55 Indifference curve
「悲しき乙女の栄える愛。みんなはもう読んだの?」
「はい。怖くて・・・」
「だったら真剣に見るよ」
チェルニーが初めて書いた本。
物語の主人公はベッキーという女性。
未来が見えてしまう少女──物語の時代は、少女が大人になった頃。
何もかもが見えてしまう。幸せなことも苦しいことも、サプライズも。
ただし過程は見えない。ただ、結末だけが見える。
そんな彼女が、ある日、一人の男性に出会った。
彼と出会うことも、彼との行末も、その未来だけは見えなかった。
だから彼にベッキーは興味を持った。
「アイスクリームの甘さは、出来立ての一口目が一番おいしいの」
「僕は少し柔らかくなったアイスクリームの一口目を、一番おいしく感じる」
彼女にとっては、全てが新鮮だった。
本心に歯止めのない時間。
「あなたにあった頃は、出来立ての一口目の美味しさしか知らなかった。途中でハチミツやチョコレートソースをかけるとこんなにも違う美味しさを味わえるなんて」
「だったら僕はベリーをとってこよう。きっと最高のひと匙になるよ」
だが、甘い月を重ねるごとに、未来が見えない時間を愛しているのか、彼を愛しているのかわからなくなってしまう。
「あなたの作るパイと私の作るパイのどこが違うのかしら。材料の分量は全く同じなのに」
「パイの生地を重ねるのに、伸ばし棒を転がしてはダメだ。分厚く堅い最初は押して伸ばすんだ」
いつの間にか、未来を見る力が失われていた。
最後に彼女はその甘美な時を求めているのではなく、甘美な関係を求めていることに気づいた。
「あなたと出会った日のことは忘れない。けれど、同じくらい今日の日のことは忘れられない」
「愛している。これからも、永遠に」
「愛してる。これからも、永劫に」
ベッキーは、最愛の人と出会った。
「チェルニー、聞いていい。この二人は生涯を幸せで満たせたと思う?」
「それはわからない。私はこの二人の物語をここまでしか書いていないから。二人でいれば幸せだと思ったけれど、今のお兄ちゃんは、本当に幸せそうだから」
最後の2人のセリフの違いに感じ入るものがある。消えゆく最後の力でベッキーはその結婚の結末を見たのか、それとも、未来永劫を語ったのか。
そして、ちょっぴりむず痒い。
物語の所々に、既視感があった。
「繰り返すけど財を一単位としてみる癖、転じて一という単位を置く考えは為替とか他の色々な事にも通じる大事な考え方だから脳に馴染ませるように。そしてこれまでの話をみんなにわかりやすく噛み砕くと、初めての体験ほど甘い蜜はない。これを限界効用逓減の法則といいます。また、前回学んだ上級下級ギッフェン財と時折話してる技術革新との関係も考えてみるように。繰り返すが、財を・・・」
「一単位としてみる」
「そう、スローに三点。そして多角的な比較対象を用意して分析してみる姿勢を心がけましょう。因みに、限界という言葉は消費等の頭にも付いてましたね。限界と効用、授業内でこの二つの理解を簡単に説明する言葉を使いました。では問題です。限界効用は簡単に説明する言葉で表すとどうなるでしょう。それじゃあ、チェルニー」
「えっと・・・満足度?」
「よくできました。では次に、エッジワースボックスを──」
彼女はちゃんと体験を作品の中へ昇華させていた。
みんなに教えていた時間は、僕の成長にも繋がった。
人に教えたりすることは前世でもまあまああった。
しかしカレンダーとスローの教育に関しては音速で飛ばしたから例えば、転じてや因みにを多用し言葉のプロットを絞って本質の理解以外の理解を極力削ぎ落とす努力をした、とか。久しぶりにこんなに工夫を凝らした。
今はカレンダーとスローは湊花に付いて実務的な勉強をしている。
あと食べ物の例えが多いのも僕のせいかも。
魔法箱の貸出営業の資料作りのために、エクレアとコロネを招いた。
