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Sorĉado-19 痛哭

 



 濁り切った雲はやがて雨になり、薄暗い街をひたひたと濡らし始めた。遠雷に驚いた飼い犬が吼え、いそいそと出てきた飼い主に抱えられて家の中へ入っていった。すれ違う人の姿はまばらになり、代わりに乗用車が二台、三台、道端へ派手に泥を撥ねながら走り去っていった。

 いつか円花に折り畳み傘を貸し、そして返された時から、叶奈のカバンには一本の傘しかしまわれていない。そのなけなしの傘を差す気も起こらず、叶奈は雷雨の中を濡れながら歩いた。目的地の近隣に着く頃には、靴の中身までぐっしょりと濡れて重みを増していた。

 夢野家の(たたず)まいは普段と変わらなかった。ただ、少しばかり悪天候のせいで、背後の森が鬱蒼とした色に沈んでいた。冷え切った指先で触れたインターホンもちょっぴり冷たくて、丸く歪んでいた背筋が一瞬で伸び切り、また縮んだ。敦子に会って懺悔を済ませれば、今度こそ警察へ行かねばならない。平穏な日常の(よすが)に身を預けていられるのも今が最後だ。そう思うと緊張が止まらなくなって、敦子が出てこなければいいのに、などと後ろ向きな考えに浸りたくなる。

 けれども悲しいかな、敦子は何事もなく出てきてしまった。


「どなた?」


 開け放ったドアから顔を覗かせた敦子は、門の外に立つ濡れ鼠の叶奈を見るなり、真ん丸の目で息を飲んだ。自発的に弁明しようと思い立った叶奈は、無理に笑顔を繕って、話しかけた。


「おばあちゃん。わたしね──」

「分かってるわ」


 敦子の反応は早かった。


「何も言わないでちょうだい。あなたが何をしたのかも、どうして追われているのかも、みんな分かってる。何を言うつもりでここへ来たのかも想像がつくからね」

「え……」


 用意していた別れの言葉を封じられ、叶奈は声を失いながら敦子を見上げた。いったいどうやって知ったというのだろう。円花の件も、昴の件も、本人や警察や学校関係者しか知り得ないはずではないか。

 敦子は手招きをしてきた。軒下へ入って雨を防げ、という意図なのはすぐに理解したが、元より夢野家に立ち入る気のない叶奈にとっては受け入れられない意図だった。拒むつもりで叶奈は首を振った。


「わたし、ここには入れないよ。どこから知ったのか分からないけど、わたしのしたことが許されることじゃないってこと、おばあちゃんも分かってるでしょ……?」

「当たり前だよ。許されていいはずはない」


 敦子の声は恐ろしいほどに落ち着いていた。


「あなたの所業を話してくれた情報源の子が今、うちにいるんだよ。その子はあなたに会いたがってた。いま呼んでくるから、身体を拭いて玄関で待っていなさい。拒否権なんてないからね」


 情報源と言われても、叶奈の所業を目の当たりにした者の顔は昴しか浮かんでこない。大鳥居くんが、ここに──? 困惑の整理がつけられずに雨の中へ突っ立っていたら、「あら」と敦子が驚いたように脇へ退いた。

 叶奈は心の底から我が目を疑った。

 そこに現れたのは昴でもなければ家族でもなかった。

 忘却魔術で記憶を吹き飛ばしたはずの、葉波円花だったのだ。


「……無事だったんだ」


 じっと叶奈を見つめながら、円花は細い声で言った。


「ぜんぶ、聞いた。春風が魔女になった経緯も、理由も、今まで魔術を使って何をしてきたのかも。夢野さんが何もかも話してくれた」


 もはや降り注ぐ雨の冷たさも、びしょ濡れの身体に染みる寒さも忘れて、叶奈は円花の顔に見入っていた。気味が悪いほど感情の飛んだ面持ちとは裏腹に、円花の声色に入り混じった吐息はわずかな安堵の匂いすら漂わせていたが、その事実は当惑で凍り付いた叶奈を少しも安心させはしなかった。


「おばあちゃん……これって……」

「あなたのかけた忘却魔術は不完全だったということだよ、叶奈」


 隣の敦子が静かに付け加えた。


「忘却魔術は人の記憶を自在に玩ぶ高度な技術だからね。あなたが前にやろうとして上手くいかなかった物体服従魔術と同じで、見習い程度の経験しか積んでいない魔女に使いこなせるものじゃないの。あなたに記憶を飛ばされて数時間後、その日の夜のうちには、この子は叶奈にされたことを何もかも思い出していたそうだよ」

