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Sorĉado-14 指名手配

 



 次の日も、その次の日も、円花は叶奈に対して何の行動も起こさなかった。叶奈が魔女であることに勘づいた時の記憶は綺麗さっぱり吹き飛んでいるようで、叶奈の前では魔術の「ま」の字も口にせず、偶然に目が合っても彼女は視線を()らすばかりだった。もっとも、円花はそもそも普段から叶奈に話しかけてくることがないので、確証といえるほどの根拠をもって「円花はすべて忘れている」と言い切れるわけでもなかった。目を逸らす時の不愉快げにも、はたまた悲しげにも見える眼差しがどことなく気にかかって仕方なかったが、その真意を尋ねる勇気など叶奈にはあるはずもなかった。

 叶奈はG組の教室で完全に浮いていた。そこには魔術を習い始める前の、友達が誰ひとり存在しなかった頃とは違う、もっと冷たい緊張や重たい不安にまみれた孤独が立ち込めていた。グループワークの最中や掃除中など、情報交換の機会があればクラスメートたちは必要最低限の会話を交わしてくれたが、そのたびに彼女たちは慎重な目で周囲を警戒し、仲良く絡んでいるわけではないことをしきりにアピールしようとしていた。何より、叶奈がほんのわずかにでも笑ったり、明るい声色で会話しようとすると、すぐさま咎めるような小雪の視線が飛んできて、否応なしに叶奈は沈黙させられるのだった。

 うっかり円花に忘却魔術をかけて以来、一気に魔術を使うのが怖くなった。いつか再び誰かの前で禁忌魔術に手を出してしまうのではないか、そうなったら今度こそ言い逃れができなくなるのではないか。こびりついた不安が拭い去れなくて、登校中はポケットの中の手袋にすら触れないように徹底して自分を戒めた。机の落書きを魔術で消すことも諦め、水性ペンや食器用洗剤を使った手作業で強引に消し去った。

 こんなわたしを見たら、大鳥居くん、何て言うかな。これでもまだ「ありのままの叶奈でいい」って言ってくれるのかな──。

 爽やかで優しい昴の声を耳元に思い返すたび、惨めさが募って心細くなる。それでも叶奈は頑なに、学校で魔術を使うことを拒み続けた。昴以外の人の前では、ありのままの自分など到底見せられないことを理解していたから。



「──うわ、高い」


 タグをつまんだ咲季が、渋柿のジュースを飲んだような顔で呻いた。彼女の手元を覗き込むと、貼り付けられた値札には【ショート丈ジャケット ¥8,000】と印字されている。いつかクラスメートたちの憧れていたファッションブランドLove&Berryのロゴが、数字の下で誇らしげな姿を見せつけていた。


「高いね」

「やめよっかなぁ。デザインはめちゃくちゃ気に入ってるのにな……」


 しょげながらも咲季はジャケットを手放さない。いささかの親切心が久々に萌え出して「買ってあげよっか」と申し出たら、たちどころに咲季は目を丸くした。


「どういう風の吹き回し? ありがたいけど」

「たまには姉らしい姿も見せなくちゃね」


 ちょっぴり口の端を崩した叶奈は、「任せて!」といって咲季の手からジャケットをひったくった。今しがた叶奈自身も服を買い込んだばかりで財布の中身は薄くなっていたが、どうせ友達の少ない身では出費の機会も乏しい。この程度の金銭で妹の機嫌を取れるなら、むしろ十分に安い買い物だと思えた。少しは喜んでもらえるかと柔らかな期待を込めて紙幣をはたき、紙袋を手渡したのに、当の咲季は姉の思わぬ親切に面食らったのか、言葉少なに「ありがとう」と口にするばかりで笑ってくれなかった。

 一つ上の三階でアイスを買い込み、二人で頬張りながらテラスの外に出た。陽の傾き始めた街にはセミの大合唱が隅々までしつこく染み渡り、猛暑の中を外出する人々を甲高く嘲笑っている。地域最大級の店舗面積を誇る木之本駅前のショッピングセンター『ミンキーモール』は、日曜日ともなれば近隣の市町村からも客が押し寄せる人気スポットだ。


