儀式――本当の夫婦になるために
さて、寝るかと横になったが、眠る前に行う儀式があるらしい。
ダルウィッシュは懐から、布に包んだ何かを取り出す。中にあったのは、お菓子だった。
「このマアムールという菓子を半分に割って互いに食べさせ合い、夫婦はどんなことがあっても分かち合うということを誓うのだ」
「へえ、そんなものがあるんだな」
マアムールというのは、中にナッツのペーストが入ったクッキーみたいなものだ。
大きさは拳大で、月餅のように模様がある。
「どうやるんだ?」
「まず、夫がマアムールを半分に割り、妻が夫に食べさせる。次に、夫が妻に食べさせる。最後に、夫が妻に口づけして終わり、なのだ」
「ふうん、そうか。わかった。さっさと始めよう」
「なんだか、ノリが軽いのだ」
「悪かったな、軽くて」
いちいち照れたり、恥じらったりしたら夫婦なんか務まらない。
「じゃあ、始めるのだ」
「おうよ」
ダルウィッシュは両手でマアムールを持ち、指先に力を入れて割ろうとする。
「む、ううう、うう……!」
「硬いんだな」
「そ、そうなのだ。分厚くて、この大きさなので……割るのは、難しいのだ」
マアムールは、ハードな食感のセモリナ粉を使って作られているらしい。普通の小麦粉のクッキーとは訳が違うと。
「ダルウィッシュ、私が割ろうか?」
「ダ、ダメなのだ。これは夫婦の儀式で、夫の名誉ある仕事なのだ」
「そうかい」
ダルウィッシュは五分ほど、顔を真っ赤にしながら割ろうとしていた。だが、割れない。マアムールは、強固なお菓子のようだ。
「なあ、短剣の柄部分を打ち付けて割ったらどうだ?」
「そ、そうするのだ。素手は、難しいのだ」
本の上に布を被せ、マアムールを置く。一度包んでから、短剣の柄を打ち付けた。
ゴッ! と重たい音がした。これは本当にお菓子なのか、疑問に思う。
「どうだ?」
「手応えが、なかったのだ」
布を開いてみたが、マアムールはそのままの姿だった。ダルウィッシュはしょんぼりと肩を落とす。
「頑張るのだ」
それから三十分、ダルウィッシュは額に汗を浮かべながらマアムールに短剣の柄を打ち付けるという作業を繰り返していた。
ようやく割れると、ダルウィッシュは晴れ晴れとした笑みを浮かべていた。
「やったのだ! 割れたのだ!」
「よかったな」
ようやく、儀式を始めることができる。
マアムールは六つに割れていた。ちょうど一口サイズである。
「私が先にダルウィッシュに食べさせるのだったな」
「ああ、頼むのだ」
手のひらに載せ、差し出すとダルウィッシュはパクリと食べた。
さらに、手のひらに残ったマアムールの欠片をペロリと舐める。
「うわっ!」
びっくりしたのと同時に、この与え方は犬に餌をやる方法だと気づく。
ダルウィッシュは疑問に思うことなく、食べていたが。やはり、こいつは本当に、ラブラドールレトリバーのたくあんなのだろう。
手までも、ペロリと舐めてきたし。行動の一つ一つが犬っぽい。
最初は嬉しそうに食べていたダルウィッシュだったが、だんだん涙目になってきた。
「おい、大丈夫か? もしかして、硬くてかみ砕けないのか?」
ダルウィッシュは頷く。ゆっくり時間をかけて食べていた。
「次は、アイシャに食べさせるのだ」
口を開けて待っていると、ダルウィッシュはマアムールを運んでくれた。
確かに、硬い。でも、プリムヴェール国で食事の毒混入に警戒するあまり、自前で用意した保存食の堅パンばかり食べていた時期がある。あれに比べたら、柔らかい。
バリボリと噛んでいたら、ダルウィッシュが信じがたいという視線を向けていた。
「アイシャ、もう、食べたのだな」
「ああ」
ダルウィッシュの食べるスピードが遅いので、食べきるのに一時間半もかかってしまった。
最後に、口づけをする。