「フイユタージュはデトランプとバターで層を作る。折ったばかりだと分厚くて層の厚さが均等になりにくいから、転がすんじゃなくて押すんだよ」
「はい、コロネさん」
3段の長方形のミルフィーユでカスタードとストロベリーを挟んで、生クリームとストロベリーで飾りつけ刻んだミントと粉砂糖を散らしたストロベリーミルフィーユ。
「少し溶けたバニラアイスを添える。さらに上からチョコソースを」
「この人でなしー!こんな2度美味しいなんてズルいぞ!」
「ジョシュは甘いものを食べた時の反応が面白いよな」
「そういうラディこそ、胸元がパイカスでいっぱいだぞ。慌てて食べるなよ」
「・・・カスタードを口元につけてるお前には言われたくないな」
「なんだと!?──危ない危ない、食べ残すとこだった」
「そっちかよ!」
二度美味しい、工夫の技術、財の革新。
「会社の名前はMy First book、いいでしょ。そして、この著作物を出版する権利が欲しい。会社が設立されたら、契約を結んでくれないかな」
「はい!」
「よかった。それからノーフォークにいく予定があるんだけど一緒にどうだろう。ジョシュも誘って」
その日の晩、深い夜──。
『メデューサ・・・呪われた奇跡の子』
夜の10時から4時までの時間は、スカイパスに飛行制限がかかる。
遮る飛び物のない満点の星空がメルクリウスを彩る様は、塔の大木に溶ける空の枝葉に、星を飾りつけたように美しい。
周りを山々が囲む地形ならでは、ステディエムはメルクリウスの樹木の影のゆりかごの中で寝静まる。
「うはははははっ!リヴァプールで仕入れた魚の売上で買ったロマンス製の新しいペン!この滑らかな書き心地、ああ、会計の手が止まらない!」
まぁ、ちゃっかりとリアムには売上の3割を払うことになっているんだけどさ。
「それはよかった。どうぞこれからもリアムの力になってあげてください」
ウォーカー商会ステディエム支部の宿所の3階、鍵付きの扉が軋む。
「・・・お前は。どうしてだ、俺が気づかなかった?」
「どうやって忍び込んだか説明が必要でしょうか」
「いらない。だけどなんだ・・・お前は、リアムなのか?」
真っ白に染まった髪、緑色の瞳、笑うと際立つまつ毛の長さとえくぼのない滑らかな口元を含む圧が、胸を刺す刃物となり切っ先が心の臓を撫でているように感じる。
「マジマジと見られるのは初めてでしたか?まぁ、あなたは私がスクールで代理をしていた間は引きこもっていましたからね」
「マジマジとな。一応、何回か見てるから。こんなに落ち着いて向き合うのが初めてってだけ」
「見惚れましたか?」
「まぁな。レイアは幼さがあって可愛らしいが、お前はそんなレイアを麗しくしたようだ。気品がある。そんな人を小馬鹿にするようなすかしたオーラはリアムからは感じない。あいつの人を小馬鹿にした態度にはこちらの肩の荷を手でもぎりとってその口に詰めてやりたいくらいゲンナリする親しみがある」
部屋灯りはぼんやりとしたオレンジ色の魔法灯だけ。
友人のリアムも好き好んで調光する薄暗さだった。
「今日はあなたに内密のお話があって尋ねました」
「リアムにも?」
「そうです。話を始める前に──」
イデアが手を横に何もない空間を紹介すると、そこへ注がれた彼女の魔力が人の形へと形成されていく。
「初めまして。実に人間っぽい挨拶の仕方だ」
「リアムじゃないのな」
「ベースはこいつだからな」
部屋の暗さに協調するかのような赤に深いオレンジ色の瞳、髪を伸ばして、余計なものが少し削ぎ落とされているが姿はリアムだ。だけどリアムとは違う。双子と言われたらわからない、そのくらいには骨格と肉付きが似ている。
「今日はあなたにハイドと契約を結んでいただきたく参りました」
「契約・・・ストップ。あー、そのー・・・どうして?」
「本題に入っても?」
「続けてくれ」
「お前はリアムが何者か知っていたな」
