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1. アイスはどこに消えた?

 三月下旬のある日の午後。


 自室のベッドに腰掛けながら、思わずため息をつく。


 窓から差し込むうららかな春の日差しとは対照的に、俺の気分はまるで鉛色の雲に覆われているかのように憂鬱だった。


 その原因はぼんやりと眺めている書類にある。

 名前欄に俺の名前――高梨(たかなし)孝司(たかし)と記入されているそれは、大学で配られた練習用の履歴書だった。


 大学に入学してから早くも2年。

 今は2年生の春休みで、来月4月になればもう3年生だ。

 大学生活も折り返し地点である。


 そろそろ就職活動のことも考え始めなければいけない時期で、先日にあった就活に関する|説明会«ガイダンス»では、「そろそろある程度は書けるはずだ」などと言われて履歴書を渡された。


 だが正直なところ、将来のことを見据えた大学生活など送ってこなかったので、自信を持って書けることがほとんどない。

 憂鬱になるのも当然だろう。


 全ての欄をふわっとしたそれっぽい無難な文章で埋めることならできる。

 ただ、そんなごまかしが厳しい就活戦線で通用するかどうかは疑問だった。


 これまでの人生、ふり返ってみれば俺はそんな無難なことばかりしてきたように思える。


 子供の頃から親や教師に逆らうことは少なく、中学高校時代は誰に言われるがまま目的もなく勉強をして、皆が行くからという理由で大学を受験した。

 学びたいことがはっきりしていなかったので、大学選びで優先したのは学部よりも大学名の持つブランド力。

 結果的に東京にある有名な私立大学の、聞いたこともない不人気で一番入りやすい学部に滑り込んだ。


 入学した後は、なにか目標がある訳ではないので、ぬるま湯のような大学生活をだらだらと過ごした。

 部活やサークルには入らずバイトをして小遣いを稼ぎ、学業は単位を落とさない程度に取り繕っている。


 友人は多い方ではないが、少ないというほどでもない。

 普段から少数の気の会う仲間とばかり集まっていて、積極的に友好関係を広げようとはしてないからだ。


 ちなみに彼女はいない。

 高校生だった頃の俺は、大学に入れば彼女くらい自然とできるものだと思っていたけれど、世の中そんなに甘くはなかったようだ。


 将来やりたいことは特になく、今現在情熱を持って取り組んでいることもない。

 当然、自慢できるような特技も持っていない。


 やるべきことならある程度は無難にこなせるが、自分からなにかをしようという主体性はあまりない。


 つまらない人間だ。

 自分のことながらそう思ってしまう。


 普通に生きることを目指して、無難なことをする人生を送ってきた。

 それはきっと、今後も変わらないのだろう。


 そして今の時代、親や世間が求める“普通に生きる”ということは案外ハードルが高い。


 ()()にまともな企業の正社員として就職して、()()に20代から30代前半までに結婚し、()()に管理職に出世して、()()に子供を問題なく育てて自立させる。

 どの普通も近頃は難易度が高くなってきていて、今後そのすべてを達成できる若者がいったいどれだけの割合になるのか疑問だ。


 そしておそらく、俺はできない側の人間だろう。


 結局は、普通という言葉に急かされるように必死に就活して、状況に流されるまま大した興味もない業種の会社になんとか入り、ブラックな職場環境に心も体もすりつぶされる。

 そんな未来が簡単に想像できてしまった。


 漠然とした将来への不安をうだうだと考えてしまったが、実は言いたいことはひとつだけ。


「はぁー……就活、やりたくないなぁ……」


 就職は人生の墓場だ。

 そんな少し前に流行った言葉に、心から共感できてしまう俺がいた。


「……ま、なるようになるか。まだまだ時間もあるし」


 おざなりに履歴書を机の上に放り投げると、ベッドに力なく倒れこむ。

 問題の先送りは意識低い系大学生の得意技なのだ。


 なんとなくけだるさを感じて目を閉じていると、部屋の外からバタバタとせわしない足音が聞こえてきた。


「ねえ! ちょっと、お兄ちゃん! 冷凍庫に入れてたあたしのアイス知らない?」


 ノックもせずいきなり扉を開けて乗り込んできたのは、4月から高校2年生になる妹の琴梨(ことり)だ。

 俺が琴梨の部屋でそんなことをしようものなら烈火のように怒り出すが、俺の部屋が琴梨にノックされた記憶は一度もない。

 なかなか理不尽である。


「アイス? 知らん知らん」