「姉ちゃんさ」


 コーンを舐めながら咲季が身を乗り出した。


「なんで藪から棒にモール行こうとか言い出したの。別に構わなかったけど」

「わたしがここ来ようとしたら変?」

「変じゃないよ。でも普通、妹より友達と一緒に来る場所じゃん」


 そんなことはないと叶奈は思ったが、咲季の言い分通り、一緒に買い物巡りをできるような友達がいないのも厳然たる事実だった。何も答えず、妹の真似をしてデッキの手すりにしがみつき、身を乗り出して眼下に目をやった。往来する人々の顔はどれも眩しいほどに賑やかで、なるほど、南口の商店街が魅力で負けるわけだ──と思った。

 クラスメートの前ではしがらみに口を縛られ、あんな具合に豊かな顔をしていられない。その境遇に比べれば、咲季とともに行動している時の方がよほど自然体でいられる。だから、声をかけて気晴らしの買い物に誘った。それ以上に深い理由など叶奈は何も持ち合わせていないのだった。


「変な姉ちゃん」


 黙り込む姉を見て、咲季は眉を曇らせた。

 心地の良い風がテラスを吹き抜ける。パンフレットを手元に広げ、立ち寄り損ねた店がないかを尋ねると、満足げに咲季は首を振った。いつまでもモールで油を売っていると夕食の準備もできなくなる。名残惜しかったが、アイスのゴミを捨ててテラスを離れ、二階にある駅舎との連絡通路を目指して歩いた。

 咲季のスマートフォンが音を立てて鳴動したのは、下りのエスカレーターに足をかけた直後のことだった。


「マナーモードにしてなかったの?」

「忘れてた」


 面倒げにスマートフォンを引っ張り出した咲季は、画面を見るなり「ニュースかよ」と嘆息しながら手すりにもたれかかった。咲季は意外にマメな性格の持ち主で、朝食や夕食の時にはスマートフォンのニュースアプリで日々の出来事をきちんと確認している。


「何のニュース? 速報?」


 何気ない気持ちで尋ねると、咲季も何気ない口ぶりで応答した。


「罪を犯した()()が逃走中、だって」

「え…………」


 あまりにも思いがけない単語に反応しきれず、叶奈はエスカレーターの手すりを握ったまま凍り付いた。

 おっかなびっくり、咲季の開いたニュースアプリを覗き込む。どこかの銀行を映した写真が掲載されていて、銀行の入り口には黄色の警戒線が何重にも張られ、無数のパトロールカーや警察官が画面を不気味に彩っていた。


「【四十代の無職・浅羽(あさば)麻衣(まい)容疑者は七日、JR友枝駅前の金融機関に押し入り、自らが魔女であることを名乗った上、従業員を脅して現金五百万円を奪った疑いが持たれている。同容疑者は現在も逃走を続けており、神奈川県警と検察庁魔術犯罪特捜局は容疑者の顔写真を公開の上、共同で全国指名手配する方針】……だってよ」


 退屈気に文面を読み上げた咲季は、叶奈が全文を読み通す前に画面の電源を落としてしまった。仕方なく、叶奈も自分のスマートフォンを取り出してニュースに目を通した。ネット上には浅羽麻衣の顔写真も公開されていて、出回っている画像はどれもくたびれた瞳で前を見つめる中年女性のものだった。生々しくて見ていられず、叶奈も早々にスマートフォンをポケットへ戻した。

 叶奈と同じ、ここ神奈川県内に十人もいないといわれる魔女の一人が、犯罪に手を染めて警察に追われている。浅羽麻衣の現物を目の当たりにしたわけでもないのに、その報道には胃の底から這い上がってくるような臨場感があった。きっと禁忌魔術(マルペルメッソ)にでも手を出したんだろうな──。他人事のように思ってから、同じように禁忌を犯した我が身を振り返って、青ざめた叶奈はその場から動けなくなった。

