Sorĉado-16 遁走
──『友達とかにいたらやだな。何されるか分かんないもん』
──『なんで隠してたわけ。何か企んでんの。私らに何をしようとしてんの』
いつだったか、咲季や円花がそんな言葉で魔女という存在を評していたのを思い出す。目の前にいる叶奈が魔女であると知っていたなら、二人の口から同じ台詞は出てこなかったかもしれない。その皮肉な事実がよりいっそう、魔女に対する普遍的な印象の悪さを二人の影へ映し出す。
摩訶不思議な力を行使できるがゆえに、何をしでかすか分からない。魔女に対する世間の風当たりの強さは、結局そうした普通の人々の抱く恐怖に根差している。それでも歴史を紐解いてゆくと、現代のように忌み嫌われて敬遠される程度で済むのは可愛い方で、過去には魔女とみなされた女性たちが家を焼き討ちにされたり、近隣住民の滅多打ちで虐殺されたりするのが当たり前の時代も存在していたようだ。科学の発達していなかった昔、都市や国を破滅に追い込む天変地異や気候変動を説明しきれるだけのロジックを持ち合わせていなかった人々は、理解不能な現象のすべてを畏怖し、徹底的に拒絶することでしか、社会の平和を維持できなかった。同様に理解不能な力を駆使する存在であった魔女が、人々の恐怖と迫害意識を駆り立てたのも、ある意味では必然の帰結だったのだろう。
その強大な力ゆえに、魔女はかつて呪術師や政治家として人々を導き、争いを鎮めて繁栄をもたらす一族の象徴だったと考えられている。けれども技術の発達によって人々が力をつけ、説明できない力を用いる魔女を一転して迫害するようになると、魔女は社会の主役から次第に追われてゆく。それでもなお魔女たちは力を行使することで人々の生活を支え、辛うじて存在意義を保っていたが、16世紀初頭から17世紀にかけて欧州に蔓延した「魔女狩り」と呼ばれる一連の大規模迫害で数万人もの魔女が命を落とすに至り、魔女の時代は完全に終焉した。現代でも一部の発展途上国では魔女狩りが横行しており、年間で数百人の魔女が命を落としている。魔女迫害の根拠は人々の畏怖、すなわち心の問題であるために、政府も警察も魔女狩りを制止するすべを持たないばかりか、人々の声に従って魔女の人権に制約までかけている始末だった。
現在進行形で世界的な迫害を受け、恐ろしい勢いで人数を減らしているのだから、この国における魔女の人口比率が百万人に一人というのも頷ける話だった。インターネット上には【今後二百年以内に魔女は絶滅する】と論評する記事も見当たり、コメント欄は魔女に対する嫌悪や忌避の言葉であふれ返っていた。
──『魔女になったら二度と元のようには戻れない。普通の人間のようには暮らせない。下手をすれば、今の生活や人間関係を根こそぎ捨てなければならなくなるかもしれない。世間や世界をみんな敵に回すことになるかもしれない』
図書室で魔女に関する文献を読み漁り、悲惨な現状を目の当たりにしながら、叶奈の脳内では敦子の口にした警告が何度もリフレインしていた。何をするか分からないなどと安直な理由で魔女を遠ざけるなんて愚かだ、そんなの間違っている──。そう確信できる根拠を求めて図書室へ赴いたのに、結局のところ正しかったのは咲季や円花の方で、自発的に魔女になった叶奈の方が明らかに異端だった。
それでもまだ、昴がいた。叶奈がどんな人間であっても愛すると、胸を張って宣言してくれた人がいた。帰宅した直後にカラオケに誘ってもらえた時は、普通の人間と同じ扱いをしてくれる彼にどれほど感謝し、恋心を深めたか分からない。しかしながらその恋心も翌日までの命だった。叶奈が魔女だと知るや否や、昴は叶奈を拒絶し、警察の名前まで出して突き放した。
途方に暮れながら家に帰った。寝るまでの間に何をして、何を話したのか、わずか半日前の記憶が少しも残っていない。墨を塗りたくったような夜が西の空に消え、淀んだ曇りの朝を迎えても、叶奈はベッドから起き上がれずに布団の中へ埋もれていた。
悲しいわけではなかった。
ただ、どこまでも、途方に暮れていた。
