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Sorĉado-15 カラオケボックス

 



 昴とは校門の前で待ち合わせることにしていた。帰りのホームルームが終わるや否や、叶奈は教科書の詰め込み終わったカバンを抱えて立ち上がり、小走りで教室のドアを目指した。体育の授業中に足を引っかけられて転んだせいか、足首の痛みで上手く走れなかったが、昴とのデートを思うと心も身体も驚くほどに軽くなって、多少の痛みなど気にしてはいられなかった。足を引っかけた小雪に対する心のつかえも、いつの間にか消し飛んでいた。


「お待たせっ」


 校門に寄り掛かっていた昴のもとに駆け付け、息を切らせながら声をかけた。昴はにこやかに頬を緩めて「待ってねーよ」と許してくれた。


「そうだ、忘れてた。まだカラオケ予約してない……」

「俺が昨日しといた。するまでもなくガラガラだとは思うけど、一応な」


 さすがの気の回しっぷりに舌を巻きつつ「ありがとう」と笑うと、目線で受け流した昴はギターケースを担ぎ上げ、叶奈の前に立って歩き出した。昴はバンドでボーカルも務めている。あわよくば歌声のみならず、ギターの演奏なんかも聴かせてもらえるのかもしれない。浮き立った心がふわふわと昴に吸い寄せられて、夢遊病者のような足取りで叶奈も昴のあとをついていった。

 目当てのカラオケ店は、木之本駅前の商店街の一角に居を構える大手チェーンの店舗だった。昴いわく、ここは市内でもダントツで利用料金が安い上、楽器の持ち込みも自由にできる数少ない店の一つらしい。人通りの少ない商店街の中で、艶やかな電飾で異彩を放つカラオケ店の入り口には学生の姿がちらほらと目立っていて、まるでそこだけが寂れた町の一角から切り取られた別世界のようだった。

 あてがわれた部屋にカバンを置くと、昴が「飲み物取りに行こうぜ」と腰を上げかけた。


「待ってて、大鳥居くんの分も取ってくるよ。何がいい?」

「いいのか? コーラとか飲みたいけど……」

「わたしに任せて!」


 胸を張ってドリンク調達を引き受けたのは、なにも昴のためばかりではなかった。昴の隣で歌声を披露する前に、どうしてもやっておきたいことがある。勇んで部屋を抜け出した叶奈は、その足でドリンクバーを素通りし、ひとけのないのを念入りに確認してトイレの個室に閉じこもった。


「下手くそな歌で幻滅されたくないもん」


 取り出した革手袋を嵌めながら、誰が聞いているでもないのに言い訳がましくつぶやいてみる。魔術を使って歌声を美しく整えるというのは、真剣に歌の練習に励んでいる人からすればちょっぴり反則技かもしれない。けれどもそれを言ったら、そもそも魔女は存在自体が反則技の塊だ。大好きな人の隣にいる間くらい、反則技でカッコつけたって許されてもいい。傲慢な理屈で心を固め、魔法円に右手を押し当てる。


「Faru mian voĉon bela(わたしの声を美しくしろ)」


 詠唱の途中から声質が露骨に変化した。よく通る、芯のある明るい声になったのを確かめて、叶奈はうきうきとトイレを後にした。

 頼まれていた昴のぶんの飲み物を注いで部屋に戻ると、すでに生真面目にも昴は教材を広げ、期末試験の勉強を始めていた。せっかく歌う準備をしてきたのにと落胆しつつ、叶奈も大人しく隣に腰掛けてカバンに革手袋を突っ込み、時おり昴の横顔を窺いながら試験勉強に没頭した。昴が「どんな叶奈であっても好き」と言ってくれるように、叶奈もまた、どんな昴も好きでありたいと思う。真剣な眼差しでワークの問題と向き合う昴の姿は、自分の彼氏だというのが信じられないほどに凛々しくて、あの小雪が心酔するのも無理はないことだと思った。