「そんな……」


 目の前の現実を受け入れることができない。忘却魔術を使ってから一週間以上も経っているというのに、その間、円花はすべてを知っていながら普段通りの態度を装い、叶奈に接し続けていたのか。

 失望感に力を奪われ、叶奈は悄然と門扉にすがりついた。中途半端な覚悟と実力で働いた悪事は、結局は回り回って自分のもとに戻ってくるのだなと思った。

 取り出した傘を差した円花が、軒下を出て一歩、一歩、叶奈に近づいてくる。動物園の猛獣でも相手にしているかのように、その足取りは慎重で、底知れぬ緊張に満ちている。とうとう別れの前に彼女との心の距離を縮められなかったことに、叶奈はまた一粒、この期に及んで新たな失望を積み上げた。


「あのさ」


 雨音の底で、円花が静かに問いかけた。


「あの日、どうして私に忘却魔術を使ったの」


 このうえ嘘を塗り固めたところで仕方あるまい。そっと叶奈は唇を噛んだ。血と、水と、薄い塩の味がした。


「……わたしが魔女だってバレたら、仲良くなれなくなると思ったから」

「私が春風のことを色々と疑ったから?」

「ううん、そうじゃないよ。葉波さんの前だけじゃない。魔術のことはクラスの誰にも言ってない」

「正直に言ってくれれば、こっちだって事情を汲めたかもしれないじゃない。わざわざ魔術で記憶を飛ばしたりしなくたって──」

「正直に言ったら、みんなわたしのこと、嫌いになる」


 円花からの返答が初めて途絶えた。音を立てて軋む左胸を押さえ、突き刺さる痛みに耐えながら、叶奈は必死に円花を見上げた。どのみち永遠の別れを目の前にしているのなら、思いの丈をありったけぶちまけてしまいたい。大きくなった心からは次々に声があふれ出して、足元に泥色の水溜まりを描いてゆく。


「信じてもらえないのは分かってる、だけど本当なの。魔術を使って何かを企もうなんて一度も考えなかった。わたし、ただ、みんなと仲良くなりたかっただけなの。頼られる子になりたかったの。でも魔女だってことが知られたら、みんなわたしのこと絶対に嫌いになる。葉波さん以外の人にも魔女だってバレたけど、一瞬で嫌われた。わたしのこと大好きって言ってくれる人だったのに、それでも跡形もなく嫌われた」

「……あの彼氏か」

「うん。泣きたくなるほど……一瞬だった」


 浮かべた嘲笑はたちまち水溜まりに溶けて消えた。精一杯の皮肉を込めてぎこちなく笑ったつもりだったのに、肝心の円花はにこりともしなかった。


「わたし、葉波さんとも仲良くなりたかった。他のことなんて何も思ってなかったよ。仲良くなるためなら魔術だって何だって使うことにためらいはなかったけど、もしも魔女だって知ったなら、葉波さんもわたしから離れていくと思った。それどころか、もしもわたしが魔女だって葉波さんに言い触らされたりしたら、わたしの学校生活も全部全部おしまいになっちゃうって思って、怖くなって……。ほんとに悪いなって思ったけど、わたしが魔女だってこと、葉波さんには忘れてもらわなきゃ、生きていけなくなるって……」

「私が言い触らすようなやつに見えたんだ」


 円花が強引に話を遮った。ストレートに切り出された自分の行動の悍ましさに、叶奈は小さな肩を震わせた。


「怒ってる……よね」

「怒ってない」


 円花は即答した。その瞳はもはや叶奈を捉えておらず、ぐったりと濡れる足元のアスファルトへ静かに光を注いでいた。


「ただ……失望した。あんなに親しげに話しかけてきてたくせに、その程度の人間だと思われてたんだなって」


 予想外の言葉に叶奈は目を丸くした。あれほど叶奈の関与を鬱陶しげに振り払い続けてきた子の台詞とも思えなかった。


「クラスの誰とも親しくしてない私が、いったい何の目的があって魔術のこと言い触らすわけ? 私、質問しただけじゃない。魔術を使って何をする気なの、何を企んでんの、って。そしたら春風の返事は『魔術で記憶を吹っ飛ばす』だったってわけだよね」

「ま、待って、わたし別にそんなつもりだったんじゃ……っ」

「じゃあ何だっていうの」


 円花の冷静な問いかけが心臓を叩きのめした。叶奈は一瞬、胸倉を掴まれた時のように喉へ息を詰まらせた。


「振り回され続けたこっちの気持ちも少しは想像してよ。親しげな顔で近寄ってきたくせに、こっちが疑いをかけたら今度は逃げられて、ご丁寧に記憶まで捻じ曲げられて……。あんなことされれば誤解が深まるのも当たり前だって思わないの? あれからどんな思いで私が暮らしてたか、どんな思いで春風の顔を眺めてたか、少しでも説明できるんならしてみなよ」

