Sorĉado-12 ありのまま
敦子の言葉は結局、事実にはならなかった。告白の一件で小雪を敵に回してしまった叶奈は、翌日からクラス中の女子に例外なく距離を置かれ始めた。
朝からG組の空気は剣呑だった。登校してきた叶奈が首をすくめながら扉を開けるや、たむろしていたクラスメートはたちまち叶奈から目を逸らし、我関せずとばかりに内輪の話へ没頭し始めた。以前のように叶奈と仲良くすれば小雪たちに何をされるか分からない、障らぬ神に祟りなし──ということだろう。わたしにみんなを責める権利なんてないなと、ひとりぼっちになった机を眺めながら思った。
数分と経たないうちに小雪たちのグループが登校してきた。通りかかりざま、食べかけの汚いガムを机の上にべったりと貼り付けられて、ひとりぼっちになるだけでは試練が終わらないことを叶奈は早々に悟った。中休みには水の満たされたバケツを足元に転がされてカバンの中身が水浸しになり、昼休みには頭から大量のほこりを被せられたが、クラスメートたちは誰一人として小雪たちの暴挙を止めようとせず、寂しそうな顔で遠巻きにするばかりだった。
叶奈は黙って耐えた。──耐えろ、わたし。耐えるんだ。これはみんな朝霧さんを傷付けた罰なんだ。そう頑なに思い込み、小雪の怒りが鎮まる日が来るのを黙って待とうと誓った。涙の一粒さえ見せたくなくて、ほこりまみれの頭でそっとトイレに逃げ込んでは、灰色と水色をもみくちゃにして水道に洗い流した。
けれども悲しいかな、彼氏の昴には叶奈の思いがまるで伝わっていなかった。
「どうしたんだよ叶奈、これ」
昨日の今日でさっそく叶奈を呼び捨てにしながら、昴はトイレから出てきたばかりの叶奈を捕まえて背中を向かせた。その手につままれたほこりの欠片を見て、叶奈は静かに「へへ」と笑った。これ以上ないほど情けない笑顔だった。
「ちょっと友達とトラブっちゃって……」
「友達? 小雪のことだろ」
怒ったように昴が台詞を重ねた。
「気にすんなよ。あいつ、自分の思うようにならないことにはすぐ文句を言う女だからな。叶奈があいつのご機嫌を取る必要なんてないんだよ」
慰められた喜びよりも、小雪と分かり合えなくなった悲しみよりも、つい昨日の夕方まで小雪と親しい関係を築いていた昴にこんな文句を口走らせてしまう自分の恐ろしさを叶奈は畏怖した。転校生の叶奈ひとりが嫌われる分には構わないけれど、そこに昴までも巻き込むのはあまりに可哀想だ。いっそ叶奈の側から関係を絶ってしまうべきなのかもしれないと思ったが、そうでなくても友達の大半を失ったばかりの叶奈には、自分から他者との交流を断絶するという選択肢など選べるはずもなかった。
せめて小雪と話がしたい。謝りたい。
昴と小雪のどちらかを選べと言われれば、迷わず小雪を選びたい。
そればかりを夢中で祈るうちに、とうとう放課後がやって来た。
「──春風さん」
帰りのホームルームが始まって早々、叶奈の周囲を小雪たちの一派が取り囲んだ。
「な、なに?」
「このあと暇でしょ」
「暇ってわけじゃ……」
「暇だろ」
有無を言わせる気など初めから彼女たちは持っていない。うなだれて「はい……」と呻きながらカバンを持って立ち上がると、後ろに立っていた子にいきなり背中を突き飛ばされ、叶奈は小雪の前に放り出された。
「何が言いたいか分かるよね?」
むせる叶奈を見下ろしながら小雪が問うた。全身に底冷えが走るような声色だった。
「分かります……っ」
「分かるんなら言ってみなよ」
「わたしのせいで、昨日の、朝霧さんの大事な時間を、台無しにしちゃったこと……」
「よく聴こえないんだけどもういっぺん言ってくれる?」
小雪が胸倉をつかみ上げ、周囲の息を飲む声が静かな教室に次々と響き渡る。ちっとも止まらない咳で喉を詰まらせながら、罰なんだ、と叶奈は改めて肝に銘じた。魔術を使って乗り切ろうとか考えちゃいけない。これはわたしが甘受しなくちゃいけない罰なんだ。朝霧さんの目を見ればすぐに分かる。もはや謝ったところで、この怒りを鎮めることはできないんだから──。
不意に、どたばたと足音が静寂を踏み荒らした。
「何してんだお前ら!」
