75 Rex tremendæ
息を吹き返したのは、顔もわからないどこかの誰かの再会への願いと血の抜けるだるさが残る暗い闇の中でした。
目覚めたのは、桜の大樹のある湖畔でした。
力の使い方を思い出し始めたのは、死の森に踏み込んだ夜のことでした。
わたしを思い出したのは、かつての宿敵が目覚めた時でした。
わたしが真実を話さなくてはならないと思い始めたのは、シドなる者と邂逅しギグリ・ソーを目の前にした時でした。
「ad te omnis caro veniet・・・Idea」
「クロウ」
「あの竜もどんな顔をしてあなたとリアムに向き合えばいいのかわからない。静観しかない。あの竜の考えもあなたと同じだ。彼はあの時、鷁退すら無象とする致命的な自然の暴力に逆らう力を渇望した。そして今回の彼は船を漕ぎ出し広い海の中から杳然な3頭の鯨を探し出そうとしている。水難を避ける竜頭鷁首の力、その願いがどう反映されるのか。欠けたところの多い私たちにあの弦の音は響きすぎる」
「彼らに宿主の願いなど関係はない。呼び起こされたことを期に取り込もうとするでしょう。手っ取り早いのは過去を見せることです。記憶の入り口に立つことになる。前回は彼が自力で拒絶した。ですが今回はどうなるのか。こんなことなら、あのとき、敗北してしまった方がよかった」
「それはどの時のことでしょう・・・ファウストは確実に、あなたとアンバーの存在に気づいて仕掛けてきている。あれだけ大立ち回りすれば、隠しようもないかもしれません」
「でしょうね」
「私たちには助けは求めないのですね」
「・・・そこまで無知ではありません」
「ですかね。なぜ、彼に真実を話せなかったのですか」
「せっかくあんなに楽しそうだったのに、私が壊すきっかけを作りたくはなかった」
「それは自分が求められる側だからですか?」
「世界が私に何を求めているのか、もう何もわからない」
「そうですか・・・」
「だったら傍で見届けさせてくれ」
「ハイド?静観するはずでは?」
「アマティヴィオラという船がリアムを運ぶ先を、俺たちも一緒に見届けよう」
「なぜあなたが。そもそもあなたがあの弓のことを表に出さなければ」
「リアムは何も想い起こすことなくファウストだとかに対抗し、絶望してしまうよりはと思った。俺たちにはあった機会がリアムにも与えられるべきだとも考えた。それは、リアムが俺たちという存在がどういうものかということだけは理解していると思ったからだ。アイツは自分がとても大事だから、前を向く。そうして落としてきてしまった物の諦め方のわかる人間でもある」
「つまりは、それが彼の優しさだと?」
「拾えるなら遠回りしながらでも拾うし、捨てたいと思ったら捨てられたままリアムの歩道に残るだろう」
「さてと、死した王が揃ったところで、私はこの辺りでごめん遊ばせー!」
「・・・は?」
「私はイデア、ハイド、あなた方と会話をし、許しを与え、友誼も結びましたが忠誠を尽くす者となったわけではないのです。私が隷属者ではなく支持者たりえるために、私は私の標を示してくれる者についていく。リアムだろうと直人だろうと、この命の唯名は彼です。管弦楽だろうが交響曲だろうが協奏曲だろうが、実在するのは彼のソリチュードなのですから」
イデアとハイドの視線を背中に受けながらもクロウは淀みなく血溜まりの水槽の中へと歩みを進めながら沈んでいった。
──午前10時、王都カウス・バルト。
「王よ」
「パトス」
王座にて、傍にパトスを控えさせたバルトは静かに目を閉じて心をしなやかに整える。
国防通信よりマンチェスター領の領都ステディエムにて示威運動が起こり、一時一部の参加者が暴徒化、その後も治安部隊との睨み合いが続いているとの情報が入り城内は僅かに騒ついていた。
当のマンチェスター領主のカストラは現在、貴族院出席のため王都に滞在中である。
「緊急時に己が領の傍観をしろと伝えられたカストラの心を押し図ることの難しさたるや」
「それより気掛かりなのは、あの街にはいまあの男が関わりを持っているということだ」
「・・・どうする」
「誰が糸を引いているのかはわからない。そこがはっきりするまで待てとは言わない、だから王都からの応援部隊の編成が終わり次第カストラに向かわせることを許した」