「ああ」
「イデア、契約の説明を頼む」
「はい。これまで神はいくつかの契約を結んできました。神と原初の勇者の契約、神と竜王の契約、神と聖霊王の契約、神と精霊王たちの契約。なお、最初に結ばれた神と原初の勇者の契約をテスタメンタムと呼び、他の代理者たる原初の勇者と結ばれた契約をテスタメントと呼びます」
「・・・なぁ、神ってさマジでいるの」
「います。そしてここで着目すべきは原初の勇者の」
「だったらさ、どっちが誰と契約したんだ」
「・・・驚嘆に値します。素晴らしい。原初の勇者はヴェリタスとイドラと契約を交わし、ベルは善神と契約をしました」
契約者に目がいく。勘がいい。この言い回しの意味にまで気づくことはないと信じたい。
「そして、テスタメントはコントラクトに至る。あなたにも覚えがあるでしょう。ゲンガーです。人と精霊の契約コントラクトは神と精霊王たちの契約はテスタメントより生じる。ここで問います。規約・契約を経て新しい事態に発展した時、対処すべき事態が生まれた。さて、あなたはどうしますか?」
「利用規約を変える、及び、合意に至る契約へ更新するか、別の契約を結んで取り決めをする」
「その通り。すなわち、神が神の被造物たるあなた方と新たに結ぶ契約はない。よって精霊を通して結ばれ力を与えられる。しかし、そんな神と対等でもないのに契約を結べる者たちがいる。史上、人でありながら神と契約を交わした者がもう一人だけいる。ディアセーケーという特別な契約です」
「なぜそれだけ特別視される?」
「契約の成就の困難さに比べ対価たり得ないその報酬がちっぽけであまりにも曖昧だったから、とでもしておきましょう。天秤が壊れている状態で交わされた契約です」
「なぁ、普通にテスタメンタムが特別だからってことじゃないのか」
「ハイド、あなた説明は私に任せると言いましたよね」
「いいじゃん別に、お前はたかが仲介者だろ」
「・・・だからです。ゲイル。契約にはそのディアセーケーを応用します」
「契約の形式は概念的だがなんとなく。頭を整理したい。一先ず次だ。肝心の内容は?」
「話が早くて助かります」
「リアムを夢から起こさないといけないからな。内容は俺が提示する。リアムを信頼しろ。なお、契約についてリアムに伝わることを禁じる。それから今晩イデアが行動を開始して、また、行動を終えるまでを以ってその間のイデアとハイドの両者の記憶の漏出を防ぐためならば何人たりとも嘘をつくことが許されるものとする」
「なんだそりゃ。契約を濫用したいんだろう。神罰下りそうだからだから嫌だ」
「それは大丈夫でしょう。何せその神が先に契約を濫用したんですから」
「は?」
「今日の契約はリアムやアマティヴィオラでも破れない。そして誓います。今晩私たちはあなたに会いに来て無事に帰る目的を遂げるため以外のことを一切していませんし、しません」
「俺もついでに誓おう。この仲介人が言っていることは本当だ」
「・・・無条件に信じるのも癪だが」
「では契約の内容にその文言も付け足しましょう。その申し出が虚偽だった場合、どうしたいですか」
「俺に頭を下げて謝るようリアムを説得しろ。理由を説明することは許さない」
「わかりました」
「ところで、喉にナイフを突き立てろと言われたら信頼してそうしろというのか?」
「具体的な文言はここで詰めるつもりでした。ハイド」
「まず俺が裏切りではなく信頼という言葉を使ったことを察してほしい」
「この裏切り者共め。俺にだけ隠し続けろと言ってるくせに」
「言ってくれる」
「だったら、”リアムの友であれ”でいいだろう。友なら敵になることもできるし味方になることもできる。いざって時に助け合える」
「信頼していれば敵にだってなれるだろう。俺が言った信頼しろとどう違う」
