84 Agnus Dei
──外気圏底。
星のない暗い空。
風の音がない。
甘い匂いが漂っている。
白い息が出てまつ毛に霜が降りるくらいに寒いが、魔法を使わなくても死んでしまうほどではない。
アルカディア1000番目の庭、メルクリウスの第5階。
高度1.000,767264km。
靴底の触れる面は硬く、一つの岩石の塊。
草一つ生えず踏めば砂が固く鳴る程度の薄い沙漠、だだっ広い荒野が広がっている。
遠くの闇の中からギリギリとした掠れる音が聞こえた。
僕は声の方をジッと見つめながら、ひらりとした言の葉を荒野へと撒いていく。
「星鯨、オールトの雲に住むというシック。僕のそれとは似ても似つかないが、面影を残しているのは君が誰かの思い出から作られた存在だからだろう」
星がないということはすなわち太陽もない。
底にスカイ苔をつけた上階のない最上階の庭でもなぜか明るい。
闇の天空が支配する宇宙。
星の代わりにあるのは、百の瞳の輝き。
「第三能変、了別──
第二能変、思量──
第一能変、異熟」
メルクリウスに初めて踏み入れた時、クロカと約束した。
最高の景色を見せる。
だがラディとは約束しなかった。
必ずネップを助ける。
「ュオォォォン、ヒュォオオン」
唸るような音、甲高い音。
だんだんと酷く僕の耳を劈き続ける。
宇宙の彼方から泳いで近づいてくる髭鯨は、全長300mを超える大化け物だった。
だが大きいだけの見てくれで、あの深海で見た偉大な鯨とは似ても似つかないほど空っぽに見えた。
寂しそうな君に、そしてうるさすぎる僕の中の境識倶泯たちへ、僕から献ぐる言葉を送ろう。
「”Graduale” “Tractus”“Libera me” 」
昇階唱を詠唱します。我を解き放ち給え──。
しかし、祝辞は途中で途切れてしまった。
「・・・──どうして、ここに」
シックの頭上に、人影があった。
その人影は、高度が庭にある程度ちかづくとぼくの目の前に飛び降りて、呆然とするぼくを鏡に写したように佇んだ。
「鈴華・・・」
ぼくに名前を呼ばれて静かに微笑んだその人は、携えた剣を構えた。
その微笑みが、全てを雄弁に語っているようにぼくにはこう聞こえた。
手紙を読んでくれたんだよねっ。
・・・そう、言ってる気がした。
だが彼女は無常にも、かつて、ベルが聖剣マルクトを通じて精霊たちの力を借りるときに使っていたという言葉をシックに重ねられる。
「澪標」
一言だけ、この戦いの中で唯一、ぼくの目をまっすぐに見て弾けた言葉だった。
気づけば、辺りはシックの背中から噴き上げられた眼球を象ったシャボンだらけだった。
上空のシックが瞳から流した涙が膜を張った泡となって、それが弾けるとそこからぼくの知っている鈴華の声が響く。
「伝え聞いた話が真実なら、眠る日もなく、君は身を尽くしている」
こちらの言葉には眉ひとつ顰めずに、ベルはずっと微笑み続けている。どこかの時間を止めて切り取って、張り付いたように。
「阿頼耶識」
リアムの瞳が黒く落ちる。唯識の海の底に、光を届けたまえ。
“ヴァーチェ・旅烏”
剣の形が大きな鎌へと変わった。全身から風の刃を吹かせている鳥を象った魔力が飛行してくる。
「魔装ロードダン=レイブン 旅烏」
こちらもすかさず同じ威力、同じ魔法をぶつけて対抗する。
ぶつかり合った魔法は嘴や爪で互いを攻撃しながら溶け合い落花啼鳥、混ざり合ってあらゆる方向に向けて風を吹き荒れさせた。
ベルは足を踏み出して体が風に切られることも恐れずに向かい側のリアムとの距離をつめる。
向かい風は鎌で切り裂きながら、追い風には刃を乗せて、鎌の刃先を向けて脳天からリアムへと振り下ろす。
「大人になったね。鈴華・・・ぼくは顔も変わったし、幼くなっちゃったよ」
すかさずこちらのレイブンの柄を絡めて受け止める。魔力で最大限に身体強化を施し鈴華の重さを支えながら、左手を空ける。
『魔装は一人に一つ。誰が決めた?』
魔装 ロードダン=クロウ。
「アダマスの鎌!!!」
リアムの左手に持たれた2本目の魔装が、ベルの喉元へと迫る。
“ドミナティオス・クラスタ”
シャボンが割れる。それと同時に、ベルは上空へと逃げ果せる。
“ソロネ・超弦技巧=惑星デュトワ”
間髪入れずに、シックに負けず劣らずの大きさの小惑星帯を伴った巨大な土塊の星が狙いをつけながらゆっくりと落とされる。
制御されている惑星とは違って、惑星の周りにただ産み落とされただけの小さな隕石から、重力に引かれて庭へと墜落してくる。
「魔装アラード・下方」