「……台所のゴミ箱に食べたゴミがあったんだけど?」

「じゃあ誰かが勝手に食べたんじゃないか?」

「そんなことするのお兄ちゃんしかいないでしょ!?」

「実は自分で食べて忘れてる、って可能性もあるだろ? ほら、お前、結構ぬけてるとこあるし」

「ぶん殴っていい?」


 とてもいい笑顔になった琴梨は、抱えていた白いゴマフアザラシのぬいぐるみの尻尾部分を掴み、肩で担ぐように振りかぶった。

 ぬいぐるみで叩こうだなんて、一見ほほえましい攻撃方法に見える。

 だが、そのほどよい重量感と遠心力が作り出す打撃力がなかなかに侮れないことを、俺は過去の紛争の歴史(兄妹ゲンカ)において何度も身をもって味わっている。


「やめろ冤罪だ、話せばわかる」


 ただ、琴梨が俺のことを疑うのも当然だろう。

 今この家に住んでいるのは、俺と琴梨しかいないからだ。


 ここは東京郊外の立川にある一軒家で、もともとは叔父夫婦が住んでいた家だけど、叔父夫婦は長期の海外出張で家を何年も空けることになった。

 それでは税金などももったいないし、人が住んでいないと家が傷むという理由もあって、そのときちょうど大学進学のために上京して一人暮らしをする予定だった俺に貸してくれたのだ。


 そしてその一年後、東京の高校に通いたい、とわがままを言い出した妹が押しかけてきた。


 父と母は、高校生で上京するなんて早すぎる、と反対していたらしい。

 けれど、両親は見た目がよくて愛嬌のある琴梨をなにかにつけて甘やかしている上、俺がいるので一人暮らしをする訳ではないということもあり、結局は認めてしまったようだ。


「まあ、アイスを食べようと気分よく冷凍庫を開けてから、それがなくなってることに気づく絶望感は痛いほどよくわかる」


 先日には、俺が買ってきたハーゲンが何者かに食べられるという悲しい事件があったばかりだ。


「だから、俺もこの連続アイスクリーム失踪事件の犯人を見つけてやりたいと思ってる。でもな琴梨、スーパーカップの1個や2個であまりうだうだ言うなよ。安いアイスなんだから」

「ちょっと待って。ねえ、なんであたしが買っておいたアイスの種類、知ってるの?」

「……」

「もう一度わたしの目を見てちゃんと答えて。あたしの、アイス、食べたでしょ?」

「ああうん食べたよ。俺が食べましたー。美味しかったでーす」

「開き直んなぁぁぁぁぁ!!」

「ぶっ!? 痛った!?」


 手首のスナップを利かせて振り下ろされたアザラシが俺の顔面にバシンと叩きつけられた。

 鞭のようにしなる一撃は、凶器がもふもふのぬいぐるみだったにも関わらずそこそこ痛い。


「せめて少しは申し訳なさそうにして!? 反省してるふりだけでもいいから!? というか、わたし、自分の分とお兄ちゃんの分で、2つ買っておいたんだけど? なんでどっちもないの!?」

「俺が2個食べたんだよ。そんなの少し考えればわかるだろ? というか2個は多いな。腹は冷えるし甘ったるくなるし、途中で食べるのが嫌になったよ」

「な ら 食 べ る な!!」


 追撃のアザラシを今度は腕でガードすると、琴梨はさらにアザラシを振り回しポコポコと連撃を繰り出してきた。

 アザラシがとてもかわいそうなことになっている。


「ははは、2個食べたい気分だったんだからしょうがないじゃないか」

「ああもう!! お兄ちゃんの分まで買ってきてあげるけなげな妹心を踏みにじってそんなに楽しいの!?」

「ちょーたのしい」

「堂々と言い切った!?」


 というかなんだよ、けなげな妹心って。


 傍から見ればなんて酷い兄貴だと思われるやり取りになってしまったが、俺の主張も聞いて欲しい。


「おいおい、よくそんな被害者ぶれるな。なんで俺がそんなことしたのかわかるだろ? 自分の胸に聞いてみたらどうだ?」

「知る訳ないじゃんそんなこと!!」

「ついこの前、俺のハーゲン食べつくした犯人、お前だろ」

「……あたしじゃないよ、冤罪だよ」

「あ、そういえば限定のパンナコッタラズベリー味どうだった?」

「すごいおいしかった! 甘いけどスッキリしてて何個でも食べたくなるよアレ!」

「おい」

「……」


 それはもちろん、俺が買ったアイスの種類だ。


「もう一度、俺の目を見てちゃんと答えてみようか。俺の、アイス、食べただろ?」

「うっ……い、いや、だって、あれは、いっぱいあるからあたしも少し食べていいってお兄ちゃん言ってたし!! あたし悪くないじゃん!!」

「ああうん、少しなら、って言ったな。6個入りのマルチパックだったから、2、3個なくなってても別に文句は言わない。もし4個や5個食べたって、ちょっと呆れるくらいで許したと思う。で、お前は何個食べたんだったかな?」