大声で闖入してきたのは昴だった。一瞬、気を取られた小雪が、目を丸くしながら叶奈の制服を解放した。支えを失って崩れ落ちかけた叶奈の身体は、割って入ってきた昴の大きな両腕に抱き止められた。追いかけてきた男子たちが何事かを叫んでいるのも、小雪の両脇を固める女子たちが何事かを喚いているのも、叶奈の耳には上手く届かなかった。鈍る鼓膜を震わせたのは唯一、昴の低い、優しい声だけだった。
「俺の叶奈に手を出すんじゃねぇぞ! ……行こう、叶奈」
うなずいたかどうかも分からないうちに、強い力で叶奈は小雪たちから引き離された。そのまま、手を引かれるままに廊下を走って校舎の外に出た。辛うじて肩に引っ掛かったままのカバンが、足をもつれさせるたびに大きく揺れて、叶奈の意識も同じくらい強く揺れた。
「なんで抵抗しなかったんだよ、お前」
息を荒げながら昴が詰ってきた。絶え絶えの息を振り絞って、叶奈は答えた。
「だって悪いのはわたしだから……」
「悪くないって言ってんだろ」
「悪いんだよ。大鳥居くんは何も分かってない。わたしがみんな悪いんだよ……」
頭を抱え、叶奈は地べたに座り込んだ。くたびれきった心では走ることもままならない。どうやって言葉を尽くせば叶奈の言い分が昴に伝わるのか分からないし、明日からどんな顔で小雪の前に立てばいいのかも分からない。何も分からない暗闇の中では、逃げたくたって走れないのだ。
すると、わきの下に昴の両手が差し入れられた。
くすぐったがる暇も恥ずかしがる暇もなく、叶奈は昴の手で起き上がらされてしまった。
「なぁ、叶奈」
昴の顔は静かだった。
「海、行こうぜ」
相模湾に面する友枝市の沿岸部には、木之本海岸という広大な海浜公園がある。東京からわずか一時間の距離にありながら美しい白浜が十数キロにわたって続き、南からの風で理想的な波も立つことから、サーファーの聖地として全国的な知名度を誇っている。叶奈や咲季の通う市立木之本中学校は、その木之本海岸からわずか数百メートルほど内陸に位置していた。
有名な海岸であることは叶奈も以前から知っていたし、クラスにたくさん友達のできた時には、いつかみんなで海遊びに行ってみたいな──などと願いをかけたものだったが、それも今となっては届かぬ願いになろうとしている。昴のあとをついてとぼとぼと歩きながら、叶奈は真っ黒に染まった吐息を足元に落としては割った。
初めて目にする木之本海岸には、前評判を裏切らない銀白色の浜が視界の両端いっぱいまで広がっていた。落としていた息を「すごい……」と飲んだら、昴は流れ着いていた巨大な立木を指差して、座るように促した。平日の夕方ともなれば海岸も空いていて、目につくのは十人前後のサーファーと、波打ち際で遊ぶ親子連れが四組程度と、それから愛犬の散歩で訪れている人くらいのものだった。
「ここならあいつらも追いかけてこないよな」
叶奈の隣へ昴も腰掛けた。身じろぎをすれば触れてしまいそうなほどの距離に昴がいることに、まだ叶奈は上手く順応できない。やはり物理的距離と心の距離は関係ないのだと、昨日の小雪と昴の距離を思い返しながら見解を改めた。──だって、いくら昴の側が叶奈に心を許そうとも、叶奈自身が少しも昴に心を許せていないから。
「……なんか、ごめんね」
いたたまれなくなって謝ると、昴が「だから謝んなって」と口を尖らせた。
「叶奈は悪くないって言ってんだろ」
「そうだとしても、こうして大鳥居くんを巻き込んじゃったのは事実だもん」
「俺が気にしなきゃいいだけだろ。バンドの連中が何か言ってきても俺がねじ伏せてやるよ」
清々しいほどの言い切りっぷりが、閉ざされきっていた叶奈の心に少しばかり海風を吹かせる。そっと膝を抱え込み、叶奈は波打ち際を見つめた。日没前の金色の光がいくつも落ちて、遠くの波間はささやかに輝いていた。
昴を見ていると、盲目な愛は善悪すら超越するという事実をつくづく実感する。いじめ同然の目に遭っていた叶奈の前に割り込み、痛めつける手から叶奈を守ってくれたのは、誰にも否定できないほど本物の愛だった。できることならその愛を叶奈ではなく、小雪に捧げてあげてほしかったと思う。叶奈のような子では昴には不釣り合いだ。さして可愛くもないし、愛嬌もないし、昴にそれほど好感も抱いていないし、それに何より──普通の人間ではない。
この広い海の前で、叶奈は今、ひとりぼっちだ。