こちらも同じ質量をぶつけて対抗したかったが、父の過去を土足で踏み躙る気がして、この魔装ばかりは使ってはいけないと心が止まった。
アルカディアのNr. 999、ラストガーデナーの庭。
「やぁ、ちょっとお邪魔しまーす」
相変わらず草木の芽吹かない荒野。降り立った庭には、これまたスコルとマーナもビックリ仰天の体高30mはある非常に美しい雪獅子がいた。
「我はラストガーデナー・スノーライオン。資格となる技巧の宝物を捧げよ。病に侵された勇者を救い、アルカディアを呑み込むアルゴスを退ける全き羊飼いよ」
しゃべったし。・・・もしかしなくても、この雪獅子がベルの呪縛を和らげる聖なる草笛か。
「7頭の龍をも空から落とす我の咆哮にて、お前の助けとなろう」
資格とか知らないし、持ってないって言ったらどうなるんだろう。
・・・雪獅子の力は、吉祥海雲の兆しだったはず。
「なにをしている・・・」
「卍?」
左手を上に、右手を下に、肘を曲げて足を開いて体を使って卍の再現を試みる。
「調子者が!!!ヌルから出直してこい!!!」
雪獅子のターコイズのタテガミが波のようにたなびいて、雪崩のように真っ白な前足を振り下ろす。
リアムはその前足を避けるでもなく、魔法障壁で受け止めた。
「力は貸してもらわなくていいから見逃せ!」
「ガーデナーである私が庭を荒らす輩を許すと思うか!!!」
「僕はやらなければならないことがあるんだよ!!!」
リアムは自分を覆った魔法障壁を強引に広げ出すと雪獅子の肩は盛り上がり、足を押し持ち上げられた勢いで背中からひっくり返る。
ワンチャンと阿呆な問答をしたが、力の貸し借り問答をしている時間はない。
「?」
巨体の衝撃が庭を揺らすと同時に魔法障壁に亀裂が入る。
亀裂は振動のせいではない。
雪獅子の振り下ろしを耐えた魔法障壁を何かが穿った。
頬が濡れた感触がする。
「雨漏り・・・?」
上の庭から雫がポタポタと幾つか落ちてきていた。
鯨腹の畝に挟まる97個の目。
閉じると火縄銃のような線の口の撃鉄に2つの目。
そして、背中に巨大な目が一つ。
計百個の目がついていて、シャボンを噴き出していた。
ならば潮ではなく涙か。
だがそれよりも、この水、魔法を発散させた。
「ピーヒュィ!」
背中にベルを乗せたシックがNr.1000の庭を突き破った。
穴だらけになってしまっていた庭は張力を失ったようにバラバラに砕けて岩の浮かぶ水面を空に作る。
シック&ベル、本日二度目のご降臨である。
「私のタテガミに土埃をつけたなッ!!!」
前門にベル、後門に雪獅子、そして上空には鯨。
「水掛論ってんなら、水には水だ。溺れさせてやる」
水の精霊王アーク。騎士王と呼ばれる琳琅冠のアークは水の精霊王。水を自在に操るが、アークの真価は融和性にある。他の球と合わせることで璆鏘として鳴り響かせる。
ドルフィンはその象徴。
普段は剣の形をしているが、戦いになると水を纏う槍へと成って3又のヒレを持つ3頭の水のイルカを解き放つ。
彼らは自らに魔法を溶かして敵や味方へと己を運ぶ液媒体。
「エナリオスネロ・ウーゴ・ネイドン!!!」
1番デカい全長100mに迫る巨大なドラゴンをシックに、ウーゴを雪獅子に、そしてシャチを象った水の人形をベルに。
“パワーズ・ゲブラー”
シャボンが弾ける。
3方向に放たれたそれぞれの水の魔法だった。
ベルは顕現した銃口を自分に向かってくるネイドンに向ける事なく、シックへと向かうネロに照準を定めて熱線を放った。
しかし、熱線はネロには当たらない。
ネイドンが跳ねて自らを盾として熱線を吸収する。
だが、ネロはシックまで届かなかった。シックが流した涙が、魔法で象ったネロを発散させてしまった。今日何度目かの微雨が庭に降り注ぐ。
「魔装エクス・ローデ」
リアムの両腕には、胸に抱けるサイズの可愛い闇力纏で覆われたもうひとつの人形が現れる。
瞳には赤いルビーが2つ嵌められている。
「超弦合技巧、凝縮・負温度=絶対零堂」
理論上、どんな高温の物質だろうが流火する。
エネルギーがどんな防御をも削る絶対の矛となる。
本当に形になっているかはこの身に浴びた訳でもないからわからないが、単に超低温の凝結に晒されただけでも、普通の生物なら生命活動を停止する。
ウーゴに呑み狩られた雪獅子は、現にピクリとも動かない。
「君の名付け親だ。名に劣らないその身にたぎる熱さを見せてやれ」
傍に戻ってきた沸騰する水の鯱が号令を待つ。
「いけ、ネイドン」
“アーク・エナリオストリアイナ”
3又の槍から飛び出した3頭のイルカが密集して群れを成す。
ベルに目がけて突進するネイドンを迎撃するために放たれたイルカとの直線上──。