「……説明、できないです」

「あのとき正直に『仲良くなりたかった』って申告されてりゃ、私だってそれ以上、春風を変に遠ざけたりしなかったよ。言っとくけど私は今日まで一度も聞かされてなかったんだからね。仲良くなりたいとか、頼られる子になりたかったとか、一度も!」


 轟々と勢いを増す雨の中でも、円花の言葉は空間をすっ飛ばして叶奈の胸に殴り込みをかけてくる。突き付けられた指摘が過去の自分の言動とひとつひとつ結びついてゆく恐ろしさに、叶奈は足をすくませ、いよいよ門扉にすがりつかなければ立っていられなくなった。

 やっぱり何もかも、叶奈のせいだったのだ。

 不幸の種をばらまいたのは自分自身だった。

 思い返せば、いつだって叶奈は言葉足らずだった。『仲良くなろう』の一言がいつまで経っても言えずに、そのぶん強引なアプローチでクラスメートに関わろうとして距離を縮めすぎていた。たとえ魔術が使えようと使えまいと、そんな姿勢でいては好かれなくとも無理はない。魔術で親切を働くようになって得た()()にしても、きっと本当は友達などではなく、親切の結果として少しばかり周囲に存在を知られただけのことだった。だから、小雪との一件があっても誰も叶奈を庇わなかったし、あっという間に離れていった。


「口にされなかったら何も分かんないんだよ」


 ふたたび瞳を伏せた円花は、二度、三度と力なく首を振った。


「ずっと、春風の考えてることが分からなかった。気味の悪いことを企んでるのか、それとも何か別の意図を持ってたのか、それだけでも知りたかった。魔女に否定的な先入観を持ってたことは確かだし、春風が魔女だって知った時、とっさにあんな聞き方しかできなかったことは悪かったなって思ってる。春風にしてみれば信じられないだろうけどさ、私だって春風のこと……知りたかったんだよ」


 噛み締めた唇を震わせ、叶奈は夢中で首を振った。円花の謝ることではない、まっとうな方法で距離を縮めることから逃げ続けた叶奈が悪いのだから──。暴れ狂った心の叫びは思考回路の働きをことごとく妨げ、またしても声にならずに消えてゆく。そんな叶奈の事情を知ってか知らずか、円花は悔しげに傘の柄を握りしめ、唇を噛んだ。


「……ごめん、春風。仲良くなろうとしてくれた春風のこと、あんな風に疑うことしかできなくて」


 ぼろぼろとあふれ出した涙が、雨に混じって視界を歪ませた。円花や敦子の姿は潤みの沼底へ溶けて輪郭さえ分からなくなり、たったひとり取り残された雨の中へ、叶奈は膝から崩れ落ちた。衝撃で無意識に開いた口が「ごめんなさい」と喚いていた。


「わたしこそごめんなさいっ……。わたし……臆病だから……意気地なしだからっ……こんなことになるなんて思わなかったからっ……あんな取り返しのつかない魔術を何度も使っちゃうなんて考えてもみなかったからぁ……っ!」

「叶奈……」

「おばあちゃん……本当にごめんなさいっ……約束破っちゃって……信頼も裏切っちゃってっ……! こんなことになる前に相談すればよかったっ……! ごめんなさいっ……許してぇ……ぇ……っ」


 滝のような雨が視界に紗幕をかけ、誰よりも大切に思っていたはずの師を、大切に思いたかったはずのクラスメートの顔を覆い隠してゆく。まるで叶奈が孤立してゆく過程をまざまざと見せつけられているようで、募りすぎた絶望の炎はいよいよ勢いを増しながら叶奈を飲み込み、轟々と燃え盛った。同級生の輪に仲良く迎え入れられたはずの未来も、円花と心を通わせる仲になれたはずの未来も、業火の中へ次々と燃え落ちていった。

 門の外でぐちゃぐちゃに泣き叫ぶ叶奈と、傘を手に立ち尽くしている円花を、しばらく敦子は交互に見交わしていた。やがて表に出てきた敦子に肩を叩かれ、その痛みで我に返るまで、叶奈は敦子の顔をまともに拝むこともできなかった。


「家、入りなさい」


 敦子は静かに告げた。

 ぼろ雑巾のようになった顔で、叶奈はぐったりとうなだれた。





「何にもならないよ。誰にも親切にできないわたしが魔術なんか使えたって……」


▶▶▶次回 『Sorĉado-20 使命』

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