「恥じる類の無知でないことは知しているが、問題はシナリオ進行がそれまで待ってくれるようできているかどうかということだ。あの男をファウストとやらに合流させるわけにはいかん。接触をさせてはならない、そうだろパトス」
「乱流に備え、心の抵抗力を高めておけ」
「少しでも魔力を節約するとしよう」
バルトは静かに腰を玉座から浮かせ、独りで廊下を踏みしめ城の塔を登った。
午前11時、事態は急変する。
「泰然とせよ、バルト・・・我々の手番があったようだ」
「変わらず頭が高い塔だ。この魔力、あの男のだ。そしてこの威圧感は一度この目にしたことがある」
「これだけの規模の魔力の込められた超弦の行使を我々の国でただ許すわけにはいかない」
「どのみちいま叩けば行き場を失った魔力の振る舞いがどうなるか」
「叩くなら、残心の内だろう。事態の把握は一枝放った後でいい。奇襲でもしなければまともに無力化できる相手ではない。雷界集中、電測を見誤るな」
城の塔から雲一つない青空に向けて逆雷が昇る。
「電界の空の下には、民がいる」
「雷は路を通り帰還雷撃へ、そして電流は光速へ達す」
「皇帝導体」
Opus magnumの甲冑を纏った王は、静かに息を堪えてめいいっぱいに振りかぶった雷撃を放つ。
時を同じくして、リアムはエスナの台所前から泰然とメルクリウスを見上げる。
雲を突き抜ける塔。
あの麓では、現在も治安部隊とデモ隊の睨み合いが続いている。
「ナゴラスさん・・・」
「なにか手伝いがいるかな?」
「大変な時に、ひとり残していくことだけが気がかりで」
「そんなことはいい。私は我が家で待つ。君にしかできないことがあるのなら、どうか、頼む」
貫徹が約束された決意は、もう誰だろうと砕くことはできない。
「ゲート」
開いたゲートから、強風が吹き荒ぶ。
リアムは向かう風に逆らいながら歩み進める。
生のために死さえも拾い上げる。
「ジョシュ、今だけは、もういちどチェルニーと手を繋いで隣に立ってあげていてほしい」
転じて、死を生のために喜捨したのはいつのことだろう。
狙うのは、キュリーという少女。
「アニーが死んだあの日。僕は何度もあの日を思い出した」
髪がたなびき、息は地上より余計に白く霧めくれる。
旅路の中で、何度も何度も、どうすれば同じ事態に陥ったときに、僕が求めている違う結末が得られるのだろうと悩み続けた。
ゲートの先は、メルクリウスの塔のてっぺん。
「今でもあの日を思い出す、そういったことは最近はもうなかった」
これも辛い記憶を忘れさせてくれた周りの人たちのおかげだろう。
そうだろうとも。
しかし心の癒しの前、傷口を塞ぐきっかけは一人で手繰り寄せた。
きっかけはステディエムに初めて到着した時のもう少し前にあった。
既存の対策法から多くを捻りだせた訳ではなかったが、本当に差し迫ったときの解決法を一つだけ考えついたのだ。
とても気分が軽くなった。
気づいたら、少しは物事を楽しむ気になれた。
そうして山の向こうに見えたこの尖塔の高さに楽しみを求めるようになり、トンネルを抜け森を抜けて塔の全体を把握した時、僕はドキドキしていた。
「なのになぜ僕にこんな思いをさせる。思い出させる・・・」
アニーは攫われた。
壊されたくない物を盗まれた時、僕は怒りと共に焦りを感じる。
警察に任せるのが妥当、とはいえ、それは他人事であって僅かでも当事者として巻き込まれると気がまったく休まらない。
許せない。
何がって、僕にこんな感情を抱かせているお前たちがだ。
「こい」
もう一人の友は言った。射抜きたいものが絶対に射抜かれる。
「アマティヴィオラ」
その弓、放てば必中。
「アガナ・ベレア」
不失正鵠の弓。
「王よ」
「ドミナティオス・・・私は無力だ」
「ええ」
「お前は妖精族の中の自分に連なる一族の一部をリアムを手伝わせるために向かわせたな。勘のいいリアムは、都合のいい時に現れた特殊な人材を幸運混じり程度にだが察しているだろう」
「ノーマたちの件は私の謝罪の代わりにはなりませんでしょう。ビジネス風に言うのなら、私は需要のある職場に働く意欲のある労働者を引き合わせて合致する需要同士を仲介する役割を担っただけです。彼女たちは人であって菓子折りではないでしょう?」