何がいけなかったんだろう。どこで道を踏み外したのだろう。死んだように重たい頭で思案を深めるたび、いつも結論はカラオケボックスでの行動に落ち着いた。あのとき昴に甘えようと身体を預け、肌の密着を広げてしまったのがいけなかった。それまでにも増して膨大な叶奈のエテロに精神を汚染された昴は、叶奈への愛欲を極端に募らせ、欲望のままに叶奈を強姦しようとしたのだ。その結果、叶奈の放った防衛の魔術に吹き飛ばされ、弾みで精神の汚染も解けてしまった。恋人という特権を失った叶奈は、もはや、昴の言われるままに嫌われることしかできなかった。
何もしたくない。
何をしても悪い結果を生むのなら、もう一生、ベッドの上から動きたくない。
「魔女になんてならなきゃよかったのかな……」
布団に沈めた口で悲嘆を玩んでいると、不意にドアがノックされた。慌てて居住まいをただした叶奈のもとに入ってきたのは、スーツに着替えた母の芽久だった。
「いつまで寝てるの。早く朝ごはん食べなさい」
「はい……」
「私、急な出張で愛知まで行くことになったから、今夜は帰らないわ。私のぶんの夕食は作らないで──」
口にしかけた通告が、インターホンの上げた甲高い悲鳴で掻き消された。玄関の外で誰かがボタンを連打しているようだった。やかましく響く電子音に母は顔をしかめた。
「こんな時間に誰よ。ちょっと見てくる」
ドアの向こうで咲季も玄関を窺っている。起こされたからには仕方なく、母の背中を見送りながらいそいそと身体を起こして制服に着替えていると、やがて玄関から途切れがちに母の会話が聞こえてきた。
「え……警察ですか?」
叶奈の心臓は跳ね上がった。
「神奈川県警のものです。失礼ですが、おたくに叶奈という娘さんがいらっしゃいますね」
「ええ、いますけど」
「叶奈さんに現在、魔術使用による傷害の容疑で逮捕状が出ています。娘さんはご在宅ですかね」
せっかく落ち着きを取り戻していた左胸が狂ったように鳴り出して、スカートを履きかけのまま叶奈は凍り付いた。──魔術使用による傷害の容疑。逮捕状も出ている。今、確かに警察はそう口にした。
壁の向こうでは、何も知らない母が苛々と反駁している。
「あの、人違いでしょう。うちの叶奈は魔女でも何でもないですが」
「春風叶奈、十四歳。友枝市立木之本中学校三年G組。間違いなくお宅の娘さんです。逮捕状をよくご覧になってください」
「ふざけないで! これから仕事あるので忙しいんです、帰ってください」
「引き渡しに応じていただけないのであれば強制捜査に踏み切りますよ。魔術使用犯罪の重大性は当然あなたもご存知のはずですね。捜査への非協力自体が即、親族特例抜きの犯人蔵匿罪になります。そうなればあなたのことも捕まえねばならない」
「いいから帰りなさいよ! 人違いだって言ってんでしょう!」
もはや母の叫びは祈りにも等しかった。娘の無実と潔白を繰り返し抗弁する母の声は、しかし当の娘にとっては責め苦でしかなかった。叶奈は無実ではない。潔白でもない。防衛魔術によって交際相手の男子に傷害を負わせた、正真正銘の犯罪者だったのだから。
──わたし、二度も禁忌魔術を犯したんだ。
捕まって当然だ。
火あぶりにされて当然だ。
足元から浸潤した絶望が瞬く間に全身を覆い尽くして、嫌でも叶奈に決心を促させた。これ以上、この春風家に迷惑はかけられない。大切な妹や母にあらぬ嫌疑をかけて、牢屋に入ってもらうわけにはいかない。
制服を着終え、カバンを持って廊下に走り出た。「姉ちゃん?」と咲季が訝しげに声をかけてきたが、無視して玄関に向かい、母を押しのけて前に出た。
「春風叶奈は君だね。署まで同行してもらうよ」
警察官の言葉も無視して、叶奈はカバンの持ち手を固く握りしめた。
誰かを裏切ることがこんなにも痛いなんて思わなかった。
「ごめんなさい……お母さん」
別れの言葉を言い切るや、母の反応を待たずに叶奈は突進した。吃驚した警察官が本能的に道を空け、逃走経路を用意してくれる。その隙間を叶奈は夢中ですり抜け、階段を一段飛ばしに駆け下りて道路へ躍り出た。「待ちなさい!」「撃つぞ!」──警官たちの怒鳴り声が背中に当たって弾け、衝撃さえ飛び越して笑いが込み上げてきた。魔女の前では発砲さえ許されるという特別扱い付きか。一体どれだけ魔女は世間から忌み嫌われていたら気が済むのだろう。