「友達を辞めれない。友達ってのは辞められる。距離が空いても友達だ。裏切っても和解ができるしそう努力する。時が遠ざかろうと友達だ。友達ったら友達なんだよ。間違った判断をしてると思っても信頼しろは違うだろう」
「そうか。俺はその辺疎いからな。説明感謝しよう」
「で?」
「のった。いいじゃないか」
「ただし、リアムから友達を辞めた時はその限りではないとしてくれ」
「辞められる、わけだ。・・・イデア、お前がこいつと契約したらどうだ?」
「無理だとわかっていてまだ言いますか。世界が壊れてもいいんですか」
「ゲイル、仲介人がお冠だ。手早く契約を進め──」
「まった。変な話だ。俺の得る対価はないのか?例えば、お前たちはリアムを裏切るな、とか」
「こいつムカつくな。お前みたいだぞ」
「失礼な。私はこんなに可愛いのに」
「失礼な。俺はこんなにカッコいいのに」
「お前たちが契約したらどうだ」
「御免こうむる」
「ゴメン被ります。ゲイル、あなたは諾約者です。ディアセーケーでは──・・・は、第三者のためにする契約の側面を持ちます」
「態と内容を話し終わるまで伏せていたな」
「はい」
「特別な理由って絶対にそれだろ」
「はい」
「対等ではないのな」
「対等です。ハイドは要約者、ゲイルが諾約者、そしてリアムが受益者。対等な立場で第三者の受益を求める。そして、お互いの利益に繋がるようには選択ができる」
「と言っても、お前たちとリアムは一心同体だろう」
「心が一つならよかったとは言えない。ですが、私たちはリアムと共にあります。あくまでも第三者でなければならないのです。これは、恩を返すため」
ゲイルはイデアの一言目に冷や汗をかいた。
あの時のリアムへの借りがまだ残っていると言われた気がしたからだ。
「家族を除くとリアムが一番感謝をしているのが、あなただからです」
「俺?」
「そうです」
「そこまでして、どうして俺を繋ぎ止めておきたいんだ。なんか土壇場だろうお前ら」
「恩を返すため。リアムがキチンと恩を返せるようにしたいんです」
なぜ、リアムが俺に恩を返すことがある。俺はアイツにたくさん迷惑をかけたのに。
「補償もない、恩とやら以外の対価も選べない。メリットはリアムの頭の中にあるって、やっぱりお前ら一心同体じゃないか・・・第三者のためなんだな」
「はい」
「だったらそれを誓え。俺の自由にかけて」
「絶対にあなたの利益を保証するものではありませんよ」
「商いの契約とはそういうものだ」
「ありがとうございます。私、イデアはリアム・ハワードの幸せのためにあなたの自由をいただきます」
「ハイドはリアムの心のあるままにゲイルの自由が報われんことを願い、誓おう」
「それじゃあ・・・あ、一応、紙にしてくれる?」
「・・・神?」
「イデアお前つまんないぞ」
「や、いやですねー、合意を祝ってここは笑いを一つと思っただけです」
「素だな」
「では今のジョークも素ではないと誓ってさしあげましょうか?」
「そこまでしなくていい。格が下がる」
「なら私は無罪ですね。さて、ゲイル。あなたの希望通り紙には起こしますが、この契約はお互いの魂に刻まれる契約です。ですから私たちに控えは入りませんし、あなたが紙を燃やしても契約が破棄されることはありません」
「いいんだ。俺の自己満足だから」
彼らはそれほど現実めいた虚像だった。
「ここに、神と神の子の契約はなりました」
「・・・神と神の子?」
「応用に伴う形式的なものです。それでは私たちはこれで──」
ハイドは影もなく消えて、イデアは出口へ消えた。
『すまない。俺だってこの話を持ちかけられてディアセーケーについて知った。もう手遅れだった・・・だからなかったことにするしかない』
手元に残る紙、これが夢ではなかったことをしらしめてくれる。
「ハイドとイデア・・・2・・・ヴェリタスとイドラ___まさか!・・・いや、ないか」
魂のままに、今はアイツらを信じたことが間違ってないと信じよう・・・大丈夫だよな。




