えてくれたのは、宮藤だった。
叶奈が応接室を飛び出した後、被災現場に出て救援活動の指揮を取っていた彼女は、敦子が意識を失ってまもなく、数人の魔女たちを引き連れて堤体上に姿を現した。敦子の容態観察と搬送を手早く済ませ、第二波の襲来に備えている巨大堤防を見渡しながら、宮藤は泣き疲れて座り込んでいた叶奈のもとに腰を下ろしたのだった。
「そんなにしょげないで。あなたのおばあさんは命を落としてはいないから……」
口にしかけた励ましの言葉を宮藤は大慌てで飲み込んだが、すでに手遅れだった。泣き腫らした目の叶奈に「わたしのおばあちゃんってどういう意味ですか」と問い詰められた宮藤は、腹を括った面持ちで「実は」と話を切り出した。
『おばあちゃん』という呼び名は正しかった。春風叶奈と夢野敦子は実際に、血縁で結ばれた孫と祖母の関係だったのだという。
いつから敦子がそのことに気づいていたのかは判然としない。宮藤が事の次第を知ったのは、捜査中に敦子から接触を受けて捜査協力を依頼し、警察署に呼んで事情を聞いていた時のことだった。捜査に協力した「とある方」とは、叶奈の居候中に何度もどこかへ電話をかけ、外出を繰り返していた敦子のことだった。
血縁関係であることを決して本人に明かさないよう、宮藤は敦子から厳重に口止めをされていたという。宮藤のみならず、真実を知る人々はみな同様に敦子の箝口令を受けていた。そのうえで敦子は何も知らないまま自分を『おばあちゃん』と呼んで親しむ叶奈に、時には優しく、時には厳しく、魔術を仕込んでいったのだ。
「夢野さんが独り身なのは知っているでしょ。あなたのお母様が幼かった頃に、夢野さんはトラブルを起こして旦那さんと離婚したそうなんだ。そのトラブルっていうのが魔術に関わることだったから、お母様は今も魔術や魔女のことを嫌悪している。……これはあなたが警察から逃げた時、ご家族に話を伺っていて知ったことだけどね」
ため息を交えながら宮藤は海を見つめていた。事情聴取に来た宮藤自身も魔女であることから、母の芽久はずいぶん捜査に非協力的だったらしい。
逃げ場をなくした叶奈が夢野家に逃げ込んだことも、母は当日深夜の時点で敦子から聞き及んでいた。離婚以来しばらく連絡を取っていなかった親子だったが、今度ばかりは敦子だけの問題では済まされないと思ったのだろう。ともかく敦子は母に事の次第を話し、母は我が娘が知らないうちに自分のもっとも嫌悪する魔女になっていたことを知らされた。
私のせいかもしれません。私があの子に負担をかけ過ぎていたから、あの子は何でも自在にこなせる魔女の道に入ろうとしたのかもしれない──。
ショックで仕事も手につかず、食事も喉を通らなくなっていたという母は、敦子を追って病院に着いた叶奈と再会した折、見たこともないほどに顔色を悪くしていた。かけてしまった迷惑の大きさを思い返し、恐ろしくなって逃げ出しかけた叶奈を、母も、咲季も、力いっぱい抱き締めてくれた。たとえ魔女でも何でもいい、生きていてくれてよかった。耳元で安堵の嘆きをこぼされ、叶奈は耐え切れずに泣いてしまった。敦子のそれと同じだけの熱を持った手に慰められ、家族であることを再確認した喜びが、家族だったはずの人を失った痛みと混ざって一挙に目尻から込み上げたのだった。
もはや叶奈はひとりぼっちの魔女ではなかった。
叶奈と、叶奈の暮らす街を守り抜いた祖母だけが、孤独の解消と引き換えに意識を失い、這い上がることのできない生死の境目へと落ちていった。
「バカだよね。ほんとバカ。信じらんないようなお人好しバカ」
▶▶▶次回 『Sorĉado-26 罪滅ぼし』




