怒り――その感情との向き合い方
ダルウィッシュは鼻から血まみれの布を引き抜き、立ち上がる。
壁際に寄った召し使い達に向かって、インバラトゥーリーヤー語で話しかけた。
『我唯一の妻、アイシャの服を用意したのは誰だ? 前に出てこい。このような行い、不快だ。今すぐ、首を斬り落としてくれる』
低く、冷静な声だった。インバラトゥーリーヤー語なので、もちろん何を言っているのかわからない。
なんとなく、誰がこの踊り子の衣装を用意したのか、問い詰めているように思えた。
『誰も名乗り出ないのならば、今日、全員殺す』
ヒッ! という悲鳴が上がった。涙目の子もいる。
いったい、何を語りかけているのだろうか。解雇にした上に、今すぐ出て行けと言っているとか? わからない。
一応、インバラトゥーリーヤー語を覚えようと努力したが、文字がミミズが這ったような形ばかりで、覚えることができなかったのだ。
「アイシャ、少しだけ、召し使い達と一緒に、席を外してもいいか?」
「いや、外すなよ。飯を食え、飯を。鼻から噴き出して失った血を取り戻さないと」
「でも、この召し使い達、教育がなっていないのだ。今すぐ、教育をしないといけないのだ」
「いやいや、誰にだって失敗の一つくらいは、あるだろうが」
「ここで、失敗は赦されないのだ。厳しい世界なのだ」
穏やかな様子で話しているが、ダルウィッシュの声色の中に怒りを感じた。
たぶん、わざと踊り子の衣装を用意した召し使いに怒っているのだろう。
ぽややんとしていて、鈍感な奴だと思っていたので、これだけで怒るなんて意外だった。
たぶん、外に召し使い達を連れ出して、めちゃくちゃ怒鳴り散らすか、追い出して二度と近寄るな、くらい言いそうである。
この場を収められるのは、私しかいないだろう。
「この件に関しては、部屋の主である私が赦すことにする。ダルウィッシュ、座れ」
「しかし、アイシャ」
「座れと言っている」
「……うむ」
ダルウィッシュはシュンとなり、私の隣に腰を下ろした。目を伏せて苛立ちを押さえようとするが、黒い感情は胸の中に渦巻いているようだった。
「なあ、ダルウィッシュ。きちんと罰しないと、召し使い達に舐められると思っているのだろう? それは違うぞ。お前が私を庇い罰したら、自分で物事が判断できない女だと思われてしまう。逆に、舐められることになるだろう」
「アイシャ……」
「私が受けた悪意に対しての罰は、私が決める。今日は、結婚式前のめでたい夜だ。特別に赦してやる」
壁際に佇むハーイデフを見る。目が合った瞬間、すぐに視線は逸らされた。
「二回目は、この私でも、赦さないからな。しっかり覚えておけ」
私の言葉を、ヘマームが通訳してくれた。召し使い達は涙をポロポロと流し、その場に蹲る。
ダルウィッシュはヘマーム以外の人に出て行くよう命じた。
一気に閑散となった部屋で、ダルウィッシュはぽつりと呟く。
「なんだか、かっこ悪いところばかりアイシャに見られてしまった気がするのだ」
「気にするな。かっこ良いところなど、一度も見ていないから、評価は何も落ちていない」
「それも複雑なのだ」
とりあえず、腹が減った。食事を取ることにする。
「ダルウィッシュ、これらの料理は、食べ方とかあるのか?」
「好きな分を、好きなだけ食べるとよいのだ」
「でも、なんか、あるんだろう? 左手は使ったらダメとか、酒は飲むなとか」
「あるにはあるが、すべて宗教的な禁忌だ。アイシャは気にしなくてもいいのだ」
「わかった」
近くにあった料理の蓋を開いてみる。白いクリーム状のペーストにクラッカーが刺さった料理だった。
「これは、クリームチーズか?」
「いいや、それは、メゼのホモスなのだ」
「すまない、その説明ではまったくわからん」
メゼというのは前菜で、ホモスというのは、ひよこ豆と練りゴマのペーストを意味するようだ。
周囲にあった皿は、すべてホモスだった。肉が載ったものに、野菜が載ったもの、ナッツが載ったものと、種類が豊富だ。
インバラトゥーリーヤーの国民は皆ホモスが大好きで、前菜といったらホモス一択というほど愛されているらしい。
まず最初に、ヘマームに毒味させる。彼は護衛だけでなく、毒味の役割も果たしていたようだ。
一通りホモスの毒味が終わったので、目の前にあった肉のホモスをクラッカーに載せてみた。それを、ダルウィッシュの口元に差し出す。
「ア、アイシャ、なんなのだ?」
「つべこべ言わずに、食えよ」
「う、うむ」
ダルウィッシュは耳まで赤くなっている。普段、他の妃にこのようなことはさせていないのか。謎だ。
「どうだ?」
「今まで食べたホモスの中で、一番おいしいのだ」
「へえ、そうなんだな」
「あ、えっと、アイシャが食べさせてくれたから、だと思うのだ」
「気のせいじゃないかよ」
ダルウィッシュが世界一と評したホモスを食べてみた。
まずは、ホモスだけクラッカーに載せて食べてみる。
サクサクとしたクラッカーに、クリームのような滑らかなホモスがよく合う。
ひよこ豆本来の旨味がぎゅぎゅっと濃縮されていて、バターのような濃さがありながら、意外とあっさり食べられる。いろんな食材と相性が良さそうだ。
「アイシャ、料理はどうだ?」
「おいしい」
「そうか、よかった」
ダルウィッシュは実に嬉しそうに微笑む。やっと、笑顔をみることができた。やはり、食事の力は偉大だ。
「アイシャ、これは、すごくおいしいのだ」
勧めてくれたのは、骨付き肉。私に勧めつつ同時進行でヘマームに毒味させるので、面白い光景になっていた。思わず笑ってしまう。
「アイシャ、やっと、笑ってくれたのだ?」
「ん? 私、笑っていなかったか?」
「さっきまでずっと、眉間に皺が寄っていたのだ」
「それはすまなかったな」
今日一日で、いろいろあったのだ。顔が不動明王のようになったまま、元に戻っていなかったのかもしれない。
「明日も、明後日も、明明後日も、余は、アイシャとこうして食事をしたいのだ」
「ヘマームもいるけどな」
ヘマームは無表情で、骨付き肉を食べていた。
二人きりだったら、きゅんとなっていたかもしれない。毒味をするヘマームがチラチラ視界に入るので、ダルウィッシュの言葉があまり胸に響かなかったのだ。
「しかし、ダルウィッシュ。毎日食事をしたいって、無理だろうが」
「なぜなのだ?」
「お前は他に、百七名も妃がいるのだろう?」
そう問いかけたら、ダルウィッシュは明後日の方向を見る。
「私ばかり優遇していたら、恨みを買うんだ。妃の扱いは平等にするようにと、契約書にも書いていただろう?」
「……なのだ」
「あ?」
ぼそぼそと言ったので、聞き取れなかった。もう一度、大きな声で言うように迫る。
すると、ダルウィッシュはとんでもないことを言った。
「じ、実は、妃はアイシャ一人だけしかいないのだ」
「は!?」