笑いながら叶奈は逃げた。細い街路を抜け、柵を飛び越え、私有地の森に飛び込んで、とにかく逃げ続けた。しまいに笑みは流れ去り、足の痛みに顔を歪めさえしたが、それでも歯を食いしばって痛みに耐え、懸命に足を動かした。刻一刻と春風家のアパートから遠ざかるにつれて、呼び止める声は小さくなり、パトロールカーの警音も途切れ途切れになり、やがて聞こえなくなった。
「はぁ……はぁ……っ」
叶奈は道端の電柱に寄り掛かり、波立った息を鎮めにかかった。
見覚えのない景色に静寂が染みていた。走り続けた距離と方角からして、木之本中から北西に数百メートルほどの場所にいると思われた。少しゆけば隣の市との境目に当たる地域で、このあたりから通学しているクラスメートはほとんどいない。疲労困憊の頭と身体を整えるにはあつらえ向きの環境だった。
「……夢?」
電柱の陰で座り込んでいると、何気ない声が口元で弾けた。
もしかすると叶奈は夢の中にいるのかもしれない。そうとも、夢に違いない。こんな非道な現実が存在しているはずはない。何か悪い夢を見ているだけで、目覚めた叶奈は大勢の友達や大事な彼氏や家族に囲まれていて、いつものように「わたしに任せて!」と叫んで魔術を使っているのに違いない──。それが都合のいい妄想であることを頭の片隅では理解していながら、思い込むことをやめられなくて、電柱にもたれかかりながら叶奈は必死に目を閉じた。早く目が覚めてほしいと健気な願いを込めて、眠りに落ちようとした。
だが、実際に眠りを覚ましたのは、聞き覚えのあるクラスメートの声だった。
「何してんの、春風」
問われた叶奈がおっかなびっくり目を開けると、そこには通学カバンを手にした円花の姿があった。彼女自身も驚いたように目を丸くしていた。仰天のあまり起き上がろうとしたら電柱に後頭部を打ち、「痛ったっ!」と悶絶しながら叶奈はうずくまった。円花の呆れ果てた顔が一瞬ばかり視界をよぎった。
「バカじゃないの」
「うう……」
「なんでこんなとこに朝っぱらから汗だくで座り込んでんの。このあたり、私の家しかないはずだけど」
カバンを抱え込んで警戒心を露わにしつつ、円花はぶっきらぼうな物言いで異物を訝ろうとする。その台詞が、叶奈の思考回路に合点の一手を打った。知り合いのいない地域とばかり思っていたが、そういえば円花にだけは住所を聞いたことがない。G組の生徒で打ち解けることに失敗したのは、円花を含めた片手の指ほどの数の子だけだ。
長らく口もきいてくれなかった円花が、今日はずいぶん自発的に言葉をかけてきてくれる。こんなタイミングでなければ喜べたのかな──。へらりと笑ってその場をやり過ごそうとした叶奈だったが、その瞬間、彼方から遠吠えのように響いてきた警察車両のサイレン音を聴きつけ、顔面蒼白になって固まった。
これが夢か、それとも夢でないのか、円花の前で区別するのは難しいことではなかった。
「葉波さん」
よれよれと顔を上げると、円花は眉をひそめたまま恐る恐る頷いた。
「わたしの頬、つねって」
「なんで?」
「夢、見てないかなって思って」
「意味分からないんだけど」
「お願い。なんならお金出してもいいから」
魔女になって以来、誰かに依頼を持ち掛ける側になったのは今度が初めてのことだったと思う。畳み掛けて懇願すると、しぶしぶ円花は叶奈の傍らにしゃがみ込み、押し当てた二本の指で頬を軽く引っ張った。
泣きたいほどの痛みが頬に広がった。
叶奈を嫌と言うほど失望させるのに十分な痛みだった。
「ありがとう」
うつむいて礼を言いながら、叶奈は立ち上がった。まだ円花が事情の飲み込めていない顔をしているので、万感を込めて、畳みかけた。
「さよなら。葉波さん」
円花の応答を聞く必要はなかった。聞けば最後、心残りで逃げられなくなると思った。叶奈は独りぼっちで現実の世界を逃げ続けるしかないのだ。禁を犯して警察に追われる身となった、未完成の見習い魔女として。
「あ、ちょっと……!」
円花が焦ったように何事かを叫んだが、叫び終える前に叶奈は駆け出した。耳元で風を切る音に円花の声は掻き消され、耳障りなサイレンの音色に上書きされて記憶の奥へ沈んでいった。
「不運だな……。こんなところにも人がいたか」
▶▶▶次回 『Sorĉado-17 路地裏』