 叶奈は昴が好きだ。

 その一挙手一投足、声の一節すら好きだ。

 ひるがえって昴は叶奈のどこに魅力を見出しているのだろう。小雪たちクラスメートの中では目立つこともなかった平凡な顔立ちの自分が、それほど外見的な魅力を伴っているとも思えない。人懐っこい性格をしている自覚はあるものの、その性格を好かれて友達になってくれた子は過去に一人もいなかった。仮にそれが叶奈の美徳だとしても、性格から容姿に至るまでハイスペックな彼氏の前では、その程度の魅力など何の説得力も持たない。そもそも元をたどれば、昴が叶奈を好きになってくれたのは叶奈の魔力に当てられたためであって、叶奈に魅力があったからではないのだ。

 きっかけなど何でもいい。

 この人に嫌われたくない。

 ずっとずっと一緒にいて、優しさや愛情を独り占めしていたい。

 離れられたら生きてゆけない。ひとりぼっちの地獄に戻りたくない──。

 音を立てずに降り積もった不安が、叶奈の肌を冷たい爪で引っ掻き回す。教科書をめくる手を止め、鳥肌の立った腕をさすっていたら、「寒いのか」と昴が声をかけてきた。


「待ってろ。冷房止めるわ」

「ううん、いいよ。大鳥居くんは暑いでしょ」

「俺は確かに暑いけど、叶奈が寒いなら……」

「いいの」


 そっと昴の配慮を遮りながら、叶奈は勇気を振り絞った。ちょっぴり浮かせた腰を昴の隣に寄せ、昴の大きな身体にもたれかかってみる。じわり、昴の温もりが華奢な身体に染みて、ただでさえ赤くなっていた顔をいっそう深く染め上げてゆく。

 昴が呻いた。


「叶奈」

「このままがいい」


 叶奈も呻いた。昴からの返答は何もなかった。

 今は少しでも長く、昴の心に触れていたい。凡庸な叶奈が昴の一番で居続けるために、いっときも昴の横を離れたくない。叶奈は夢中だった。勉強も、歌やギターも、クラスメートとの揉め事も何もかも忘れて、ただ昴の「好き」を得るために生きていたいとさえ願った。


「大好き……」


 こぼれ落ちた本音が足元に波紋を立てる。

 しまった、口に出してしまった──。いよいよ叶奈が耳の端まで真っ赤になったその時、おもむろに昴が立ち上がった。冷房を消しに立ったのかと思いきや、昴は冷房の操作盤の隣にあった照明のスイッチを一気に回し、部屋の中を真っ暗にした。


「お、大鳥居くん?」

「叶奈」


 底冷えのする声だった。意図も分からず身構えかけた叶奈の隣へ、昴は元のように座り直した。ふたたび触れ合った肌と肌に不気味な汗の感触が走り、様子の違う彼に戸惑いを深めかけた時には、もう、遅かった。

 昴は身をねじり、叶奈の両肩をつかんでソファに押し倒した。


「んっ……!」


 抵抗の間もなく唇を塞がれ、恐怖のあまり瞳孔が開ききるのを叶奈は自覚した。待って、少し待って。こんなのわたしたちには早すぎるよ。わたし何もかも初めてなんだよ──。叫びたくても呼気を昴の唇にみんな吸い取られてしまって、押さえつけられた身体には力が入らない。


「誘ってきたの、お前だからな」


 長いキスを終えるや否や、昴は静かに叶奈を責めた。それが最後通告であったことを叶奈が認識するや否や、昴の頑丈な腕がセーラー服の下へ潜り込んだ。


「いやっ! やめて!」

「お前だってずっとこういうことしたかったんだろ。隣に引っ付いて興奮してたくせに」


 ()()の悲鳴になど耳も貸さず、昴は慣れた手つきで叶奈の服を剥ぎ取ろうとする。募ってゆく恐怖で喉が引きつり、叶奈は声も上げられない。死に物狂いで足を振り回して暴れようとしたが、傷めたままの足首に激痛が走って思うように暴れられない。氷のような昴の指先が好き勝手に暴れるのを、戦慄の底に沈みながら見守ることしかできない。