「それで幾許の心が軽くなった」
「幾許とも」
「転圧は順調なよう。あとは下げた頭を踏まれるだけ?」
「むしろ額を擦り付けるのなら地面は柔らかい方が良いのでは?」
「・・・状況は最悪で、あの子があんなに利己的に染まってしまっているとは」
「どうみます」
「・・・わかるわけがない。神の次の標的が彼女だと誰が見破れた」
「恐れながら、それでも私は求められれば謝に応じましょうぞ」
「鳴謝、万謝、深謝、多謝、拝謝・・・もうなんでもいいか」
「言葉を矢を放つように言われて、張り詰めた弦の緊張も解けましたか」
「この頃は特に変化が激しすぎて、なんだか衰えた気分だ」
「私もです」
片や、相手の心を図ろうとする者、此方、現実でのみ会話をしようとする者。
大切な、大切な、ずっと、ずっと、ずっと、失くしてもずっと・・・忘れられなかった大切な友。
それは、ハルか遥か昔。
地に生命の種が撒かれる前の史。
「私は私・・・私は私・・・私は誰かそれは私は誰・・・」
「そんなに、そんなに何も感じないなら別にいいだろう! こっち側に来たって!!!」
「・・・それもそう・・・なの」
強敵ばかりの聖霊共の親玉はどんなエゴイストかと思っていたら、蓋を開けてみれば自分の存在すら見つけられないただの迷い人だった。
「私を真似してみなさい」
「私はシエル・・・」
「そっくりそのままとは言ってない・・・名前が必要か、それと性別も」
あそこから少しずつ、少しずつ、一緒に感情を学んできた。
まずは色々と移入しやすいよう彼女を自分と同じ女とした。すると彼女は言われたままに女になった。
「シエル・・・これは?」
「ヴェリタスとイドラの箱庭。私の元いた世界を覗いて興味をもったらしい。ここにサンクチュアリを作り、治めること、創り出すこと、見守ること、お前たちの親としてふさわしくなれるように、生命の営みを通してそういった親の気持ちをはじめ色々と学びたいのだと」
このサンクチュアリにはわざと欠陥だらけの生物を放ち、その欠陥を補っていく様子から神であるヴェリタスとイドラが認知できない自身の欠陥を知る方法を学ぼうとした。初めに精霊と最も存在的に近しい妖精、そこから獣、そして人間。
この世界に万能の魔力を操る方法が与えられたのも全ては、ヴェリタスとイドラの存在に少しでも真似て近づけるため。
しかしただ得られた結果を昇華させるだけでは、一見、生体実験場だ。
元人間の私の倫理観に、抵触する。
そして奇跡を与え続ければ創造された世界の退化が早まることが予想できたため、そこで私は彼らに創造後の世界への手出し無用の約束を結ばせた。
しかしその約束は取引へと変わり私にも2柱から条件が跳ね返ってきた。条件を出した私自身も世界には手を出さずに見守ること。その後しばらく経ったとある暦の年、目的の世界を作るために神気の特性が障害になると確信した一柱は自ら種子へと姿を変え私たちに封印させ、聖域となった場所に移り住んだ精霊たちと私もその上で静かに住らしてきた。
「エデンを管理する分霊を作ろう。分霊の名前は、ソーマ、セーマ、レテ」
「レテ、セーマ、ソーマ」
「そう、そいつらはお前の部下」
「部下・・・」
彼女こそ世界に命を根付かせる要となる。
そこで私はかねてより結ばれていたアンバーとのテスタメントを濫用してドラゴンと取引をした。
神樹の枝を折って、約束された輪廻の花=ニルヴァーナ・オブ・アンバーの種を作り出した。
私は咲いたアンバーの種を分けてもらいそこへ彼女が力を注ぐことで種は3つの芽へと発芽し、成熟した菩提樹から肉体のソーマ、無憂樹から折檻のセーマ、 娑羅双樹から忘却のレテが木の股より生まれ股肱之臣となった。
私は彼女に自分の分霊を作らせ、自分を調整させた。神にでさえ取引させた私だったが、しかし、人間の価値観が混ざる私ではどう足掻いても幼い彼女を安全に調整することはできなかったからだ。
分霊にはわたしの神から与えられた力も混ぜ込むことで、感情らしい自我が芽生えるように促した。
「ケルビム様!設計図の転写終わりました!」
「終わり・・・」
「はい、終わりました!」
「終わり・・・」