「口づけは、どこにしてもいいのだ。アイシャ、ダメな部位とか、あったら言って欲しいのだ」
「別に、どこでもいいが」
「わかったのだ」
ダルウィッシュは思いがけない場所にキスをする。
なんと、布団の上に這いつくばり、足先に口づけしたのだ。
「なっ!」
「これで、アイシャと真なる夫婦となったのだ」
「口づけは、そんな場所でいいのか?」
動揺しつつ質問を投げかけると、ダルウィッシュは頷きながら言った。
「これでいいのだ」
脱力してしまったのは言うまでもない。
大きな窓から月明かりが差し込み、寝台に窓枠の影を落とす。今日は満月みたいだ。
口の中を濯ぎ、ミントの葉を噛む。
あぐらをかいて座り、ダルウィッシュが持ってきた本を広げた。
「アイシャ、読んでくれるのか?」
「ああ。約束だからな」
私もこの本は、乳母のミレーヌに読んでもらった。
子ども用に作られた絵本が多い中で、これは大人が読んでも面白い内容なのだ。
「では、読むぞ」
「うむ」
「むかし、むかし、あるところに、アイスコレッタという大英雄が――」
「ぐう」
こいつ、絵本を読み始めて三秒で眠りやがった。
どれだけ寝付きがいいのか。羨ましくなる。
きっと、疲れていたのだろう。今日一日、私が知らないところで頑張っていたのかもしれない。
ダルウィッシュの目にかかっていた前髪を避け、頬にかかっていた髪も耳にかけてやる。
相変わらず、整った顔立ちをしている。
普段からあどけない印象があったが、眠っているとそれ以上に幼く見えた。
十八歳の少年とも青年とも言いがたい男が、国王となる。並大抵の努力では務まらないだろう。
どうか夜だけは、安らかに眠ってほしい。心からそう思った。
◇◇◇
ケイーンケイーンケイーンという甲高い鳴き声で目を覚ます。
「うう……」
お世辞にも、美しい声とは思えない。起き上がると、極彩色の羽を持つ鳥と目が合った。
「ケイーン!!」
「ど、どうも」
孔雀だ。見事にきれいな羽を持つ孔雀が、私の寝室を覗き込んでいたのだ。
見た目は美しいが、鳴き声は非常に残念だということが明らかとなる。
「ううん」
なんとも悩ましい声をあげて寝返りを打つのは、ダルウィッシュである。
いつの間に来たのか、雪ヒョウのナシートも腹を上にして寝台に転がっていた。
「アイシャ」
ダルウィッシュは切なげに私の名を呼び、ナシートを抱きしめる。
「今日のアイシャは、毛深いのだ」
「そいつはナシートだ」
「ん!?」
私の突っ込みで、ダルウィッシュは目覚める。
「サバーフル・ヘイル」
インバラトゥーリーヤー語で朝の挨拶をすると、ダルウィッシュは嬉しそうに返した。
「サバーフン・ヌール」
「あー、そのあとは、すまない。覚えていない」
「親しい者同士は、これだけでいいのだ」
ダルウィッシュはしばしナシートを枕に眠っていたが、ヘマームがやってくるとすっと起き上がる。
今から朝の準備が始まるらしい。
まず、濡らした布で顔をガシガシ拭いている。痛そうに見えるが、ダルウィッシュは慣れっこらしい。続いて、泡立てた石鹸で顔を洗い、ついでにひげも剃る。とはいっても、ダルウィッシュは朝になってもひげなんか生えていなかった。産毛でも剃っているのだろう。
再び、顔を濡れた布でガシガシ拭かれる。
続いて、ダルウィッシュの上半身の服が脱がされた。
「アイシャ、恥ずかしいのだ」
ダルウィッシュは私に上半身を見られることに、照れているようだ。顔が真っ赤になっている。
恥ずかしがっているからか、余計に色気があるように思えた。
ダルウィッシュは両手で前を隠していたが、ヘマームは段取りがあるからか問答無用で体を拭き始めた。
なんだかイケナイものを見ている気がするが、ダルウィッシュは夫なので問題ないだろう。
服を着替え、身支度は三十分ほどで調う。