 古来、人々は摩訶不思議な術を用いる魔女のことを「悪魔と性交した女性」と誤認していたと伝わる。けれどもそれは真っ赤な誤解だ。悪魔どころか、叶奈はまともに異性と性交渉した経験もない。昴に触れられることを嬉しくは思っていたが、こんな形で同意なしに犯されることを良しと思ったわけではない。

 恐怖のあまり潤んだ目尻を叶奈は必死に拭った。このまま言いなりになっていてはいけない、早く逃げなきゃ。心の奥で警報が鳴り響き、早鐘のごとく鼓動が高まる。叶奈の“誘い”に当てられた昴が冷静さを失っているように、追い詰められた叶奈もまた、冷静な思考の余地を持ち合わせてはいなかった。

 ほかに抵抗の方法は思いつかなかった。

 めくれ上がっていたスカートのポケットに叶奈は無我夢中で右手を突っ込み、探り当てた魔法円の紙を握りしめた。


「Protektu mian korpon(わたしを守れ)!」


 革手袋を嵌め忘れたことに気づいた時には、昴の身体が吹き飛んでいた。机の上に並んでいたコップや教材をなぎ倒しながら、軽々と宙を舞った昴は向かいの壁に激しく叩きつけられ、力を失って足元へ崩れ落ちた。衝撃で破壊されたハンガー掛けやフロント連絡用の電話が、その上へ次々と落下して転がった。

 息を荒げながら叶奈は立ち上がった。経験したことのない恐怖を目の当たりにして、生まれたばかりの子牛のようになった足が小刻みに震えている。あのまま抵抗しなかったら、叶奈は立派な強姦被害者になるところだったのだ。静かに(おのの)きながら服装を整えていたら、吹き飛んだ昴がゆっくりと頭を持ち上げ、叶奈を一瞥した。

 叶奈の知っている昴の目付きではなかった。


「お前」


 思わず手を止めた叶奈の前に、よろめきながら起き上がった昴は対峙した。


「魔女だったのかよ」

「……うん」

「なんで黙ってやがった」

「だ、だって、わたし前に聞こうとしたよ……。わたしが何であっても好きでいてくれるか、って……」

「は? 魔女とか無理に決まってんだろ」


 あまりにも耳を疑う台詞に、叶奈の理解はしばらく現実に追いつかなかった。ジュースや紅茶まみれの制服を払いながら「最悪」と昴が吐き捨てるのを、ただ、茫然と見つめるばかりだった。彼の後頭部は赤黒く染まり、よく見ると背後の壁にも殴りつけたような血痕が不気味に貼り付いている。


「なんでこんなやつと一緒にいんだよ。意味分かんねぇ」

「…………」

「ぜったい警察に言ってやるからな。魔女に魔術で吹っ飛ばされて怪我を負いましたって」


 それが昴の最後の台詞になった。瞬く間に荷物をまとめ、カバンを担いだ昴は、心底軽蔑するような眼差しを叶奈に注いだっきり、ばたばたと部屋を飛び出していってしまった。派手に散らかった薄暗いカラオケルームの片隅に、叶奈は乱れきった格好のまま、たったひとりで取り残された。


「……嘘だ」


 ぽつり、唇の端から垂れて落ちた叫びが、途方もない闇を足元に広げてゆくのを感じた。

 一瞬の間にすべてを失った。もはや事の次第も、経緯も分かりはせず、最愛の人に離れられたという冗談のような現実だけが、立ち尽くす叶奈の心に淡々と失望を植え付けていった。





「うちの叶奈は魔女でも何でもないですが」


▶▶▶次回 『Sorĉado-16 遁走』

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