 この社会は魔女という名の異物に寛容ではない。忘却魔術を使用したことが発覚すれば、きっと叶奈も浅羽のような目に遭うのだ。名前や顔写真もろとも全国に存在を知らされ、逃げ場を失えば牢獄行きの運命が待ち受けている。そしてそれは、魔術を持たない大半の人間にとっては至極当然の、甘受して然るべき運命なのだろう。


「意味分かんない。なんで金なんか欲しがるんだろ。魔女なんだから魔術でも何でも使って金儲けできるんだろうし、わざわざ銀行なんか入ろうとしなくたっていいじゃんね」


 眉をひそめながら独り言ちた咲季は、ついて来ない姉を振り返って「置いてくよ」と急かしてきた。慌てて強張った足を叱咤し、平謝りしながら咲季に追いついたが、芯まで怯え切った叶奈の胸はなかなか膨らまず、思うように呼吸をすることもままならなかった。

 それでも聞かずにはいられなかった。


「……ねぇ、咲季」

「なに?」

「魔女って、どう思う?」


 ずいぶん漠然とした聞き方をしてしまった。けれども気に留める様子もなく、歩きながら咲季は即答した。


「友達とかにいたらやだな。何されるか分かんないもん」


 弱々しく「そっか」と笑って、叶奈は前を向いた。

 浅羽麻衣の例を持ち出すまでもなく、何をされるか分からないという理由で遠ざけられる。魔女は所詮、そういう存在なのだ。分かり切っていたことだが、魔女になったがゆえに友達を手に入れ、そして魔女であるがゆえに失ったばかりの叶奈にとって、妹の突き付けた現実はあまりにも痛くて、逃れがたいほどに重たいものだった。



 ◆



 学校にいる間は自由な行動を取りづらい。昴との密会が小雪に発覚しようものなら、どんな報復行動を取られるかも分からない。必然的に昴とのやり取りはメッセージアプリが中心になって、叶奈のスマートフォンに押し寄せる着信の大半を昴が占めるようになった。

 帰宅すればカバンを放り出して魔術で自分の部屋へ飛んで行かせ、スマートフォンを覗き込む。咲季が帰るまでの合間に次々と魔術で家事を済ませながら、隙間の時間を見つけてはメッセージを打ち込む。すると昴もマメに返信を寄越してくれる。いつ返事が来てもいいように、机に向き合って受験勉強に励む間も、夕食を食べている間も、風呂上がりの頭にタオルを巻いて乾かしている間も、スマートフォンの向こうにいる昴を手放せない。ろくすっぽ友達もいなかった叶奈の前に突如として降ってきた「彼氏」の存在は、灰色だった春風家の日常風景をも彩り豊かに感じさせるほどに優しくて、甘くて、その居所を画面越しに感じられるだけでも叶奈の心をふやかしてしまうのだ。

 その昴に、今日は珍しく心配の言葉をかけられた。


【忙しかったのか? 一時間も返信なかったけど】

【図書室で勉強してたら居眠りしちゃって】


 校舎裏の物陰に隠れて手袋を嵌めながら、叶奈は手袋越しに返信の文面を打った。それから用の済んだスマートフォンをカバンへ放り込み、魔法円に手を当てて、いつものように詠唱を済ませた。


「Venigu min hejmen(わたしを家に運べ)」


 一瞬にして叶奈の身体は宙を舞い、ひとけのない春風家の玄関先に着地した。帰宅が遅くなりそうな時に常用する、瞬間移動の魔術だ。安全なうえに手軽なので、在校中の魔術使用を自粛している今でも、この魔術だけは手放さずにいるのだった。

 折しも昴からの返信が来ていた。


【真面目かよ笑 もうちょっと待っててくれたら俺も一緒に帰れたのに】

【部活なかったの?】

【ねーよ。今日から期末テスト一週間前だろ。今日は一時間だけ音楽室で自主練してた】


 帰りのホームルームで森沢がそんな話をしていた気もしたが、上の空で何も聞いていなかった。【怒られなかった?】と相槌を打ち、自室の床にカバンを下ろした叶奈は、ぐったりとベッドに身を横たえて、嵌めたままの手袋を外そうと指をかけた。