「い、1個だけだよ……」

「ふーん、じゃあ、俺が風呂上りに食べようとしたとき、冷蔵庫の中にマルチパックの空箱だけが寂しく残されてて、とーってもむなしい気分にさせられたのは、なんでなんだろうなあ? 言っとくけど、空の箱だけ残ってると、なにも残ってないときより誰かに勝手に食べられた感を実感させられてイラッとくるぞ。これマメな」


 俺がどれほどの虚無感を味わったか懇切丁寧に説明してやると、琴梨は目をそらしながら気まずそうに口を開く。


「……い、1日1個だけしか食べてないもん。 ……6日続けてだけど」

「全部食ったってことだろそれ!?」


 よくもまあ1つしか食べてないなんて言えたものだ。


 というか高校生にもなって、もんとか言うなよ。

 かわいく言えば許されると思ったら大間違いだ。


「で、でも、買ってきていつまでも食べないお兄ちゃんもおかしくない!? 1週間も食べてないなら、いらないんだと思ってもしょーがないでしょ!!」


 なんて言い分だ。

 楽しみにとっておいたんだよ悪いか。


「反省してないなお前」

「だって、お兄ちゃんも仕返しで同じことやったじゃん!」

「お前に1個だけでも残しておく良心があったのならこんなことしなかったんだよ。それに、高級アイスのハーゲンとコスパのスーパーカップが釣り合うとでも? しかも数も違う。その上さっき俺のことゴマちゃんでひっぱたいたじゃ――」

「ああもう、わかったよもう! ごめんなさい! はい、これでいいんでしょ!?」

「……よろしい」


 琴梨は不満げな様子を隠そうともしていないが、謝っただけマシな方だろう。

 あまりグチグチ言うのもよくないので、この辺が潮時だ。


 ちなみに、心の隅から湧いてくる、大人げない、とか、どっちもどっち、などという意見は全て却下する。


「……妹にアイス食べられちゃったくらいで仕返ししちゃうような性格だから、いつまでもカノジョができないんじゃないの? お兄ちゃんは女の子に対する優しさとか、思いやりとかが足りないと思う。だからもっとあたしを甘やかすべき」

「おい最後。おかしいだろ。なんでも自分に都合よく持っていこうとするなアホ」

「おかしくないおかしくない。だって、昔のエライ人だって言ってるじゃん。()(まい)より始めよ、って。カノジョをつくりたかったら、まず妹にめちゃくちゃ優しくして、それを見た他の女の子にアピールするんだよ。孝司さん優しくてステキ!! ってなってモテモテ間違いなしだね絶対」

(かい)より始めよ、だからな。なんだよ(まい)よりって。変な改変すんじゃねーよ」

「もー、細かいなあ。だからモテないんだよ」

「……」


 琴梨は最後に負け惜しみの捨てゼリフを吐いて、自分の部屋へと逃げ帰っていった。


 もちろん、彼氏もいない小娘の放った戯言程度で動揺したりする俺ではない。

 完全にノーダメージだ。


 そもそも、俺は彼女がいないことをそこまで気にしてない。

 彼女なんて、できたらいいな、ってちょっと思ってるくらいで、なにか積極的に彼女を作る努力をしている訳でもないのだから。


 再びベッドに倒れ込み、「いや、その積極性のなさが原因じゃ……」だとか、「いやいや、俺そんなこと全然気にしてないし……」などとつぶやいていると、今度は家の外からバイクの音が聞こえてきた。


 聞きなれた2半単気筒の排気音が家の前で止まる。

 その後少し間があいて、来客を知らせるチャイムが鳴った。


 バイクのエンジン音が友人の乗っているセローのものだったので、誰が来たのかはわかる。

 今日家にくると聞いた覚えはないが、アイツがいきなり押しかけて来るのはいつものこと。


 玄関をモニターで確認すると、案の定、そこには見なれた男の姿が映っていた。

 幼馴染の小宮山(こみやま)だ。


 とりあえず玄関の扉を開けてやると、そこで待っていた小宮山が突然、開口一番なんの脈絡もなく妙なことを聞いてきた。


「なあ高梨、奇妙なダンジョン、って知ってるか?」


 この言葉が、俺の平凡な日常を一変させる大騒動のきっかけだった。

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