「あの……」
小声で問いかけると、吹き渡る海風の向こうで昴の声がした。
「なんだよ」
「わたしのこと、なんで好きになってくれたの」
「なんでって、昨日さんざん言っただろ。好きになるのに理由なんて要るかよ」
「好きになる側には要らなくたって、好かれる側には欲しいんだよ。じゃないと……分からないから」
「なんだよ。言いたいことがあるならはっきり言ってみろって」
「もしも、もしもだけど……わたしが怪物とか幽霊とか殺人鬼とかそういうのだったら、それでも大鳥居くんはわたしを好きになった?」
昴は一瞬、黙り込んだ。意地の悪さを承知で叶奈は畳みかけた。
「極端な話って思ったかもしれないけど、不安なの。わたしは大鳥居くんが思ってるほど普通の良い子じゃない。さっき大鳥居くん自身の目で見たみたいに、クラスのみんなとさえ分かり合えない。人に言えないような部分だって隠し持ってる。だから、その……幻滅するなら早いうちがいいよ」
現に今、叶奈はクラスメートたちの前で、自分が魔女であるという重大な事実を隠匿し続けている。このままいつまで隠し続けられるのかも見通せないし、隠し続けた先にどんな未来が待ち受けているのかも見通せない。どのみち軽蔑されて離れられるのなら、症状の軽いうちがいいとすら思う。それは叶奈自身だけのためではなく、無垢な昴に対する本心由来の忠告でもあった。
すると、昴は大袈裟に嘆息した。
「あのな。俺は叶奈が叶奈だから好きになったんだよ。怪物だろうと幽霊だろうと殺人鬼だろうと、好きになった叶奈のままであることに変わりなんてないだろ」
言い返す言葉の思いつかなくなった叶奈の隣へ、昴は足に弾みをつけて立ち上がる。陽の光でぼんやりと温まった海風が、二人の間に円を描いてまとわりついた。
「叶奈はありのままでいたらいいんだよ。ありのままじゃ生きていけなくなったら、その時は俺が手を貸してやる。だから誰かの中傷とか悪口に耳を貸す必要なんてない。素直な自分を認めて、素直に笑って、素直に幸せそうにしていてくれれば、それが俺にとっても何より嬉しいんだよ」
「……わたしがありのままでいることを、誰も許してくれなかったら?」
「俺が許すって言ってんのに聞いてねぇのかよ。だいたい変に自分を飾られたら、逆にこっちが傷付くんだよ。信用されてないみたいだろ」
「…………」
「自分を好いてくれるやつの言葉くらい信じろよ。そしたら俺だって負けないように、信じられるに足るだけの振る舞いをしてみせるからさ」
彼方の水平線をまっすぐに見つめる昴の眼差しに、揺らぎや心細さは微塵も見出すことができなかった。空いた左手でくしゃりと頭を撫でられ、こそばゆくなって首を縮めながら、痛いほどの快い感覚に叶奈は震えた。これこそが自分に自信を持っている子の在り方なのだ。己の選び取る道に誤りがないことを、昴は心の底から信じている。だから、好きになった人のことも心の底から信じられる。昴の一挙一動に垣間見る強さの秘訣はそこにあったのだと、今更のように痛感した。
叶奈はますます膝を強く抱え込んだ。
ずるいよ、と蚊の鳴くような声で訴えたが、昴の耳には届かなかったようだった。
たとえ世界のすべてが叶奈の敵に回っても、昴だけは叶奈の味方でいてくれるというのか。叶奈が普通人の理解の及ばない魔女であったことを知っても、軽蔑することなく愛を注いでくれるというのか。そんなはずはないのに信じたくなってしまう。その強くて爽やかな顔立ちに、大きな胸に、腕に、心のすべてを委ねてしまいたくなる。それがどんなに些細な可能性であったとしても、差し出された藁にしがみついて甘えたくなる。
──ああ、そうか。
これが人を好きになるってことなのかな。
誰かに心を預けて安心することなんだな。
ふわり、胸の中に舞い降りた優しい結論が、明日からの日々に対する心細さを嫌でも引き立たせた。明日からどうやって生きて行こう、小雪たちの前でどんな顔をしよう。立ち込めた先行き不安に心を窶され、半泣きで黙っていたら、そっと昴が手を握ってくれた。どんな魔術でも手に入れられない、痛いほどの熱い愛しさを全身に打たれて、海を見つめながら少しだけ泣いた。
「……やっぱりそうだったんだ」
▶▶▶次回 『Sorĉado-13 忘却』