「跳ねろ」
ネイドンが跳ねる。
「魔装 シュテファン=ボルツマン 点火」
紫色の熱線が、先頭のイルカへ直撃し爆散する。あまりの大容量を満たす魔力の篭った魔法を溶かしきれずに、またその熱の爆発に巻き込まれて残りのイルカたちも蒸発する。
白い蒸気が戦場を包む中をネイドンは突き進んだ。
「ウィンド!」
風で滞空する蒸気を散らし、結果を視認する。
「魔装 エンペラー」
ネイドンが、ベルを体内に閉じ込めた。
ベルの皮膚は体を煮る熱さに膨れ上がり、またその体はネイドンの体内に渦巻く水流に翻弄される。
あとは苦しまないうちに、トドメの一撃を撃ち込むだけだ。
「発雷・・・」
ここにきて、涙で標準が定まらない。
早く安息をと焦り、無意識にエンペラーを握らない左腕で涙を拭ってしまう。
煙にまかれた戦場であったが、視界を97の目で空間的にも時間的にも支配するシックは選局の見通しを再開している。リアムのそのわずかな隙を見逃さない。
“マルクト・ファーストエイド”
槍から剣に戻った聖剣が皮肉に癒しを与える。
“剣鈴技巧=鈴音”
挙句に、ベルの剣でネイドンは雫の一滴になるまで切り裂かれた。
一瞬の出来事だった。
“ {パトス , 発雷, 矢形先駆放電} ”
ほとんどのタイムラグなくほぼ同時にシャボン球が弾けた。
ここにきてまさかのコナーの奏鳴曲の真似事である。
一拍早いベルのエンペラーが眼前に迫る。
「矢形先駆放電」
『魔装 エンペラー・発雷』
第一撃の矢形先駆放電を肉薄の距離で避けて、さも苦し紛れに右手に持ったエンペラーを空にいるシックめがけて投げる。
「”送還電撃”」
戦場に2本の紫電が走る。
一つは地面を走り、もう一つは空へと昇る。
一瞬の駆け引きだった。
送還電撃より遥かに遅い矢形先駆放電は、空を泳ぐシックとの距離を半分にしか詰められていなかった。
一方で、聖剣エンペラーの鋒先に拳をつけたベルは、リアムが空に飛ぶまで立っていた庭の座標に立つ。
「ギィイイ」
次は何の言霊泡を弾けさせるかを組み立てながら、シックはすかさず迎撃のための涙の弾幕を落とす。
シックの鯨腹の涙は魔法の構造を蝕み脆くする。
魔法がまったく使えなくなるというわけではない。
熟練した魔法使いならば技巧で魔法を操ることは可能であるが、涙に蝕まれながらの魔法の行使は普段の何倍も多くの時間を構築に費やさせ、大きく魔力を消費させる。
ゆえに、ベルが戦っている時の使用には制限がかかる。
なぜなら自分よりも、ベルの方が遥かに強いからだ。
「高みの見物しやがって」
落下を電撃の慣性に殺された空中のリアムへ、大量の涙の雨が迫る。
『言ったろ。一人に一つとかもう古い』
鈴華の股の下の庭から、埋められたもう一つの発雷するエンペラーが強い光を放つ。
強大な力を持つ敵を前にシックは見誤った。
これは2対1のレイド戦ではない。2対2の対等な数の戦いだった。
体だけであろうとも、声を奪われていようとも、鈴華に敬意を表する直人がそこを間違う筈はなかった。
「送帰還雷撃」
自らの安全策を講じたが故に、迎撃策はない。
シックがベルの声を奪った代償を払うことになる。
あっちは2つの体に1つの思考、こっちは1つの体に2つの思考と対照的だった。
詰みだ。
「大円鏡智」
円満、完成、そして真実に辿り着いた、僕の絶対の境地。ドラゴンの力がリアムの身を満たす。
『もう、いいよね』
リアムは激突する寸前で急停止し、ふわりとやさしくベルの頭を胸の内に抱く。
「生滅」
敬意を評して魔力由来の力だけで戦った。だが最後はドラゴンの力でベルに流れていた魔力を全て吸い上げる。ホントは彼女の体には傷ひとつだってつけたくなかった。
「過去に声を残す術がないから、独りで話すね。ごめんなさい。気づいてあげられなくて・・・ごめん」
平和を謳ったそこに彼女の意志はない。だがそれでも、空っぽの造られたガワだけだとわかっていても懺悔の言葉と悲しい気持ちが溢れてとまらない。
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『私だけじゃないのに。あんなに想ってもらえるなんて、うらやましい・・・』
うらやましい。こんな感情も昔は具えていなかった。
『どうして私はこんなサイクルを作ってしまったのでしょう。これも全てはシエルの口車に乗せられたから?でも、この感情を手放したいとも思わない。私はどうなってしまえばいいの・・・どうやったらまたリアムと心を通わせることができるのだろう』
・・・どんなに思っても、彼が振り向いてくれなければ私の気持ちは一方通行だ。




