前世――欠けていた記憶
会場にはエリーズ、オディル、ナディアしかおらず、皆帰ってしまった。
残っているのは、毒ヘビの亡骸と手つかずの料理だけ。
なんて悲惨な結婚式なのか。
「アイシャ!」
慌てた様子で、ダルウィッシュがやってきた。ヘマームもあとに続いてやってくる。
傍に寄ろうとしてきたが、体が勝手に反応し跳び上がって後退してしまった。
自然と、手は短剣が隠された太ももに添えられる。
ダルウィッシュは明らかに、ショックを受けた表情を浮かべていた。見つめ合っていると、金色の瞳に涙がじわりと浮かんでくる。
「アイシャ、先ほど、話を聞いた。申し訳なかったのだ。まさか、料理に毒ヘビが仕込まれていたなんて……」
警備と毒味は宦官に任せ、安全であるか何度も確認していたらしい。それなのに、事件が起きた。
「おそらく、宦官が買収されていたのだろうな」
「そうだと思って――」
ダルウィッシュは俯き、ボソリと呟いた。
『宦官は全員殺した』
「え?」
「毒ヘビを仕込んだ主犯の女は、拘束して事情聴取をしているのだ」
「そうか」
インバラトゥーリーヤー語で何かボソボソと呟いたように聞こえたが、気のせいだったようだ。
「アイシャ、本当に、申し訳なかったのだ。この通り、謝るのだ」
「別に、お前は悪くないだろうが」
「でも、余の国の者が、アイシャを危険にさらしたのだ。絶対に、赦されることではないのだ」
ダルウィッシュは床に膝を突き、頭を垂れる。
「お、おい。国王が、頭を下げてはいけない」
「でも、こうでもしないと、アイシャは赦してくれないのだ」
今回の事件のせいで、心が乱れているのではない。原因は、前世の記憶だ。
私は、前世の彼と何か接点があったのだろうか?
だが、まったく思い当たることがないわけではない。逮捕した犯人の中で死刑が決まった者が何名かいた気がする。その恨みを買ってしまったのだろうか。わからない。
「とりあえず、頭を上げてくれ」
言われたとおり、ダルウィッシュは顔を上げる。はらはらと涙を流していた。
どうしてこう、この男の涙は美しいのか。世界の七不思議の一つに入れてもいいだろう。
「アイシャ、もう、余は、近づくことすら、赦されないのだろうか?」
「いや、まー。うーん……」
こめかみを押さえながら、気持ちの整理をする。
視線を宙に浮かせた途端に、ダルウィッシュの背後に佇むヘマームと目があった。
またしても、目眩と共に目の前が真っ暗になる。
前世の記憶が、戻ってきたのだ。
――噛みつけ、剣!!
――ぐるるるるる!!
思い出した! ヘマームは前世で私とコンビを組んでいた警察犬で、剣という名前のジャーマンシェパードだ。目元がそっくりである。主人は私なのに、いっこうに懐かなくて。でも、仕事はきちんとする子だった。この辺も、ヘマームにそっくりである。
ヘマームに対して、一気に親しみがわき上がった。
もう一匹、思い出した。
麻薬探査犬のラブラドールレトリバー。名前は、たくあん。
担当は他の警察官なのに、私のことが大好きでじゃれつきに走ってきていたのだ。
訓練に戻れと怒ると、決まって悲しそうにくんくん鳴いていた。
麻薬探査犬として優秀なのだが、私を前にするとただの犬と化す不思議な犬だった。
今この瞬間、ハッとなる。ダルウィッシュは、ラブラドールレトリバーのたくあんにそっくりだ。
ダルウィッシュは私を殺した犯人ではない。ラブラドールレトリバーのたくあんだったのだ。
そうだとわかれば、一気に申し訳なくなる。一瞬でも、ダルウィッシュを殺人犯として見てしまったことを心から反省した。
「たくあん……!」
「ん?」
「あ、違う、ダルウィッシュ。もう、気にするな。私も、気にしないから」
「でも」
「忘れることにしよう」
「アイシャ……ありがとうなのだ」
ゆっくりとダルウィッシュに近づき、頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
ラブラドールレトリバーのたくあんは、後頭部を撫でてやると喜んだ。
ダルウィッシュも、嬉しそうにしている。
こうして顔を間近に見ると、ダルウィッシュは本当にたくあんそっくりだ。こんなに、ラブラドールレトリバーにそっくりな男は他にいないだろう。
どうして、今まで忘れていたのか。
前世では、たくあんと遊んでやったり、可愛がってやったりすることはできなかった。
今世では、たくさん遊んで、たくさん可愛がってやらなければ。
ダルウィッシュに手を差し出すと、そっと指先を添えてくれる。
私が前世でたくあんに教えた「お手」を、きちんと覚えていたようだ。
偉い、偉いと言いながら顎の下を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めていた。
◇◇◇
騒ぎのせいで食欲は失せ、用意されたごちそうを食べることはできなかった。
葬式のような雰囲気で、後宮に戻る。
たったと走ってきたのは、雪ヒョウのナシート。ニャーニャー鳴きながら、出迎えてくれた。
頰ずりしてくるので、わしわしと首筋を撫でてやるとゴロゴロ鳴いていた。
ちょっとだけ、ささくれた心が癒やされる。
「ん、あれ?」
召し使いの顔ぶれがハーイデフ以外変わっていた。チラリと視線を走らせると、皆目を合わせないように顔を伏せる。どこか、怯えているようにも見えた。何かあったのだろうか。疑問に思いつつも、風呂に入る。
インバラトゥーリーヤー国風のサウナから始まるものではなく、浴槽に湯を張るだけのシンプルなものを用意してもらった。
薔薇水をたっぷり溶かした風呂は、とてもいい香りがする。めいっぱい吸い込んで、はーと息を吐き出した。
エリーズが入ってきて、薔薇の花びらを浮かべてくれる。
これらの薔薇は、インバラトゥーリーヤー国の温室で育てられているらしい。見事に真っ赤な薔薇だ。
「殿下、お湯加減はいかがですか?」
「ん、いい湯だ」
じっとエリーズを見つめる。もしかして、彼女も前世で関わりがある人だったのか。
こんなに美しい人は知り合いにいたのだろうか? まったく記憶にない。
まあ、ダルウィッシュやヘマームみたいに、人ではない可能性もあるけれど。
ふいに、ジャーマンシェパードとラブラドールレトリバーの二匹を思い出す。
本当に、そっくりで「ふはっ!」と声を出して噴き出してしまった。
エリーズは慣れっこで、私が変なことをしても放っておいてくれる。女神のような女性だと、しみじみ思ってしまった。
寝間着は恐ろしく触り心地がいい、足もとまでも覆う一着をまとう。
寝室に戻ると、ダルウィッシュが寝台の上で正座をして待っていた。