「はい、終わりました!」
「・・・終わりました?」
「はい、終わりました!!?」
分霊は思惑通りの振る舞いをしたが、彼女はそれでも不完全だった。
「そういう時は褒めてやるんだ。よく頑張った、偉い偉いって」
「褒める・・・」
彼女は何度も何度も失敗を繰り返し、初めに演じようとする努力を覚えた。
「ケルビム様!レテとソーマが!」
「だ、だって失敗したの知ったらセーマが怒るから隠蔽するしか・・・」
「覚えるのめんどくさーくてー」
「失敗した時は叱る──」
「ダメでしょ、メッ!」
次に彼女は管理することを覚えた。自分の器を分けた部下たちを見守る。
「ケルビム様大好き!」
「ずるい!私も大好きです!」
「ギュッー」
「えっと・・・」
「抱きしめられたら、抱きしめてあげる」
「よしよし・・・なにが、嬉しい・・・?」
コミュニケーションをとる楽しさを知ってからは、部下に向けられた愛にどう応えればいいのかをよく相談にきた。自我すら安定しなかった彼女に仕事を与えるとそれをこなすうちに使命を抱き、調整を覚え、やがて完成度に固執するようになり、そして慈しむことを覚えた・・・と。
そう思っていたのだが、今のイデアを覗いていると彼女は真似することの精度を上げてわたしの最初の言いつけに勤しんでいただけだったことがわかる。
「おかしいではないか! なぜそもそも我々の力を分けてやる必要があったのか──!!!」
「面白いからだと、お前も納得していた」
「だいだいなぜ我々は!・・・我々なのだ? ・・・我、で、完結、すべき、では、ない、の、か!!!」
だが、ようやく箱庭に妖精が誕生した頃、彼女をも生んだ一方の神が自ら生み出した生物と己の存在との矛盾によって狂い始めた。
「ドラゴン達、そして聖霊達・・・封印に協力してくれたこと、礼を言う」
「俺たちもようやく見つけた住処を失うと困る。いくつもの宇宙との間に穴を開いてきてようやく見つけた安息の地になり得る場所だ・・・俺たちのためだ、この宇宙の神よ」
「シエル・・・」
「ケルビム。私は聖霊の王・・・だが神に与えられた力を使い神を裏切った私は呪縛を受けてこれから神樹に縛られる」
「どうして?神は、自ら封印してくれと頼んだ。シエルは裏切ってない」
「でも最後には暴れていただろう?あれが正気ではなかったとはいえ、封印の間際にぶつけられた感情は憎悪に近い。これからも口は出せるが、もう、彼らが作った箱庭に手は出せない・・・だからこれからはお前達が率先して世界を守るんだ」
私はこの僅かにズレた次元から箱庭を見守りはすれど触れることを禁じられた存在となった。だからもう一つ、それでも封印しきれなかった漏れ出す瘴気を処理してもらうため、故郷の世界より、若くも分別があり、穢れの少ない純白に近く、なにより意志の強い好感の持てる魂を呼び、依頼した。
「本当にそんなことでいいのか・・・」
「ええ・・・」
「だけどそれだと、絶対に呼べるとは限らないが」
「別に絶対呼ばなくてはならないわけではない。私が求めるのは苦しめることじゃない・・・チャンスが欲しいだけ」
召喚した魂は私と残された神に取引を持ちかけた。だが、単刀直入に見返りを求めてきたその図太さとは正反対に、業突張りかと思えば強欲だが奥ゆかしいその取引内容ですぐに私は新しい勇者に好感を覚えた。
「グオオオオオオオオオオ!!!!!!!!」
「空間が食い破られた・・・!私の、私の子供たちが──!」
「ドミー!現在を生きる私たちができることはもっと失わないように剣を手に前進して骨が砕けようと、血管が破裂しようとぶつかって犠牲者を減らしより多くの命を守ること──!」
「ベル・・・」
「この戦争が終わったら、思い出が嗄れ尽くすまでちゃんと泣いてあげてね」
そしてやってきた結実、勇者は圧倒的な暴力の深淵との接触で劣勢に陥る。ここで打ち負ければ未来はない、そういう局面だった。
「アマティヴィオラ・ケテル──滅せ___そんな・・・私の矢を、呑んだ・・・」
「ケルビムゥヴ! お前を喰らってやる! 俺はさい、最しょに頭に巣食うコイツをッ!!!」
「そんな・・・」
「逃げてケルビム!!!」
「私は・・・」
「ケルビム様ッ!!!」