 敦子に手習いを受けていた頃、革手袋を嵌める理由は「精霊の過干渉によって魔術が暴走するのを防ぐため」だと習ったことがある。この真っ白な革手袋を嵌める習慣は、幾多の魔女たちが積み上げてきた失敗や難儀の末に生み出された、魔術使用の安全を確保するための工夫なのだ。図書室で見つけた魔術の本には数百年前の魔女を描いた油絵のコピーも載っていたが、彼女らは革手袋など嵌めておらず、じかの手で魔法円に触れていた。


【無音でやってたから誰にも気づかれなかったわ】


 昴の返事が来た。外した手袋を傍らにのけ、叶奈はスマートフォンを握りしめた。


【知ってたらわたしも音楽室に立ち寄ったのにな】

【そしたら一緒にテスト勉強できたな】

【ついでにデートっぽいこともできたね】


 何も考えずに打った文面を送信してから、とんでもなく恥ずかしい言葉を口にした気がして、真っ赤になってスマートフォンを投げ出した。すぐさま昴の返信が来ていたようだったが、恐ろしくて一文字も見られなかった。

 ──デート、か。

 まともに大鳥居くんとデートできたこと、まだ一度もなかったな。

 埋もれた布団の奥で、不慣れな三文字のカタカナがやわらかに明滅する。そもそもデートの定義とは何なのだろう。二人で音楽室の片隅に陣取り、肩を並べて試験勉強に励むだけでも、果たしてデートとみなせるだろうか。あと数十分、いや数分でも図書室に残っていれば、練習を終えた昴がやって来てくれて、そのまま二人きりの幸せな時間を噛み締められたのだろうか。

 本当は画面越しのやり取りなど続けていたくない。この手で昴の強さに触れて、優しさに包まれて、暖かな夢の中で昴の心に感じ入っていたい。友達だったはずのクラスメートたちが小雪の威光を気にして軒並み離れてゆく中で、たったひとり昴だけは、たとえ叶奈が誰であっても愛すると言い切ってくれた。その気持ちに叶奈は応えきれていないし、きっと応えてみせたいと願ってしまうのだ。

 だけど、今日は勉強をしに行ってたわけじゃないし、読んでる本を見られたら面倒なことになったかもしれないし──。

 うじうじと悩みを持て余しつつ、どうしても返信が気にかかってしまって、恐る恐るスマートフォンを手に取った。昴からの返答の文面は、思っていたよりも端的なものだった。


【明日カラオケ行かね?】


 叶奈は心が飛び跳ねるのを自覚した。汗ばんだ指で返事を打ち込み、送った。


【いいの?】

【カラオケだったら机があるから勉強会できるだろ。あとは普通に歌とか歌えば、デートっぽいこともできるしな】


 わざわざ叶奈の不器用な言葉選びを突いてくるあたりが憎たらしくて、憎めない。ついたままの画面を握りしめたまま、叶奈は枕に顔を突っ込んで、のぼってくる火照りを必死に誤魔化した。羞恥心と喜びのごちゃ混ぜになった吐息は、普段よりもちょっぴり、ほんの少しだけ、甘美な香りをまとっていた。


【行きたい!】


 威勢のいい賛同をしたら、ここ数日間ばかり一度も浮かんでこなかった渾身の笑顔が唇を融かした。そっと照れ笑いに頬を染めながら、叶奈は布団の中でスマートフォンを抱き締めた。

 つい十分ほど前、放課後に向かった図書室で何を読み、何に葛藤を深めたのかなど、(きら)びやかに華やいだ現実の前ではあまりにも卑小な記憶でしかなかった。





「誘ってきたの、お前だからな」


▶▶▶次回 『Sorĉado-15 カラオケボックス』

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