判明――ダルウィッシュの過去
ダルウィッシュは以前のように、私に飛びついてくることはなく、大人しく隣に座った。距離が近すぎる気がするが、まあよしとしよう。
たくあんはいくら言っても、私に飛びかかってくることを止めなかった。こいつは、前世のラブラドールレトリバーよりも、確実に学習能力というものを身につけている。
これから先、落ち着きのある男に育てたい。
「アイシャ、どうかしたのだ? 改まって挨拶をして、余に何か話があるのか?」
「ああ。お前の叔母、ザワルがナシートの世話役に就くことになった」
「そういえば、アイシャのところに行きたいと訴えていたのだ。余ではなく、アイシャにお願いしてくれと言っていたのだが、アイシャにそれを伝えるのを忘れていたのだ」
ダルウィッシュは律儀に、「悪かったのだ」と言って頭を下げた。
この脳天気男が、母親の腹をかっさばいていたなんて、信じられない。きっと、何か深い事情があるのだろう。
「もう一つ、聞きたいことがある。ザワルから話を聞いたのだが――」
その瞬間、キィン! という、刃物を鞘から引き抜く音が聞こえた。
ナディアが、ナイフを振り上げていたのだ。
「なっ!?」
切っ先が向けられた先は、ダルウィッシュ。
庇おうとしたが、ダルウィッシュは私の背中を強く押し返す。
あっけなく、私の体は床の上に転がった。
そして――ドッという、肉にナイフが刺さった音が聞こえる。
ヘマームが、メイン料理として用意されていた羊の頭部の丸焼きを、盾代わりに使っていた。ナイフは、羊の脳天に刺さっていたのだ。
攻撃に失敗したナディアは、胸にナイフを突き刺した。
「きゃあ!」
エリーズが悲鳴を上げる。
ナディアの体は糸が切れた操り人形のように、力なく倒れた。
「お、おい、ナディア!!」
胸のナイフに触れようとしたら、ダルウィッシュが叫ぶ。
「細菌感染が起こる可能性があるのだ。触れてはいけないのだ!」
ダルウィッシュの言葉を聞いて、ハッとなる。前世でも、習ったことがあった。
深い刺し傷は抜かずに、そのまま救急車を呼ぶようにと。
抜いたら逆に、大量出血する可能性が高いからだ。
ある、違和感を覚える。この世界の医療技術は地球よりもずっと遅れている。
感染症はお風呂に入るから移るのだと、診察する医者がいるレベルだ。
なぜ、ダルウィッシュは細菌感染について注意を促したのか。
「泳がせておくことで、彼女の狙いを聞こうとしていたのに、このような手段に出るとは……」
「ダルウィッシュ、どういうことなんだ?」
「彼女は、異世界からやってきた救世主を名乗る者なのだ」
「え!?」
「死なせるわけには、いかないのだ」
ダルウィッシュはそう呟いて、ナディアの前にしゃがみこむ。手首に手を添え、目を瞑った。そしてすぐさま目を開き、指示を飛ばす。
「ヘマーム、湯を沸かすのだ。じいや、余の医療道具を準備するのだ」
「御意に」
ナディアは顔が真っ青になっている。表情は虚ろで、唇は紫色になっていた。体はガタガタと震えていて、肌から赤みが引いていく。
これは、ショック症状だろう。ダルウィッシュも気づいたのか、行動に移す。まず、腰に巻いた帯を緩め、足の下にクッションを置いて高く上げておく。
「アイシャ、何か彼女に被せるものを」
「ああ」
黒衣を脱ぎ、ナディアに被せてやった。
ヘマームとじいやが戻ってくる。
じいやから、後宮に戻っておくように勧められた。
しかし、今から何をするというのか。ザワルから聞いた話が、どうにも引っかかる。
退室すべきか迷っている私に、ダルウィッシュは言った。
「アイシャ、余は前世、医者だったのだ。だから、心配いらないのだ」
ダルウィッシュは前世、医者だった?
バラバラだった点と線が、一つに繋がったような気がする。
同時に、思い出す。
――大丈夫です。かならず、助けますから!
前世で、ナイフを胸に刺された私を、熱心に励ます青年がいた。
年若い医者だった。
ああ、と声を漏らす。
ダルウィッシュは犯人ではなく、ラブラドールレトリバーのたくあんでもなく、私を助けようとしていた医者だったのだ。
死にかけていたので、記憶が曖昧だったのだろう。
どうして、今まで思い出せなかったのか。
「妃殿下、帰りますか?」
「ああ、そうだな。ここは、ダルウィッシュに任せよう」
後宮に戻り、一夜を明かすこととなった。
◇◇◇
翌日、朝目覚めると、私の隣にダルウィッシュが寝ていた。
寝間着の裾がめくれて、膝辺りまで露わになっていた。
男のくせに、すね毛なんかいっさいない。きれいな脚だった。美脚を眺めていたが、くしゃみをしたので、裾を直してやる。
それにしてもいつ、布団に潜り込んだのか。ナディアについての事情を聞きたかったが、ダルウィッシュはぐっすり眠っていて、目覚める気配はまったくない。
ナシートも、お腹を見せて眠っている。
昨日、殺人未遂事件があったというのに、驚くほど平和に見える。
「う……ううん」
ダルウィッシュは身じろぎ、うっすらと目を開いた。私が顔を覗き込んでいるのに気づくと、蜂蜜よりも甘い微笑みを浮かべる。
「アイシャ、サバーフル・ヘイル」
「サバーフン・ヌール」
朝の挨拶を交わしたが、まだ眠っておくように言った。きっと、遅い時間にやってきて、眠ったのだろう。目の下に、クマができていた。
ダルウィッシュは寝起きとは思えない素早さで起き上がり、呆れた言葉を口にする。
「アイシャがいるのに、寝ているのはもったいないのだ」
「じゃあ、私も寝る」
そう宣言し、横になった。
ダルウィッシュがポカンとした表情で、私の顔を覗き込む。
腕を引いて、寝転がるよう促す。素直に、ダルウィッシュは布団に転がった。
ぴったりと私に密着し、幸せそうに目を細めている。
眠る前に、少しだけ話をする。
「ナディアはどうなった?」
「なんとか、一命を取り留めたのだ。夜明け前には、意識を取り戻したのだ」
「だったらお前、二時間も寝ていないんじゃないか」
「大丈夫なのだ」
「大丈夫な訳がない。早死にするぞ」
「それは、困るのだ」
ダルウィッシュのお腹をポンポンと叩き、寝かせようとしたが、金の瞳はらんらんとしていた。まだ、眠りそうにない。
もう少しだけ、話をする。
「なあ、ダルウィッシュ。お前は、前世の私と、知り合いだったのか?」
「残念ながら、知り合いではなかったのだ。でも、前世のアイシャのことは、唯一助けられなかった患者で、ずっと心の中に残っていたのだ」
「やはり、お前は、前世で最後に私の治療を引き受けてくれた医者だったのだな」
「そう、なのだ」
話をしているうちに、ダルウィッシュは微睡んでいく。
ゆっくり休め。耳元で囁くと、返事代わりにすーすーという寝息が聞こえた。