かつては悪意を持たずとも神とも逼迫しあった。そんな階位にあった負け知らずの力がなんなく呑み込まれ絶望に打ち拉がれていた彼女の体を精一杯に強く弾く肉体のある手──。
「ソーマ・・・?」
「──助けて・・・みんな」
「ソーマァァァ!!!」
その劣勢の戦場で彼女は最も信頼する部下の一人を失い、怒りと哀しみを覚えると共に思い出した。そして彼女は進言してしまった。とてつもない禁忌を、この世で彼女だけが手を出すことを許される禁じ手を、ベルに使わせた。
「我は全ての命の祖なりッ!」
そうして犠牲になることの、最後の最後に芽生えかけていた感情がベルの手によって遂に彼女に想いが咲き誇った・・・かに思えた。
「歩みを止めずに夢を見ましょう。千里の道も一歩から、始まることを信じましょう。腕を振って足を上げて休まないで歩いて・・・さようなら、お元気で・・・大好きです、みんな」
聖戦はベルたち善神側の勝利となった。だが、あの男がディアセーケーに則りわたしたちの世界に迎えられた。ベルの献身も虚しく、聖戦の苦など嘲笑うかのようにRequiem æternamの演奏が始まった。
「止めてあげられなかった」
・・・わたしの愛情を踏みつけに穢すように。
気づいたら勝手に身体が動いた。だけど勇気ある行動の後に祈るだけの刹那、もうあなたたちと一緒に笑えないかと思うと──・・・。
「元女王よ」
「アダム・・・イベントの香りがする」
「メフィストの手からファウストがすり抜けたらしい」
「紫色に染まった肉を切り裂けば、事故の起きようもないと思っていたのですけれどもね」
「胸腔に血をぶちまけて中から溺れ死んでしまえばいい」
「そうですね。でも持針器はいま預けてある・・・彼女も欺かれていたと思う?それともあえて?」
「アレに人形模型の開き壊し方も閉じ治し方も教えたのは私だ。だからこうして異変を感じ取ってお前を呼びに来た。預け先のアイツは単に驕っていたのだろう。私でも同じように驕っていただろう」
「でも彼女も彼に心酔してる」
「アリスに眠る知識は膨大だった。側だけの私の記した書物など積み上げてもアリスの蔵書の一冊分程度に霞んで見える」
「その穴を埋められる、我々には魔法がある」
「私はどうあってもまともに立ち会えない。だから・・・彼とはまともにケンカしてみたい」
「弱気。まぁ、ケルビムとドミナティオスは精霊王の中でも別格です。マルクトを介してようやく勇者が助けを借りれるくらいに、テスタメントに含む契約など以ての外だった。彼がその気になれば私たちの正体が暴かれる。けれども、種は育てたしこれからも撒き続ける。ファウストの魔法に終わったメフィスト。メフィスト自身を常に向上の努力を成す者としてファウストの魂を手に入れて、いつか主との賭けに勝てるように。Tragödieを完成させる」
「こんなに聖戦を超えて残ることができてよかったと思うのは魔法があったから。喉が低く震える・・・帽子を被せた人形が助かるためには代償が必要だった。時間がほどいてくれていた代償を無理に引っ張った皺寄せがくるだろう」
「その出来栄えに苦悩するのは製作者」
「レテにさえ辿り着かなければ贖罪できる。それは君が示してくれている。これもまた被造物の営み。神は傍観するだけだろうから我々は実績を積み上げていけばいい。そうすればシエルを殺し、創造代主になれるだろう。その後は君の理想の世界を改革するといい──ヴィクトリア・アンバーロマンス」
「エテルナム。そのためにはまず救い出さなければならない。そうして会うべき者をあるべき場所へ、あるべき者をあるべき場所へ」
消え入りそうになる思いをずっと燃やし続けながら生きてきた。
そうして両者共に、達するために取捨を行う。
そうして今日という日を迎え、今日という日を私の書にこう記録し始めておこう。
その座に最も座るべき力だけがある者が目覚めた日に、御稜威の王の選定がはじまった。
ステディエムにいる人間すべての魔力を集めても足りないであろう程の膨大な魔力がアマティヴィオラに充填されていく。
「この音は?」
前触れもなくメルクリウスの塔の上に現れた巨大な魔力の塊に、麓の民たちが戦々恐々とする間もなく、御稜威の霊弓の弦の音が響く。




